過去の投稿2009年12月24日

12月20日

クリスマス、おめでとうございます!今朝、降誕の恵み、救いの恵みがあなたにも実現しますように!

★  本日は、共に、降誕祭主日礼拝式を祝うことが許されましたことを、心から神に感謝いたします。神が、ご自身の教会、神の民の祈りの家、神の家族の集いへとあなたを招いて下さいました。限りあるこの地上の歩みのなかで、決定的なこと、究極のこと、最善のことは、神を知り、神を信じて生きることです。それは、本当の自分を知り、自分を生きることと、一つのことだからです。しかも神は、それをひとりでするようにとは、導かれません。この教会で、共になすようにと招いておられます。どうぞ、この出会いを、大切にしてください。この出会いへと招かれたのは、生ける全能の神です。そして、その独り子イエス・キリストは、すでにこの地上を歩まれ、この世界をまったく新しくしてくださいました。もし、あなたが信仰の目を啓(ひら)かれるなら、この世界、この人生を新しく、美しく、きらめいて見ることができるようになるでしょう。主イエス・キリストを知り、信じるなら、あなたもまた、目に見えない真理を悟り、これにこそ自分のすべてを掛けても惜しくないほどの価値を見出されるはずです。

☆   今年も愛する皆さまと共に教会に仕え、神の国への力強い歩みを共にすることができましたことを、心から神に、そして皆さまに感謝致します。先週は、親子合同礼拝式の後、全体写真を撮りました。初めて教会にいらっしゃった方にも加わって頂き、50名の方々の笑顔があります。(家内が、皆さまにカードにして本日、お配りしています。)毎週の主日礼拝式にこの仲間たちが集結できるように、なお、祈りましょう。

★   写真の中で、まん中に座っている若い仲間たち(中高生、金城学院大学の学生)が目立ちます。来年は、この中から、信仰を告白する仲間、洗礼を受ける仲間が起こされますようにと祈ります。一方で、子どもたちは、ほとんどが契約の子の状況に至っていることを、常に、悲しんでいます。しかし、同時に繰り返し記しますが、この子たちの信仰告白のために、両親、片親の信仰教育を教会としてさらに支援、指導すべきと考えます。来年度の大きな祈りの課題です。子どもの教会の教師会で、渡辺牧師の講演録が紹介されました。どうぞ、契約の親は、我が子のために、彼らと共に家庭で毎日、祈って下さい。そして、子どもの礼拝式を重んじて下さい。子どもに信仰の養いを与えることを怠ったなら、どれほど後悔してもしきれません・・・。

☆   本日、ついに洗礼入会者、加入者を迎え入れ、初めて聖餐を祝います。教会は、「聖餐共同体」です。 教会員のことを、「現住陪餐会員」と申します。聖餐に陪席する人・あずかる人です。聖餐によって、キリストの体との結合が更新されます。救いとは、個人的な事がらではなく、まさに三位一体の神の交わりの中に入れられること、それは、神の民の一員とされること、教会の交わりの中に入れられることです。私どもは今朝から、お二人を迎え入れ、新しい教会、名古屋岩の上教会とされて、さらに出発するのです。

★  私どもの教会のホームページは、「ブログ」(日記)の形で公開されています。残念ながら現在、説教の アップ(掲載)が滞っています。一度、滞らせると、宿題がどんどんたまって手に負えなくなるのと似た状況に陥ってしまいます。わたしは、なかなか使いこなせていません。実は、先週(!)、このブログにある方から、このような メールが届いていることに気づきました。日付は、5月10日(!)です。「いつもブログを見させて頂いております。先生の説教を読んでから近くの改革派教会に出席するようになりました。引き続き、岩の上教会をモデルに学ばせて頂きたいと思います。宜しくお願い致します。」本当に、嬉しいことです。返信をしていませんから、(どのようにすれば良いのか不明・・・)本当に失礼をしています。この通信だけは、欠かさず、掲載しています。先日も、浜松の会員から、ご覧下さっていると伺いました。地元の方が、このホームページを探して、 ご覧くださるように・・・、そして導かれるようにと、祈ります。

☆   今、子どもの「クリスマスコンサート」が終わったところで、記しています。米田浩司さんの柔らかい声が、会堂に響きました。今回のコンサートは、「伝道新聞」を作成していませんから、3000枚ほどの近隣にお配りしたチラシのみの外部への宣伝でした。ピカソ出席の子どもたちが中心に集まってくれました。たった今与えられた、一つの大きな喜びは、一人のご夫妻が、「チラシ」をご覧下さって、お見え下さったことです。さらに、すでにホームページをもご覧くださっていたとのことです。ここでもホームページが用いられていることを思います。伝道集会は、多くの場合、教会へ来る「きっかけ」「背中を押す」チャンスとして用いられます。このような機会を、さらに数多く開ける教会になりたいと思わずにおれません。