過去の投稿2010年1月11日

「一杯の水に神の愛を見る」

「一杯の水に神の愛を見る」
                    主の祈り 第四祈願?
                            
招  詞 マタイによる福音書 第4章4節
テキスト マタイによる福音書 第6章11節
「だから、こう祈りなさい。~わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

 本日から、「主の祈り」を学んで礼拝を捧げて、後半の祈り、第4番目の祈りに入ります。主の祈りは、前半と後半とに分けられます。これまでの三つの祈り、「御名をあがめさせたまへ、御国をきたらせたまへ、御心の点になるごとく、地にもなさせたまへ」これらは、言わば、神ご自身のための祈りです。しかし、今朝から学ぶ、後半の祈りは、「われらの日用の糧を今日も与えたまへ」から始まって、自分自身、人間のための祈りです。

 主イエスがお教え下さり、命じて下さった祈り、何よりも、主イエス・キリストご自身が地上にあって、日々祈られたこの祈りの中で、自分のため、人間のための祈りのその最初に、何が置かれているのか。これは、大変興味深いことですし、とても大切なことであるとも思います。それこそが、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」でした。

 おそらくこの主の祈りの中で、もっともなじまれやすい、祈りやすい祈りなのかもしれません。神さまのことはよくわからないし、前半の祈りには、なんだか自分とは遠い世界のように感じる人も、今日、私たちに、このわたしに必要な糧、食べものを与えて下さい。という祈りであれば、まさに毎日のこと、生活のこと、生きるために絶対に必要なことにダイレクトに関わる祈りですから、自分にかかわる、親近感を抱く祈りと思って頂けるかもしれません。

 私どもの救い主キリスト・イエスは、人となられた神でいらっしゃいます。光よりの光、まことの神よりのまことの神つまり、正真正銘、100パーセント神でいらっしゃいます。しかし同時に、この神は、我ら人類のため、我らの救いのために、処女マリアより肉体をとって人となられた、正真正銘、100パーセント人間でいらっしゃいます。まことの神にしてまことの人、これこそ、私どもが毎週告白しているニカヤ信条の心臓部、私どもの信仰告白です。人間であるとは、肉体をもっていること。ですから、食べたり飲んだりすることがなければ、生きれない存在です。「霞を喰っては生きてはいけない」存在です。「生活しなければ」ということは、言葉を換えれば、働かなければ生きて行けないのです。その意味で、この祈りは、私どもの衣食住が扱われるのです。ただ、毎日の食事の問題に限定するのではなく、地上の、肉体の命を支えるためにかかわるありとあらゆることがここで扱われる。ここで祈られるのです。政治、経済、文化、技術、学問、レジャー、スポーツ、家庭生活、夫婦生活、遊び、仕事それらがこの「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」で扱われるのです。

 主イエスは、一人の人間として、徹底的に人間的なものを重んじられるのです。私どもは決して、誤解してはならないのです。キリスト教は、神を重んじ、精神生活を重んじ、霊的なことを重んじる、そしてそれだけに、反対に、肉体の欲求、肉体にかかわることがらは一ランクも二ランクも低く看做している。神さまと霊的な領域は聖なる領域だけれども、私どもの日常生活は、俗なる領域、汚れた領域だと考える。そのような誤解はまだ少なくないのだろうと思います。何よりもキリスト者自身が、あるいは教会が、そのようにどこかで考えている節があるかもしれないのです。それこそまさに私どもが克服し、戦わなければならない考え方です。

 そもそも、そのような考え方のルーツは、どこにあるのでしょうか。それは、キリスト教のなかにあるのではまったくありません。それは、ギリシャの哲学者たちの考えです。ソクラテースやプラトーンなどの優れた哲学者たちを産み出したギリシャの哲学者の系譜の中に、「霊魂の不滅」という思想があります。肉体は滅びるけれども、霊魂は不滅である。そうであれば、霊魂こそ、魂こそが、人間にとって最も重要であると考えました。ギリシャの人々は、肉体の鍛錬よりも霊魂の鍛錬を重んじたのです。魂の配慮、これこそが、彼らの哲学の目的だったのです。確かに、このことは、どれほど、大切であろうかと思います。現代は、このような哲学を軽んじ、哲学することを放棄してしまったと言っても言い過ぎではないと思います。
何よりも、使徒パウロは、テモテへの手紙?第4章でこう言いました。「信心のために自分を訓練しなさい。からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。」信心とは信仰です。体の訓練、体のエクササイズを否定はしていません。むしろ肯定しているわけです。少しは益することがあるというのです。パウロは、テモテに対して、あなたは胃を悪くしないためには、葡萄酒を飲みなさいと、体の配慮を告げる手紙を書いています。ただしもし、体のエクササイズと信仰のエクササイズを比較すれば、圧倒的に、信心のエクササイズ、訓練が有益なのだと告げるわけです。ここにも、すこし乱暴な言い方かもしれませんが、ギリシャの哲学者たちから、言わば、受け継いでいる人間の魂への重要性に対する確信があります。
しかし、ギリシャの哲学ときっぱりと絶縁しなければならないことがあるのです。それは、肉体を軽んじるということです。肉体と霊魂とは、別のものであるという考え方なのです。このような思想に影響を受けたキリスト者が、コリントの教会には少なくなかったようで、肉体で犯した罪は、霊魂にまで影響を与えることはないのだ、肉体の欲求は、そのまま認めて、心や魂はキリストを信じていればよいのだとする教えが、侵入して、大きな混乱を生じました。教会が内側から崩壊する危機に陥ったのです。そこで、使徒パウロは、そのような思想、考えを断固粉砕し、徹底して排除する戦いを挑みます。そのための手紙が、コリントの信徒への手紙に他なりません。

