「神の愛は必ず勝利する」
2009年8月23日
テキスト マタイによる福音書 第5章38~42節
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
マタイによる福音書に記されています主イエスが山の上でされた説教を聴いて、礼拝を捧げています。山上の説教として大変有名な個所です。しかし、有名だから、よく親しまれ、理解されているとは限りません。むしろ、誤解され、自分勝手な理解、解釈がそのままにされてきたかもしれません。とりわけ、今朝与えられている個所もまた、有名であり、それだけに、誤解もされてきたと思います。キリスト教をからかう人たちや、批判する人々もまた、しばしばこの個所を取り上げるからです。
たとえば、「悪人に手向かってはならない。」もしも、それが、字義通りの要求であれば、それは、やはり異常な教え、掟と言わざるを得ないと思うのです。私たちの法律にも、自分の命を悪人から守るために防衛すること、そのために、逆に殺してしまう場合にも、なお、それを正当防衛とし、権利として認められています。当然のことかと思います。もしも一切、悪人に手向かわないということが行われたら、この世の中はどのようになるでしょうか。
最近の説教でもご紹介しましたが、ローマ・カトリック教会の社会教説をまとめた公式文書にも、「正当防衛」の項目が3ページにわたって記されています。つまり、「悪人に手向かってはならない。」という主イエスの命令を、教会は文字どおりには、解釈していないということになると思います。もとより、これを文字通り実行すると、主張する教派があります。しかしそれは、ごくわずかで、歴史の中では、セクトと呼ばれた人々であったと思います。
さて、先ず、『目には目を、歯には歯を』という掟について学びましょう。この掟は、出エジプト記、そして申命記にも記されています。出エジプト記第21章23節以下にこうあります。「もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。人が自分の男奴隷あるいは女奴隷の目を打って、目がつぶれた場合、その目の償いとして、その者を自由にして去らせねばならない。もし、自分の男奴隷あるいは女奴隷の歯を折った場合、その歯の償いとして、その者を自由に去らせねばならない。」
これを読んですぐに分かるであろうことは、この掟は、弱い者を守ろうとするまさに良い法の精神に溢れているということです。悪い法、法律とは、権力者の都合のよい法律ということです。強い者の特権を守り、拡大させるための法律です。しかしここには、弱者への配慮が満ちています。奴隷の歯を負ったなら、それを自由に去らせる。これは、すごいことではないでしょうか。もとより、奴隷という制度は、今日、到底受け入れ、許されるべきではありません。しかし3000年も昔のユダヤの社会では、奴隷を保護する、今日でいえば、奴隷の人権に配慮すべきこと、たとい主人であっても横暴な扱いは許されていないということです。実に、アメリカの奴隷解放運動が実ったのは、20世紀も後半のことだったことを思えば、この法律が、どれほど、弱い立場の人々に優しいのかと思います。昔の方がもっと、進んでいると思わざるを得ません。
しかしある人は、「目には目で、歯には歯で」などというのは、極めて野蛮な法律ではないかと批判します。しかし、それは、まったく的外れと言わなければなりません。むしろ極めて理性的です。なぜなら、我々の社会、いへ、自分自身を振り返って、自分がなにも悪くないのに、相手から一方的に悪いことをされて損害を被ったとしましょう。文字通り、自分には何の落ち度もないのに、目をえぐり取られたとしましょう。歯を折られたとしましょう。そのとき、私どももまた、すぐに、かっと来て、「そんな不届きな、悪者は放ってはおけない」と言って、すぐに反撃、仕返しをしたくなるのではないでしょうか。そしてここが問題ですが、その時には、「倍返し」でもまだ足らないと思うほど憎しみ、怒りがわくのではないでしょうか。しかし、そのような怒りに震えるときにこそ、この掟は、私どもの激情を抑えるのです。決して感情にまかせて仕返しをすることを許さないのです。
大切なことは、この掟に導かれると、実は、もしかすると、ひょっとして自分の方にも何かの問題、原因があったのかもしれないと、冷静に、落ち着いて、理性を取り戻して判断する可能性が生じるわけです。それを目指すための掟とも言えるかと思います。それが、旧約聖書の知恵なのです。もしも、私たちの社会に、この教えが浸透し、有効なものとなるのであれば、おそらくは、これほどまでに戦争や紛争、テロが頻発することもないと思います。
さて、主イエスは、これまでも語られて来た通りの真理を明らかにされます。つまり、主イエスが掲げられた掟は、旧約聖書の掟と矛盾するのでは決してなく、旧約聖書に明らかにされた神の掟、御心を正しく徹底する道を指し示したということです。「悪人に手向かってはならない。」という教えもまた、まったくその通りに受け止められるべきなのです。
