「あなたのための、十字架の上での祈り」
賛美歌 136番・257番
ルカによる福音書 第23章34節 2007年4月1日(/録音)
・おはようございます。今週は、イエスさまの十字架の死の御苦しみを深く思う一週間、受難週を迎えています。もしあなた様が、主イエスが他でもないあなたのために、お苦しみになられたのであることを、信じることができれば、あなたは、神の喜びに満ち溢れることができるようになります。あなたさまの上に、聖霊なる神の豊かなお導きと祝福がありますように。
・さて、主イエスは、十字架の上でこのように祈られました。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」彼らとは、どのような人々のことでしょうか。それは、「お前は、他人を救ったのだ。もし神からの救い主で、神に選ばれた者だというなら、自分を救ってみるがよい」このように罵る人々のことです。イエスさまは、自分を憎み、あざ笑い、遂に殺すような人たちを、救ってくださいと、天の父なる神さまに、訴えられたのです。なんと、驚くべき祈り、なんと、驚くべき人でしょうか。
・さて、今朝、ご一緒に考えたいのです。私たちは、このイエスさまやこのイエスさまの祈りと、無関係なのでしょうか。あるいは、十字架の下で十字架につけられたイエスさまを罵った人々と、無関係なのでしょうか。あなたはこう仰るかもしれません。「わたしは、イエスを十字架につけた覚えはありません。いくらなんでも、そんなひどいことをわたしはしたことがありません。そもそも、2000年も昔のことではないですか。今ここに生きている自分にとって、かかわりはないはずです。」確かに、そう仰る気持ちは、分かります。
・しかし、あなたがどれほど強く主張なさっても、主イエスは、それを受け入れられません。実は主イエスは、今、この放送をお聴きくださっているあなたのためにも、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのです。」と祈っておられるのです。
・もちろん私たちは、自分が今、ここで何をしているのかということをわきまえていると思います。
・「後悔先に立たず」ということわざがあります。人生の年輪を重ねてまいりますと、「何故、あの時あんなことをしてしまったのか。」と後悔して、心さいなむことも多くなるのではないでしょうか。人生には、そのときには、良かれと思ってしたことも後になって、失敗だった、間違いだったと分かることもあるものです。そうであれば、私たちは、自分があのとき、何をしているのかが分からなかったというような大失敗を犯すこともあるのではないでしょうか。
・ただし、どんなに間違った決断、選択をしても、絶望して死ななければならないような失敗はないはずです。しかし、取り返しがつかない失敗、究極の失敗とは何でしょうか。それは、罪を犯すということです。聖書が言う罪、それは、まことの神を真の神として信じないこと、従わないということなのです。罪の恐ろしさと悲劇は、罪を犯しながら生きていることが、どれほど恐ろしいことなのか、惨めなことなのかが自分では分からないということです。
・しかし、主イエスは、それをつぶさにご存知なのです。だから、主イエスは命を懸けて祈られたのです。そしてこの祈りは、行動になりました。主イエスは、あなたが犯した罪の刑罰を十字架で身代わりにお受けになられたのです。実に、この祈りとイエスさまの十字架の意味とは一つのものなのです。
・実は、主イエス・キリストは、2000年前の十字架の上でだけではなく、今も、天の父なる神の右におられて、あなたのために、祈り続けていてくださいます。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」どうぞ、今、この祈りに答えて、あなたさまも、「私の罪を赦してください」とお祈りしてください。そうすれば、あなたさまの人生は、後悔することのない人生、罪を赦された喜びに輝く人生へと解き放たれるのです。