過去の投稿2009年12月17日

12月13日

★   先週の月曜日と火曜日、13年ぶりに范豪兄とお会いし、拙宅に泊まって頂き、しばしの交わりのときを持つことができました。このご夫妻の存在を知る方は、今は、むしろ少ないのです。何故なら、開拓開始1年半ほどを教会形成の戦いを共にし、アメリカに旅立たれたからです。しかし、「5周年記録誌」を読んで頂ければ、この信仰者がどのような存在をもって開拓当初の歩みを支えて下さったか、牧師をはじめ会員の慰めとなってくださったかを推察して下さることができるでしょう。名大で博士号を取得され、アメリカに旅立つ別れの主日の歓送会で、こう挨拶したことを覚えています。「名古屋岩の上教会を出て、アメリカに行くからには、ノーベル賞をとってください。お祈りしています。」小牧空港での最後の別れのとき、本当に悲しかったことを今も鮮やかに思い起こします。
今、蔡さんと御嬢さんはアメリカのシアトルにいらっしゃいます。祝福された教会生活をされています。范兄は、上海で製薬会社の建設のために働いておられます。 先週の祈祷会では、ちょうど、労働について学びました。その祝福の「実例」と言えましょう。キリスト者として、神から与えられた職業として受け止め、励んでおられます。しかもその先のビジョンこそ、究極であるとのこと。「中国での学校の建設・・・。」信仰に生きておられる姿は、私の大きな喜びです。
     「1年目は毎週毎週、神を賛美し、創世記から神の御言葉を聞きました。大袈裟に言うわけではありませんが、その説教で私の神への信仰は揺るぎないものになりました。その説教から罪人である私が神に深く愛されていることを確信しました。自分自身がまず謙遜になることを学んでから、私の目の前に新しい世界が開かれました。どんなに偉大な発見をしても、また、どれほど深く科学的真理を研究しても、そのことは神の創造の素晴らしさを明らかにしていることだけだったのです。研究すればするほど、神の素晴らしさに驚かされました。~」(「5周年記録誌」より抜粋)

☆ 先週の委員会で、委員から「カテキッズ」についての議案が提出され、協議しました。契約の子らに幼児洗礼を施す「べき」こと、私どもはこれを聖書に記された神からのまさに恵みの招きと確信しています。それは、受けられるという消極的な恵みではなく、受けるべき、受けさせるべき「掟」としてわきまえることと思います。ただし、日本において、現実の問題として片親が非キリスト者の場合は、願ってもその通りに実現するとは限りませんし、親が信仰と何より教育について深く考えておられるのでなければ、御本人の洗礼だけでも、相当の「戦い」がありますし、よく相談し、理解を得た上でなければ、信仰教育を施すことすら座礁する危うさがあります・・・。しかしそれでも、小児洗礼を祈り求めることは、神の御心です。契約の子の「信仰告白」の重要性を、私どもはどれほど強調してもしすぎることはありません。これを抜きにして、後回しにして「子ども教会」の働きを担うことは本末転倒です。子らへの「教育権」を神(聖書)は、親に与えておられます。そしてその親は、教会員でもあります。つまり、教育権は教会にゆだねられていると理解すべきです。教会は、契約の親とよく相談しながら、我が子の信仰告白のために、最善の努力をしましょう。「信徒の手引き」で学んだように、急所は、親の信仰です。これこそ、子どもたちよりも真っ先に問われていることを思います。神を第一にし、畏れ敬う姿を子らに見せて参りたい・・・、次年度の教会の大きな祈りの柱としたいと思います。

★  次主日、ついに○○姉の洗礼入会式を挙行いたします。洗礼は、キリストの体なる教会への入会式、神の民として受け入れられる「しるし」です。また、教会は、姉妹を神へと捧げるのです。そのようにして、ご自身もまた神の民の前で、信仰を言い表し、自らを神のものとして献げるのです。既に私どもは、一度だけ洗礼を受けました。しかし、洗礼入会式によって、私どもは繰り返し、自らが洗礼を受けた者としての恵みの重さを再確認させていただくことが許されていますし、そうすべきです。したがって、私どももまた、厳かで喜びに満ちた思いの中で、次主日に備えたいと思います。

★   先週の伝道所委員会の後、○○兄の病床をお訪ねしました。病床聖餐を執行するためです。実は、既に口から食物を摂ることが出来ませんから、聖餐の礼典執行のことは、-不覚と申しますか、恥ずべきことですが―考えておりませんでした・・・。○○委員の案で、葡萄ジュースだけを脱脂綿棒に吸い取っていただくため、お口の中へ・・・。家内と○○委員とわたしは、もとよりパンとぶどうジュースの二品をいただきました。天国のいのちの食卓の先取り、前味が聖餐の礼典です。洗礼も聖餐の礼典も、「しるし」ですから、それなしには、救いに入れられないということでは全くありません。しかし、同時に、病床での聖餐執行もまた、まさに恵みの手段となることを思わされました。なお、祈り続けましょう。