主イエスは、この教えを、三つの実例を挙げて、語られます。第一は、これです。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」右の頬を打つということに少しこだわります。通常、右利きの人が多いと言われていますが、利き腕が右の人が相手を殴るとすると、左の頬にあたります。ですから、右の頬というのは、アレっと思うのです。やはり特別の意味を見つけることができると思います。これは、ユダヤ人独特の仕方だと言われているのです。つまり、手のひらでビンタをするのではなく、手の甲で軽く叩くというのです。それは、何を意味するかと申しますと、相手を侮蔑する行為であると言われます。「お前などは、殴る値打もない」ということを意味するそうです。手の甲で頬に触れるのは、その人の人間性を軽蔑する行為なのです。
おそらくこの福音書の第一の読者は、ユダヤ人キリスト者でしたから、よく分かったと思います。読者の中には、自分がキリスト者になったということで、ユダヤ人の仲間から軽蔑され、このようにされた人も、もしかしたらいたのかもしれません。その時に、主イエスは、それを避けることはない。そのようにされることを受け入れなさいと仰ったわけです。
20世紀のある哲学者は、キリスト教を批判し、憎みました。彼自身が、牧師の子弟でした。いささか乱暴なまとめ方かもしれませんが、彼はこう主張しました。「キリスト教は奴隷の宗教だ。弱い者の宗教だ。弱い者たちが、力ある者たちを妬んでいる。そのような教えだ。それが、人類をダメにした。」私どもから言えば見当違いな教えです。しかも大変悲惨な影響を歴史に及ぼすこととなりました。ナチスドイツの問題です。しかし、そもそもニーチェは、勘違いしたのではないでしょうか。主イエスは、こう仰ってはおられません。「右の頬を打たれても、だまって我慢しなさい。ぐっと、こらえていなさい。神が復讐されるから。」むしろ、我慢するのではなく、積極的に相手がしたいことをさせなさいと、想像を絶するようなことを命じられたのです。
それは、第二、第三の実例でも、同じことです。「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」下着を取ろうとする、というのも、いささかおかしな表現です。おいはぎが、襲うなら、先ず、上着をはぐのではないかと思うからです。しかし、ユダヤの風土において、上着をはぐというのは、その人を殺すということになると、ある人は言います。なぜなら、夜になると冷えるからです。いくら乱暴で、情け容赦のないおいはぎであっても、普通は、上着だけは残してやるものだと言うわけです。そうすると、主イエスは、ここでもまさに驚くべきことを仰ったわけです。文字通り解釈すれば、「命すら与えてやっても良いではないか。」ということになります。
第三の命令は、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」です。この御言葉もまた、読者には、まったく他人事ではありませんでした。彼らは、ローマ帝国の支配下に置かれていました。ユダヤ人は、一種の独立国家として「かろうじて」認められていました。しかし、そのかろうじてということも、結局、終わってしまい、紀元70年には、エルサレム神殿は破壊され、彼らは自分たちの領土を失ってしまいます。そのような緊迫した歴史の中で、彼らは、現実として、ローマから派遣された総督の意のままに、支配されることを余儀なくされています。兵役に駆りだされ、労役に駆り出されることもしばしばだったようです。ローマの兵隊が、「さあ、一ミリオン、これを運んで行け」とうむをも言わせずに荷物の運搬を命じる、強いるのです。
8月の日本。敗戦記念日が終われば、あの戦争の悲惨をまた、マスコミは取り上げなくなります。あの昔、日本は、徴兵制度がしかれていました。「赤紙」一枚で、誰もが、戦地へと駆り出されたのです。赤い紙が、郵送されたら、どんなことがあっても、出発させられる。迷う暇も、自由も、権利もないのです。まさに強制です。それが「強いる」ということです。つまり、人間にとって、「強いる」「強制する」ということは、人間をして人間であることを、そこでやめさせるようなことに他なりません。たった一枚の赤い紙で、自分の意思、自分の判断、自分の感情までも、終わらせられる。強制終了させられる。屈服させられてしまうのです。そしてまさに奴隷のように、引いて行かれるのです。それが、嫌なら、赤紙を喜ぶように、考え方を変えるしか方法はないわけです。「赤紙を頂いて、戦地に行けるのは名誉なことだ、万歳、そこで天皇のため、お国のために死ねるなら、最高の栄誉だ」そう教えられたまま、うなづくしかないわけです。そうやって、力づくで、わたしたちの親、祖父たちの世代は、国家権力に強いられたのでした。しかも、まさに恐るべきことは、そこでそれこそが、光栄なことであると、私どもの感情を逆転させるような宗教装置をつくったのです。それが、「靖国神社」でした。お国のため、天皇のために死ぬことを名誉にする、国がつくった宗教の教えは、先ず、子どもたちに植え付けられました。それが、「教育勅語」です。1937年の「国体の本義」という教科書によって、その教えは完成されました。