つまり、肉体は聖なるもの、私たちは、永遠の命が与えられていることを確信しています。そして、今朝も告白したように、それは、肉体の死後、肉体の甦り、死者の復活と待ち望んでいるのです。復活とは、自分のくさり、焼かれて無くなってしまった体が、新しい体へと変貌させられて自分の魂と結合することです。
ですから私どもはこの今のこの体をも、大切にするのです。これは、神を宿す、神の霊に住んで頂いている神殿に他ならないからです。この神殿である肉体にかかわることが、どうして汚れていたり、俗なるものであるはずがありません。

ですから、私どもが自分たちの食事の問題、衣食住の問題を、信仰の事柄として考えないことは、キリスト教的ではないと断言してもよいのです。私どもの信仰、それは、生活のすべての領域で、神さまの御顔の前で生きることであり、神さまの栄光をあらわそうと励むことです。そして、それができないこと、それに対立することがまさに俗、まさに不信仰であり、それを対決しつつ、歩んでいるのが私どもであります。

さて、その意味では、この主の祈りの第4番目の祈りもまた、改革派信仰、つまり聖書の信仰の急所を明らかにする真理です。この祈りによって、私どもは絶えず、毎日の現実生活を、まさに信仰の眼差しで見ることへと、取り戻されて行くのです。
なぜなら、衣食住のことごと、夫婦生活も家庭生活も、就職、進学、会社も学校も、圧倒的に多くの人たちは、信仰と切り離して考えるからです。教会は、魂のこと、心の問題、心の安らぎや精神生活を豊かにするために必要である。けれども、現実の社会の厳しさのなかで、教会の顔をしたままで、会社になんて行けない。仕事はできない。そこでは、喰うか食われるか、だますかだまされるか、熾烈な競争で生き残らなければならない。お金をかせぐことは、きれいごとではすまない。霞を喰ってはいきれないのだから、神さま、どうか、ここでは、目をつぶって下さい。そこまで考えるキリスト者はほとんどいないはずと思いたいのですが、しかし、心のどこかで、そのような思いに共感する、共鳴する私どもがいることは、正直なところではないでしょうか。

皆さんの中でも、もしかするとこのような思いが心のどこかにあるかもしれません。「牧師は、それが仕事なのだから、それでやって行けるでしょうが、信徒としては、それはできない。」いへ、牧師自らが、この務めを、言わば、食べて行くための仕事として考える誘惑こそ、教会に対する最大級の攻撃なのです。これを牧師も信徒も見て見ぬふり、直視しないのであれば、牧師もまた崩れて行くことは少なくないでしょう。また、それを、信仰によって霞を食べてでも生きてくださいと、お金のことをあれこれ、言うのはおかしい、こう考える教会員であれば、まさにキリスト教信仰とはかけ離れるでしょう。牧師と教会が実は、そこでどれだけ、不健康になり、信仰を裏切る事態が起こるかと思います。

私どもは、生身の肉体をもって、それにもとづく欲求、あるいは欲望と言ってもかまいませんが、神から与えられているものとして受け止めることが必要です。だからこそ、それは、神に求めなければならないのです。こんな話を聞いたことがあります。お母さんと子どもは教会に言っているキリスト者の家庭の話しです。キリスト者は、必ず、食事の前にお祈りします。これは、必ずです。ですから家庭でも、食前の感謝をする。つまり、お祈りする。「神さま、美味しいご飯を与えて下さったありがとうございます。」それを聞いているお父さんがこう言ったのです。「神さまに感謝するのも大切だけれど、あなたたちが食べれるのは、お父さんが働いているおかげではないか。だから、感謝するのだったら、お父さんに感謝すべきでしょう。」
これも信仰のないお父さんの認識だと、笑い過ごすことは、実はできないのではないでしょうか。子どもではなく、大人、自分で働いて家庭を支えるキリスト者も、もしも自分が働いているから、自分が一生懸命努力して、がんばって、仕事をしているから、三食のご飯が得られている。どこかで、日用の糧を神に求めるのではなく、自分の力に求め、自分のがんばりの成果、実りを見ているのではないでしょうか。そこにこそ、献金の課題もあるのではないでしょうか。自分の稼ぎは自分のものではないか。自分が毎朝はやく起きて、夜はおそくまで残業して、必死に働いているのだから、この報酬は、自分のもの、自分のものであるとする認識が、献金した後の経済生活こそ、なお、神の栄光を求める経済生活、消費生活であるべきことを忘れる。献金したのだから、あとは、自分のお金だぞ。どう使おうが、構わないでほしい。

