過去の投稿2010年2月11日

「わたしたちのチャンピョン」

「わたしたちのチャンピョン」
                    主の祈り 第6祈願?
招  詞 詩編 第32篇1節-5節
テキスト マタイによる福音書 第6章13節  第26章36節-46節
「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。」
 

今朝は、ついに主の祈りの最後の祈りを学びます。この御言葉もまた、二回に分けて学ぶ予定でしたが、迷いに迷って、一回で学ぶことと致しました。10年前には、わざわざ、ここを三回に分けて学んだのですが、そう致します。ただし、悪魔の誘惑と神からの試練について、この違いについて学ぶことは、私どもの信仰生活にとって、極めて重要な学びとなります。それは、いつものように祈祷会で触れられたらと思います。

さて、「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』この主の祈りの最後に位置する祈り、ただそれだけで既に、この祈りの固有の重み、大切さを直観することもできるかもしれません。主イエス・キリストは、私共にこの祈りを、生涯に渡って祈らせようとなさったからこそ、この祈りの言葉を教え示してくださったことは間違いありません。そもそも、主の祈りは毎日の祈りであります。日々、祈るべき祈りです。どうしてそうなのでしょうか。それは、私どもの肉体の糧、食べ物飲み物が三度三度、必要なように、実に、私どもに襲いかかって来る誘惑もまた、日々の現実だからであります。

 およそすべての人に、自分の力ではどうすることも出来ないような人生の危機に瀕することが起こる、不幸に襲われることがあるだろうと思います。その時には、普段は、まったく神さまなどに心を向けない人でも、「神さま助けて下さい。」「守って下さい。」と、祈りにもならない呻き、叫びを発することもあるだろうと思います。その意味では、「誘惑に遭わせないでください。悪い者から救って下さい」という祈りは、キリスト教信仰のあるなしにかかわらず、身近な祈りと言えるかもしれません。

しかし、そこで同時に、改めて問い返される思いが致します。いったい、私共は、この祈りを、どれほど真剣に祈っているのだろうか。果たして、この祈りが、私どもの日々の生活にとって本当に必須のものとされているのだろうか。それが問われているだろうと思います。

 しかし、主の祈りがまさにキリスト者、信仰者のための祈りの課題であるということは、ここでも鮮やかに示されていると理解できます。端的に申しますと、もし、皆さんの中で、まだ誘惑を受けたことがないと仰る方がいれば、その人は、まだキリストの側に立っていない、キリスト者とは言えないのだとすら思います。誘惑とは、信仰の生活が深まれば深まるほど、この力は増してくるものだからです。もしも、このように考える方たいれば、それは、間違い、幻想です。つまり、信仰が成長すれば、誘惑との戦いがなくなって行く。事実は、正反対です。信仰の深まりとは、罪との戦いの激しさの深まりとなるものなのです。 
これは、皆さんが既に経験なさって来られたことだと思います。洗礼を受ける前より、はるかにまさって洗礼を受けてから、自分の罪の深さをますます認識させられるということです。それまで考えてきた自分が罪人であるという認識がなお、薄っぺらなものであったと思うようになるのであります。それは、言うまでもなく、その人が信仰から離れてさらに罪深い人間になってしまったからではありません。むしろ、正反対です。ますます神に近づき、心を清くしていただいているからこそ、自分の汚れに敏感になったのです。神を知り、その恵み、その愛、その聖さ、その真実を知るからこそ、自分の不真実、汚れ、自己中心、その不従順があざやかに見えて来るのです。つまり、はっきり申しますと、この祈りを祈らざるを得ないのは、本当に必要としているのは、神に救われた者なのです。この祈りがまさに切実な祈りとなるのは、私どもが、主イエス・キリストのものとされた神の子だからなのです。

 ある人は、こう考えているかもしれません。信仰が強くなって行けば行くほど、その人は、毎週礼拝に通ったり、毎週、祈祷会に通ったりすることもないのではないか。それは、信仰がなお弱く、幼いから、教会に通って力を受ける必要があるのだ。それは、まったく誤解です。むしろ、逆です。信仰が深まれば深まるほど、その人は、キリストなしには生きて行けないことを、いよいよ感謝の内に自覚を深めるのです。そうして、教会の諸集会が自分の信仰にとってどれほど、生命的に重要なのかを、理解させられて行くのです。

