過去の投稿2009年12月7日

12月6日

★   先週のディアコニア委員会は19名が出席され、充実した、恵まれたときを持つことができました。繰り返しで記しますが、現住陪餐会員は、すべてディアコニア委員会の委員です。つまり、ディアコニアへと召された者が、キリスト者、教会員であるということです。教会のディアコニアを担うために、この委員会は、極めて大切です。今回は、第一部として、○○委員が「教会の言葉」を順々と解説されました。よく準備をなさって臨まれたことと思います。教会の言葉、それは、まさに名古屋岩の上教会の過去と現在、そして将来をも見通すことのできる言葉です。私どもの自負は、言葉が「浮いていない」ことと思います。そこに記された言葉は、実は、普遍的な、あまりに普遍的とも言える言葉です。教会の歴史、なによりも教会の改革者たちから受けついた信仰の言葉、改革派の伝統を継承する言葉です。その言葉を「体得」する努力を励みました。-新しい言葉、「ディアコニア」については「始めます。」と率直に、これからの課題であることを言い表しています-

いささか失礼ですが、見事に解説された○○委員でしたが、兄弟との最初の出会いの印象は、今回のお姿を想像することは容易ではありませんでした。「信仰を言語化する」こと。これには、時間がかかります。しかし、極めて大切なことです。長老や執事には、必須です。まだ、受洗後「数年」の兄妹には、難しいこともあります。(あわてることはありません)しかし、もしも、そのことを目指して教会の訓練を率先して受けなければ、十年経っても、数十年経っても、そこに至ることもなく・・・という可能性もあります。祈祷会や読書会、これが生命的に大切です。出ていながら、神のしもべ、キリストの弟子、兵卒として整えられなかったら、それは、牧師の責任!です。その程度の教育しか施せていないのでしょう。しかし、出席して頂かなければ、施しようがありませんから、祈祷会や読書会に出席することは会員の責任です。神の前の責任です。

    キリスト者であること、これを生きること、それは、神から与えられた務め、賜物ですから、神に報告する責任と義務が生じます。これをいい加減にすることはできません。最後の審判で、「そうか、責任ある【務め】であったか・・・」と気づくなら、遅いのです。すでに個人的な取り組みとしてディアコニアを実践している仲間たちの報告も伺いました。教会のディアコニアの報告も伺いました。私どもは、御言葉によって押し出され、御言葉に従う限り、ディアコニアとなることを信じています。そうであれば、実践は、常に、御言葉によって養われ、励まされ、正され、修正され、継続されて行きます。御言葉の養いを豊かに求めてまいりましょう。

☆   洗礼入会、加入者のお二人と一緒の学びをしています。これまで、一度に4名の洗礼入会者が与えられたときも、一対一で行いました。お二人とも、入会後もなお「子どもカテキズム」を学んで頂きます。本日は試問会です。試問会は、誓約事項を確認するときです。いつも、最後に申し上げることですが(どうぞ、思い出して下さい!)「試問会は、牧師自身が、神に問われるときです。よき羊飼いは、羊のために命を捨てる。」「わたしの羊を養いなさい。」○○さんを会員として迎え入れるとは、名古屋岩の上教会が新しくなることです。単に人数が増えるのではなく、キリストの体の肢体が増えること、もはや、○○さんなしには、名古屋岩の上教会ではなくなる・・・。わたしも、○○さんの牧師になる。そのことを表明する・・・。」既に会員とされた皆様も、降誕祭主日礼拝式にて改めて、あのときの、思い、誓約、恵み、喜び、感激を新たにさせて頂きましょう。

★    「神を主語にして生きる、これがキリスト者です。」志願者の方との学び会で、久しぶりにこの表現を用いました。これまでの人生は、主人公は「わたし」でした。自己中心、エゴイズムとしての「わたし」が自分のアルジ・主でした。その「わたし」とは、自己中心という点では、ブレのないあり方を貫かれましたが、真実の「わたし」あるべき「わたし」を見失った、右顧左眄し、世に流され、さまよっていた存在でした。しかし、聖霊なる神が、「悔い改め」の恵みを与えて下さったのです。この神へと方向を転換する、考え、生き方を180度転回させていただくことこそ、キリスト者の最初であり最後です。信仰とは、生涯にわたってキリストへと悔い改めることです。新しくされる、され続けるのです。

☆   先週の定期会で、来年度からの議長選挙があり、選ばれました。新しい奉仕、しかも時間も内容も、これまでとは異質の奉仕となるかと思います。加入後10年のこの年、「中会形成」の志は、実に大きな試練を受け続け、大きく退行したことを告白せざるを得ません。神の御心、裁き(?)が与えられたのかもしれません。

★   病床洗礼を受けた○○兄のために、祈り続けています。少なくとも週に一度はお訪ねし、共に祈ることが継続できますように・・・。