しかしまさに、日用の糧を今日与えて下さいと、主イエスは祈れ、祈れ、祈れとお命じくださるのです。あなたが働けるのは、神の恵みではないか。あなたの仕事場、仕事仲間、あなたの能力、技術、それらもまた、すべてわたしのもの、わたしが与える贈り物、賜物ではないかと問うて下さるのです。問い返して下さるのです。

この祈りを真実に祈るとき、わたしどもは絶えず神からの問いを聴くのです。そのようにして、立ち返るのです。「ああそうです。神さま、わたしの食べるもの、着るもの、住まい、家族も、なにもかも、あなたからの祝福でした。それは、あなたの許しと恵みです。それを忘れて、まるであなたから自立し、あなたなしで、生きて行ける領域を確保しようとする不信仰の過ち、そのような思いと企てとを、どうぞ打ち砕いて下さい」と祈るです。

私どもは、この教えられた主の祈りを唱えることによって、毎日の生活を自分自身の能力、自分自身の実力、地位に根拠をおかないようにと引き戻される。神の恵みとご支配とにつなぎとめられるのです。私どもは、自分の「稼ぎ」に生活の根拠を置かないで、そこでこそ神に、父なる神におくということであります。

先日、ある未信者の方からこのようなお話を伺いました。自分は、インターネットで何年分もの説教を聴いてきた。キリスト教ラジオ放送を過去の分にさかのぼって、ほとんど聴いた。しかし、こうおっしゃいました。現実の救いはない。現実生活の助け、問題解決にはまったくならない。そう仰るのです。しかし、わたしはそれを受け入れられませんでした。いや、あなたにもすでに神さまからの現実的な救い、しばしば救いと言う言葉が混乱して用いられますから、用いない方が良いのだと思いますが、現実的な助けがあるではないかと、申しました。しかし、うなづいて下さいませんでした。

わたしは現実生活の中に、神の支配、介入はないという思想を、断固戦わなければならないと思います。救いは、罪の赦しなのだから、現実の生活の中に、神の恵みが明らかにされなくてもよいのだという、高尚な思想に頷けません。

わたしはこの教会の開拓伝道が始まるとき、二人の幼い子どもの父でした。また夫でした。家庭を守り、支える責任があったのです。しかし、現実の暮らしを支える何の保証、基盤もありませんでした。しかし、そのところを通過しました。本当に信仰の厳しい戦いでした。できれば、そんなところを敢えて通りたいとは思いません。しかし、神に従うことがその道であれば、従う以外にないのです。しかし、今があります。今、生きているわけです。実は、主の祈りの説教は、10年前にも行いました。30回余り説教致しました。もとより、今している説教とは違います。必ず、説教準備の際には、そのときの説教を読み返します。今回あらためて、思い起こしました。ああ、ちょうど、厳しいところを通っていた渦中であったと。このような説教を、していました。

「日用の糧を今日もあたえたまへ」とお祈りするとき、私共が父なる神の子どもであって、キリスト者であることがよくわかるはずだと語ります。この祈りを毎日祈ることによって、私共は絶えず、見ることが出来ると語ります。「日用の糧を今日もあたえたまへ」と祈ったあと、目をあけると、そこに朝ごはんがある。昼御飯がある。夕べの食卓が整えられている。あのときは、ビルのときでしたから、一週間で、夕べの食卓も子どもたちと毎日、囲むことはできないような忙しさのなかでした。しかし、この祈りを祈って、目をあけるとご飯がある。それは、ただのご飯ではないでしょう。

こう書いてありました。「私どもは、ご飯を食べるとき、神の愛を、神の父としての愛の証拠を見る。」朝御飯、昼食、夕べの食卓に備えられている食事、食物の内に、私共は神の愛を見ることができるし、神はそこでそのように意味で食物を見ることを求めておられる。」