何故でしょうか。それは、私どもの信仰とは、最初から最後まで、徹頭徹尾、自分の力によって立っているものだからではないからです。子どもカテキズムの問い84で、この第6祈願を取り扱っています。そこで何を祈り願うのかについての答えはこうです。「罪深い私たちは、神さまの憐れみがなければ、 一瞬でも神さまの子どもとしての 祝福に生きることはできませんし、 またサタンも攻撃してくるので、罪の誘惑から守ってください、罪との戦いに勝てるようにしてください、 ということです。」私どもは、神の子、キリスト者として自分の力、自分の何かでなったわけではありません。100パーセント神の恵みのみ、神の憐れみによります。そして、キリスト者であり続けることもまた、神の恵みのみによるのです。

キリスト者として、自分がここに存在しているということは、言わば、奇跡がそこで起こっていると言っても言い過ぎではありません。もしも、自分の力、人間的な力で信仰の生活が成り立つと思っているキリスト者がいれば、もう一度、初めからやり直すべきでしょう。信仰の初歩を学び直す必要があります。私どもの弱さとは、自分が常に神を選び取る能力において弱いということです。少し弱いのではありません。「完全に弱い」と言う意味です。私どもの教会は、この教えをとても大切にしてまいりました。信仰によってのみ、恵みによってのみ救われるという教えです。この「のみ」ということが、私どもの救いの教えにおいて、決定的に大切なのです。先週、洗礼後の学び会を継続している方から質問を受けました。改革派の信仰には、予定論というものがあるそうだが、いったいどう理解すべきなのか。これは、救われるということは、徹底的に神の恵みのみ、言いかえれば、神の選びによってのみ実現されるのだという教えです。

もしも、自分たちの資質の中に、救われるに値する何かの価値、善きものがあったから、神は、他の誰かではなく、このわたしを救って下さったのだ、選んでくださったのだと理解するなら、それは、聖書の教え、神の救いを否定することです。私どもは、徹底的に罪人、神の前に、神を選び取る能力がないのです。もしもそれを、自分の力でキリスト教信仰を選び取って、これに入信したのだとすれば、そこには、必ず、奢り、誇りが芽生えるでしょう。キリスト教信仰を選んだ自分がすごい、自分の中に価値を見つけるのです。しかし、それなら、恵みと言う言葉は、意味を持ちません。万一、自分の探究心、自分の誠実さ、自分の知恵、自分の宗教的理解力が1パーセントでも加わって、キリスト者になったのだと理解すれば、もはや、それは、恵みではないはずです。自分の努力の成果です。努力に対する報酬です。私どもは、神さまを信じる能力、神さまを選ぶ能力、これに対しては完全に堕落して、失われている、これが、改革派教会の救いの教えの真髄です。それを、プロテスタントと言うわけです。この教えを、捨てるなら、もはや、厳密に言えば、その教会をプロテスタント教会と呼ぶこと、自覚することは、おかしいと思います。私どもは、一瞬でも、自分の力で、神の前に立つことはできません。信仰を保持することはできないのです。それが、私どもキリスト者の弱さなのです。

 そもそも、ここで言われている誘惑とは何でしょうか。ヤコブの手紙を読みますと、神がキリスト者を誘惑することなどあるはずがないと断言します。その通りです。誘惑は悪魔から来るのです。しかし、もともとの言葉は、誘惑とも試み、試練とも訳すことができます。試練であれば、それは、父なる神が父としての愛の配慮から、私どもを鍛えるために与えられるものです。そうであれば、それを一概に、避けることはないと言えるはずです。試練や訓練によって、私どもは鍛えられ、養われるのです。訓練されない子がいれば、それは実の子ではないとヘブライの信徒への手紙は言いました。

