過去の投稿2010年1月5日

1月3日

明けまして、おめでとうございます。
今年も、父と子と聖霊の交わりの内に生きて おられる唯一の神の恵みが、お一人お一人に、
ご家庭の上に豊かにありますように!
この国と世界に、主の平和が前進しますように。そのために教会が、堅固に建て上げられ、主イエス・キリストの御名があまねく崇められますように!自給と教会設立を成し遂げられますように!

―年 頭 牧 会 通 信―

 教会設立を目指す私どもにとって、最大の課題、それは、委員(会)を中心にした成長、これに尽きます。昨年、献金のアッピールを一人ひとりがなされました。私ども全員が、主の前に今一度、自分の信仰生活のあり方を再考しようと各々が呼びかけました。そうであれば、誰から始めるべきか、明らか過ぎるでしょう。

昨年末の臨時伝道所委員会で、委員おひとり一人に、「委員の務めを、教会の務め人つまり教会役員(教師、長老、執事)を目指すものとして認識してほしい」と、重ねて申し上げました。この三職によって教会政治は遂行されます。教会権能を司る、奉仕者なのです。「仕事」という表現を用いました。この「仕事」とは、それで生計を立てるという意味です。そのとき、任された仕事を、求められているレベルにおいて充分に果たすことが求められます。教会の仕事は、無給ですが、この世の仕事以上に責任が課せられています。そして何よりも、いかなる仕事にまさって、神の救いのみ業の進展に奉仕する光栄、特権が与えられているのです!

そもそも教会の「奉仕」の「本質」は、「ボランティア」では、ありません。ボランティアという意味は、「するのが当然」ではなく、「感謝される、ありがたがられるのが当然」ということではないでしょうか。基本的に、ボランティアが不足してもその業務全体が崩れ、成り立たなくなることはないのだと思われます。そうであれば、専従職員が充てられるはずです。しかし神の教会は、会員が、神と群れの全員に対して責任をもって、教会を形成する奉仕に召されています。キリスト者として生きること、即、教会に奉仕することです。その特権が与えられたからこそ、現住陪餐会員と言うわけです。聖餐共同体を形成する会員ということです。

    ただし、そこでこそ、先週の説教を思い起こして下さい。「~『キリスト者の平均』で、皆さんと同じような感じで・・・などということにはならないはずです。~『神によって与えられた自分の人生』を生きることにはならないはずです。神によって与えられた自分自身を生きること、これこそが、私どもの特権なのです。使命でもあるのです。そこに自分の尊厳があるのです。そこに、キリスト者の尊厳があります。したがって、まさに、ひとり一人が、自分のために祈らなければならないのです。それは、神が、一人ひとりに、特別のご計画を持っておられるからです。キリスト者という存在は、まさにユニークなのです。もし祈らなければ、世間の常識の中で一生を終えることになるでしょう。そして、神の救いの歴史を担うこと、まさにわずかでしかなく、自分の救いだけで終わってしまう。それは、神さまの前に申し訳ないことになってしまう・・・」

奉仕も献金も、神の前にひとり出て、自分で祈って、自分で決める以外にないのです。しかし、そこで決めたことは、神との約束となるはずです。そしてそこにこそ、私どもキリスト者の「特質」が現れます。神は、そのように私どもを「大人」として「信頼」してくださるのです。その信頼にこたえて生きようと志す時に、人間(キリスト者)は、「真実」、「誠実」な人格、存在へと育て上げられて行くのです。なんと言う尊い恵みの世界であろうかと思います。 (※新入会者は、先ず、先輩のキリスト者からの指導を受けながらです。焦らずに!!)

私どもの現在の委員会構成は、5名中4名が、開拓当初からの会員です。一昨年まで、開拓当初の会員は1名でした。その1名も、かつて、改変された委員会組織に新たに加わったときほとんど「衝撃」を受けられました。「これが、長老主義をめざす、委員会、委員の姿なのだ・・・。」ただし今回、その委員もなお、このように自己評価されました。「~自分で自分の能力に限界をおいてしまい、それでこなせる範囲でしか奉仕を捧げなかったことだと思います。信仰に立って、主が力を与えて下さることに頼り切ることが出来ませんでした。来年度は、相馬牧師が中会議長を任ぜられ、ますますその忙しさは拍車がかかると推察します。牧師を支える委員の役割を奉仕の中心と考え、又効率的に奉仕もこなせるように自身のスキルも磨く必要があると考え、その研鑽もしていきたいと思います。~」ある委員は、「最後は、牧師、牧師夫人に仕上げてもらう~姿勢があった」と回顧されました。委員(正しく言えば長老)とは、教会の責任者、主宰なのです。

      今年で終わる浜松代理宣教教師の働きにおいて、浜松の委員方は、金宣教師が教会の諸管理事項に携わる必要がないほど、自分たちで、すべてを整えて奉仕を捧げておられます。だからこそ、わたしもまた代理の働きができたわけです。名古屋岩の上教会は、開拓伝道者が今も、奉仕をしています。そこにわたし自身の課題も、上記委員から指摘されました。「お互いに甘え、甘やかし・・・」があるなら、主の前に、まさに申し訳ないことです。神が、私どもを大人として、信頼されていることに根拠をおいて、委員会形成のために、励みたく願います。委員たちを見倣い、そして、一人ひとりが、なお信徒の職務に目覚め、その光栄を覚え、教会形成(今年度の目標に向け)に励んでまいりましょう。