この福音書を最初に読んだ当時の人々には、ローマの命令、皇帝の命令は絶対です。運が悪いとあきらめるしかないわけです。それがいやなら、ローマの役に立てたことを光栄に思うことにする。しかし、純粋な、誠実なユダヤ人であれば、そのようなことはできるわけがありません。
ところが、主イエスは、まさに、そこで、二ミリオン行きなさいと仰ったのです。ありえないような、異常な、異様な教えです。
普通は、強制されたら、いやいやでも一ミリオン行くしかありません。しかし、それを二ミリオン行くということは、何を言おうとしたのでしょうか。それは、強制されてではなくしなさいという意味です。奴隷のようにいやいやではなく、顔で笑って心で泣いて一ミリオンだけ進むのではなく、自分の意思で、しかも喜んで進み行けと仰ったのです。
人間の尊厳、人格、人権を重んじ、これを世界に、歴史に明らかにしたのが、キリスト教のはずです。それなのになぜ、ここで主イエスが、人権を破壊する、無視するような強制に、そのような対応をするのでしょうか。むしろ、そこで立ち上がって、人間を、強制すること、思想や信条、表現の自由を奪うことは許されないのだぞと叫ぶべきではないでしょうか。確かにその通りです。
しかし、ここで、主イエスが仰りたいことは、もっと深いことなのです。もっともっと大切な、人間にとって根本的に大切な真理なのです。恐ろしいまでに深い福音の真理なのです。いったいそれは何でしょうか・・・。
主イエスは、キリスト者である弟子たち、またその弟子によって導かれてキリスト者になった読者たち、さらに今ここで礼拝する私どもに何を、伝えようとなさるのでしょうか。それを考えるとき、いつものように、ここでも大切なことがあります。それは、この教えを語られた主イエス・キリストとは誰か、どなたかということです。つまり、この主イエスは、私どもに何をしてくださったのかということです。
8月の初旬、毎年のことですが、学生さんたちの試験の採点をしました。レポートを書いてもらうのですが、丁寧に読みますから、これは、大変な作業です。学期には、毎週、学生たちのレポートを読みます。そこで、キリスト教や聖書の教えを初めて知った人たちの多くが、実は、このような感想を寄せるのです。「キリスト教やイエスさまの教えは、よい教えであることが分かった。それは、やはり認める。応援もしたいほどだ。世界で、特に今の日本に、このイエスの教えが、広がれば、多くの問題は解決するのではないか。少なくとも、今の悲惨は小さくなるのではないか。」
このようなコメントは、一つには、学生の立場ですから、あまり牧師である教師に反発させるのも気が引けるという状況があると思います。しかし、また、率直な思いなのだとも考えています。実はわたしは、それらを、最初に読んだ時、とても肯定的に受け止めていました。ところが、毎年、このようなコメントを読むのです。やがて、悟りました。まさに、ここにこそ、人間の罪が、この説教で明らかにされる罪の問題があると、気づきました。
つまり、イエスの教えは、良いおしえではある。認める。しかし彼ら自身は、この教えを実践しようと志さないのです。自分は、その教えに、賛成である。それだけで、どこか安心してしまっているのです。どこか、自分の正しさ、自分の心のまっとうさ、純粋さ、正義感が満たされ、評価されるような思いがするのでしょう。
しかし、問題はまさにそこなのです。これは、山上の説教の結論のみことばですが、「わたしの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」聞いて終わるのです。
毎年恒例の中部中会の平和集会は、今年も7月に開催されました。今年は、初めてキリスト者ではない講師をお招きしました。靖国問題やその他においても国家の罪を鋭くえぐり、分かりやすく人々に説明する優れた哲学者の○○教授です。この先生はしかし、いかなる犠牲をも、評価できないと主張される方でもあります。何よりも国家が一人一人に国家のために犠牲を強いる在り方、これを鋭く攻撃されます。それは、私どもの問題意識、キリスト教の価値観からもまったく同じです。その意味で、キリスト者に紙一重と自他ともにお認めになられる哲学者です。しかしやはり、紙一重の壁があります。それこそは、主イエス・キリストの犠牲です。確かに、すべての犠牲を否定する、そうでなければ、国家の戦争のような巨悪に対抗できないという、主張は、歴史を見れば、説得力があります。しかし、私どもは、それに決して頷けないのです。