それなら、誘惑とは何でしょうか。それは、神の愛と恵みの支配から、悪魔の支配へと奪い返そうとするサタンの働き、攻撃です。そうであれば、この誘惑とは、キリスト者のみが受けるもの、そう理解するとき、正しく理解できます。つまり今生きているサタン、悪魔が攻撃しかけてくるのは、他ならない私共に向かってです。サタンは、私共の信仰、神の子としての特権を奪い去ろうとそこにこそ、狙いを定めて攻撃するのであります。キリスト者以外には、あまり興味がないかと思うほどです。

未信者の方々は、別に、誘惑を受けているのではないと思うのです。つまり、誘惑とは、私どもを神から、主イエス・キリストから引き離そうとする力のことだからです。未信者の方が、キリストから離れることが誘惑とは、試みとは思わないはずです。

サタンは、私共が信仰から離れさせるためなら、何でもするような、まさに悪魔です。そのときには、この世の祝福を与えることすら可能です。サタンが病を癒すことも可能です。サタンが、奇跡を起こすこともあり得ます。サタンによって家内安全、商売繁盛ということも起こります。それほど、サタンの力は、人間をはるかに越えています。もしも、キリスト者が、夫や妻との関係こそ人生にとって、第一のこととして考えるならば、もしも、お父さん、お母さんとの関係が、一番大切なこととして考えるなら、もしも家庭の平和、安定、あるいは経済的な安泰こそが人生の目標に据えるなら、まさにそこで、サタンに誘惑されているのです。家庭の平和、経済的生活の安定、これが幸福な生活の条件であることは常識でしょう。しかし、キリスト者にとっては、丁寧に考えなければなりません。この幸福が誘惑になることがあるからです。それによって、神を第二にする場合があるからです。もしも、自分の事業、自分の仕事が順調で、軌道に乗って、どんどん、いわゆる昇進して行くとします。しかしもしもそれによって、教会生活が破綻するなら、どうでしょうか。それは、まさに誘惑に負けて、本物の幸福を失った、悲惨な例になるのです。もしも、御名が崇められるように、御国が来るように、御心がなるようにとの祈りを第一に出来ないときには、私共はまさに危険な罠に落とされているのです。
 
主イエス・キリストは、よく御存じでいらっしゃいます。私どもが、この誘惑に対して、いかに弱い存在であるかをです。そしてまた、実は、未信者の方にとっても、共通することでもあります。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第7章でこのように言いました。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。~わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」

 この問題も又、キリスト者であればこそ、深く理解できるわけですが、しかし、信仰者でなくとも、自分の内面を正直に、真剣に見つめれば、これを否定できないだろうと思います。キリスト者であってもなくても、私たち人間は、弱い人間だと思います。自分をコントロールできないのです。先週、ある人の引退発表が大々的に報道されました。わざわざ、そのような例を取り上げるまでもないことと思います。誰も見ていないところで、絶対に悪い事を考えたり、不正を行ったりしない、いつでもどこでも正しいこと、正義を選び取れる、果たして本当にそう言い切れる人がいるのでしょうか。まさに、弱いのです。あるいは、私たちは、たった一人で、悲しみや苦しみ、病気や試練に打ち勝てるでしょうか。それでも前を向いて、いつでもどんなときでも明るく元気に前進できるでしょうか。

いったい、私たちのなかで、悪い誘惑、悪魔の誘惑に、一度も負けたことがないと言える人がいるでしょうか。もし、サタンに連戦連勝の人がいるとすれば、その人こそ、言わば、人生のチャンピョンだと思います。本物のチャンピョンだと思います。しかし、私たちはどうでしょうか。私たちは、チャンピョンどころか、むしろ、敗北者と認めざるを得ないのではないでしょうか。確かに私たちにも善いことをしようとする意思はあります。しかし、その心の命じるままに、いつでも善いことをしているのでしょうか・・・。

誰よりも先ず、このわたし自身が、人生のチャンピョンでは決してなく、むしろ、敗残者であると認めざるを得ません。
それならわたしは、暗く、悲しく、とぼとぼと生きているのでしょうか。そうではありません。希望をもって生きているのです。それは、自分をごまかしているからそうできているわけではありません。ひと言で申しますと、この祈りのおかげなのです。