大変恐縮ですが、先週に引き続いて、ここでも「星の王子さま」の物語が実は、大きなメッセージを読者に発信していることを皆さまにご紹介したいと思います。それは、聖書のこの教えを知らなければ、もっと言えば、自分が味わっていなければ、読み解くことはできないのではないかと思います。少なくとも体験できないのだと思います。この物語のクライマックスは、サハラ砂漠に不時着した飛行士がついに、星の王子さまといっしょに、井戸を探し当てる場面です。そこで、誰よりも喉が渇いていた飛行士は、王子さまに、井戸からくみ上げた釣瓶をもって、飲ませてあげます。そして自分も飲みます。この水は、単なる飲料水ではないのです。ある翻訳者は、このように訳しました。「まるで祝祭の喜びのように心にしみる水だった。からだが必要とするのとは、まったく別の水だった。」おそらくは、著者が伝えたいメッセージは、人間が生きるには、人間には、主イエス・キリストご自身に他ならない生きた水、永遠の命の水が必要なのだと伝えたかったと思います。しかし、わたしは、もっと先を読んでもよいのではないかと思うのです。それは、ただの飲料水です。しかし、同時に、その水が飲めると言う事の中に、神の愛を見ることができれば、たった一杯の水の中にも、神の恵みを見ることができるということを思います。

そうすると、私たちの国においては、毎食、命の危機に瀕するようにして食事を頂く人は、少ないのだろうと思います。なお、飽食の時代です。けれども、キリスト者は、神が私どもの現実に働きかけて、私どもの人間的な必要のすべてを配慮して下さることを認めるのです。そうすると、朝の一斤のパンにも、神さまの恵みと私どもを子として養って下さる愛を見ることができるのです。わたしは、聖餐の礼典を祝うとき、皆さんに、わたしがパンを裂くところをよく見なさいとお勧めします。これは、ちゃんと見なければならないのです。そうして、信仰の眼において、主イエス・キリストの十字架を目撃するのです。それと同じように、わたしどもは、朝のパンを食べるとき、信仰の目で見ることができるし、見なければならないのではないでしょうか。それは、今朝も、今日も、神さまは、主イエスはわたしを守って下さる。守られている。神の父としての愛は、この食事に明らかに示されているのです。パンの内に、生ける神の証拠、生ける神の父としての愛の配慮の証拠を見ることができるのです。

こうして、食前の祈りは、私どもに神への感謝を呼び覚まし、また、主の祈りの第4祈願は、感謝を命じる祈りと言ってもよいでしょう。
こうして、キリスト者としてのご飯の頂き方、あるいはパンの理解は、未信者とは異なったものとなってくるのではないでしょうか。なぜなら、これまでは、自分の能力、自分の努力だと思っていたご飯、食べること飲むことなど、当たり前であったのですが、今はそれを恵みと愛と感じるのです。今の日本では、食べれるなんていうことは、当たり前すぎる、立地がよく大きくて立派な家に住み、余裕のある生活を自由に楽しむ、人と比べて裕福になっているのであれば、神から特別の恵み、祝福だ、勝ち組だと考えるのが、一般的なのかもしれません。しかし、キリスト者はそうではないのです。

最後に、使徒パウロが、ローマの信徒への手紙の第8章でこう宣言した御言葉を聴きましょう。「私たち全てのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」(32節)御子の命をさえ惜しまずに私どもに与えたもうた神は、求める者に、必要な日用のありとあらゆる物質を、モノをも与えてくださるのです。そこにも神の御心があるのです。

ここで、あえて申し添えますが、「我ら」の日用の糧を忘れてはならないはずです。「私ども」「私たち」に与えられているものだということです。つまり、与えられていない人とは、分かち合う必要、責任があるということを忘れることはできないはずです。

今朝、あらためて信仰を求めましょう。信仰の目が開かれることを求めましょう。一杯のお水を見て、それを口にできる人の幸いを思う、そのような信仰者になることを憧れましょう。今週も「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」を祈るたびに、この一杯のコップの水に、神の愛のしるしを見ましょう。三度三度の食事を頂くたびに、この小さな名もなき自分、この家族も又、神の愛の対象とされているのだと、心にそして肉体に、いや魂にまで刻んで参りたいと思います。

 祈祷
 私共に、永遠の命の糧を惜しみなく与え、また毎日の肉体の糧をもお与えくださる、主イエス・キリストの父なる御神。私共はあなたが全能の私共の父でありたもうことをしばしば忘れてしまいます。信仰が薄いのです。信仰が小さいのです。どうぞ、私共の信仰を富ましめてください。思い患いから解放してください。あなたを信じて、信頼しきって地上を歩ませてください。そのような信仰の歩みこそ、今人々が最も憧れ、望んでいる生き方であります。そのような、キリストの証人、神の子の平安の歩みを造らせて下さい。私共の教会をそのような信仰の家、祈りの家としてさらに育てて下さいますように。アーメン。