実に、主イエスは、私どものために、犠牲の代価となられました。イエスさまが、私どもの罪の支払うべき報酬としての死、神の刑罰をその命をもって支払ってくださったのです。主イエスがそれをしなければならない謂われは、まったくありません。一ミリオンで十分です。いへ、イエスさまは御子なる神です。永遠の神。天の高きにいます神でいらっしゃいます。ですから、一ミリオンでも強いられて歩く必要も全くありません。つまり、わざわざ、地上まで、私どもの悲惨な罪深い世界まで降りてくる必要は、一切ありません。主イエスご自身のうちには、強いられてもしかたがない弱み、負債、負い目は、まったくありません。しかし、降りてくださったのです。
それなら、もうそれだけで十分すぎるはずです。ところが、です。主イエスは、そこでとどまらずに、二ミリオンも三ミリオンも、喜んで進み行かれます。結局、どこまで進み行かれたのでしょうか。それは、地獄までです。神が行くべき場所ではないところです。命の神が、死の川波を超えて行かれたのです。それは、私どもの犠牲となってくださるためでした。私どもの身代わりになるためでした。それなくしては、私どもが滅んでしまうからです。しかし主イエスは私どもが決して、その滅びを味わわなくて済むように、人となられた神の御子が、苦しみ、御血を流し、死んでくださったのです。
私どもは、このお方の犠牲のゆえにのみ、真実に生きられるのです。あらゆる苦難の中に、どうしてこんなことがわたしの人生の中に起こるのかという不条理のなかに、しかし、絶望しない人生が可能となったのです。どうして生まれながらにハンディがあるのか、不公平な境遇があるのか。その問いのままでしかし、そこでいやいやではなく、積極的に生きる可能性が開かれるのです。なぜでしょうか。主イエスが共にいらっしゃるからです。父なる神が、御子を犠牲にされることをよしとされたからです。そこに限りない神の愛、極みまでの愛があるから、それを知ったからです。この愛の中で、自分の人生を受け止めなおすことができるからです。
そのとき、もはや、ここでの主イエスの説教を、よいお話、教えで済ませらることはできません。主イエスさまのご受難を知っているからです。この主イエスが、私どもに呼びかけられたのです。「あなたも、そうしなさい。わたしの犠牲の中で生きなさい。神の愛にこたえて生きる生き方は、勝利するのだ。」こうして、私どもは、自分の人生を受け入れるのです。それは、決して奴隷的な、弱々しいあり方ではありません。自分の不幸、マイナスでさへも、受け入れるのです。しかも、主イエスの愛、神の愛をそこでなお信じるのです。それこそが、まさに、自分を愛する道、あの20世紀の哲学者が「運命愛」と言ったより、はるかに確実な道、はるかに勇気のある生き方ではないでしょうか。
この日本の中で、愛に生きようとする人、誰かの助けになり、役に立ちたいと願うとき、それはおそらく、多くの人が拍手するような、ひのき舞台の上にあがることではありません。むしろ、誰もみていないところで、しかし、そこに、神に赦され、愛されている自分の神への感謝として捧げられる奉仕、働きがあると思います。そのような働きは、何もキリスト者だけではないとも思います。しかし、私どもは、神への感謝としてするのです。いやいやするのではなく、喜んでする。それはただ、主イエスがこのわたしに、そうしてくださったからです。
繰り返されるこの非常識な教え、山上の説教、しかしこれは、まさに主イエスが
私どもになしてくださった愛のみ業に他なりません。主イエスの命がけの教えです。そして、主イエスの救いと愛の恵みを受けた私どもだからこそ、この教えへと奮い立たされるのです。それが、できたかできないか、それが問われるのではありません。いへ、問われてもよいでしょう。しかし、問題は、実際に、そのように主イエスに応えて生きるかどうかです。私のことを申しますと、まさに失敗の連続、敗北の連続です。しかし、めげてはいません。どんなに、失敗しても、主イエスがそこで、私を見捨てることはないと信じるからです。そして、事実、お見捨てになどなられず、主の恵みは、こんな者にも豊かだからです。主イエスの愛、神の愛は、わたしにも勝利して下さるのです。そして、この教えこそが、私どもの教会の交わりを建て上げるのです。そればかりか、まさに世界に必要なのです。私どもは、私どもの勝利ではなく、主イエスの勝利を信じて、この御言葉を生きることが許されているのです。
祈祷
天のお父さま、あなたは、私どもを救うために、罪を赦し、神の子とするために、独り子イエスを、十字架で犠牲にされました。その唯一の犠牲こそが、私どもの人間の尊厳を取り戻す道でした。もはや、いかなる権力にも、あなたらから賜った尊厳を奪われてならないと分かりました。同時に、私どもが、その尊厳を生きることが、自分の権利や主張にこだわって、共に生きる仲間を押しのけることになってはならないことも、教えられました。どうぞ、主イエスの教えの傍観者にならないようにしてください。主に命をかけて愛された者として、喜んで二ミリオン進む生き方へと、踏み出させて下さい。もとより、自分の力でできるものは一人もおりません。主イエスの十字架を仰ぎ、聖霊の力を受けて、一歩でも踏み出す者とならせて下さい。 アーメン