 主イエスは、「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』と祈ってよいし、祈りなさいとお命じになられました。それは、私たちがまさに弱い人間でしかないからです。ボクシングの偉大なチャンピョンも、何年か過ぎれば、肉体の衰えを隠せず、ついには、ノックアウトされて、引退の時を迎えるでしょう。私たちは誰しも、最後には死んで行きます。死において、私たちの敗北は、決定的に明らかにされてしまいます。聖書は、こう言います。人間は一人の例外もなしに、悪い者の誘惑に負けてしまうその罪とその行いによって、死とその恐怖の前に敗北者になっていると。

ところが、実は、たった一人例外の人がいます。それは、この祈りを自ら祈られ、悪魔に一度も負けたことがない方です。主イエスが、公の生涯、救い主、キリストとしてのお働きを始まられるとき、先ず、最初に、悪魔の総攻撃を受けました。わざわざ、40日の断食をなさって、生命の極限状況まで自らを追い詰めて、人間としてもはや限界というギリギリの状況において、悪魔から三度、誘惑、試みを受けられたのでした。しかし、主イエスは、その一つ一つに対して、聖書の言葉、神の御言葉によって勝利し、悪魔を撃退なさったのです。

ヘブライの信徒への手紙第5章7節にこうあります。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」ここには、激しい誘惑と戦いつづける人間イエスの信仰生活が描写されています。「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら」というその激しい振る舞いを、私共は、主イエスが十字架につけられる前夜、あのゲツセマネの祈りにおいて認めることができると思います。主イエスは、汗を血のしずくのように流しながら、神の前にひとり、祈りの戦いを続けられました。それは、主の祈りの第三祈願に集約される祈りでした。「御心が天になるように、地にもなさせたまへ」これです。神の御心が実現することのために、ご自分の命を差し出されたのです。十字架の死に至るまで、そして、その死の極みにおいてこそ、主イエスは、サタンの誘惑を受けられました。「もし、神の子なら、十字架から降りてこい」この誘惑こそ、悪魔の誘惑の頂点です。しかし、十字架から降りられないことによって、この誘惑をしりぞけられたのです。そのようにして、神を第一にしない罪への誘惑から完全に解き放たれ、神へと自由に生きられて、勝利なさったのであります。主イエス・キリストは、今やもろもろの天を通過されて、その本来おられる立場、神の右に着座されたからであります。

これにたいして、ヘブライ人への手紙第12章4節には、こうあります。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがない」つまり、罪との戦いにとことんまで真剣であるのは私共ではなく、主イエス・キリストだけであったのです。罪を憎み、戦われたお方こそ、人となられた神の御子であられます。そして何よりも重要なこと、決定的なことは、その主イエスは、「罪を犯されなかった」ということです。イエスさまは罪を犯されなかった歴史上ただ一人の人間でいらっしゃいます。ある聖書学者は、このようにイエスさまが、悪魔からの誘惑を受けられてなお罪を犯さなかったことは、誘惑が必然的に人をして罪を犯させるものとは限らないことが実証されたことを意味すると、言いました。その通りだろうと思います。

 私どものために、私たちの罪を償うために死んで、しかも三日目に墓からお甦りになられた主イエス・キリスト、この罪と死に勝利されたこのお方こそ、まさに人生の圧倒的チャンピョンなのです。私共は、この勝利者を救い主として与えられているのであります。この救い主に、言わば、負けること、それが、救われるということです。この救い主に贖い取られることこそ、私共の罪の誘惑への勝利なのであります。私共の勝利とは、そのようなイエス・キリストと一つに結ばれてのみ与えられる勝利であります。私どもが、悪魔と直に戦って獲得する勝利ではなく、主イエスが獲得された大勝利、真の勝利を与えられることによってもたらされる勝利です。

英語のチャンピョンには、誰かを守るために働く人という意味もあるそうです。主イエスがチャンピョンであるということは、イエスさまご自身のためにチャンピョンになられたということではありません。むしろ徹底的に、私どものためにチャンピョンとなられたのです。罪の力に敗北し、罪の力の勝利としての死、罪の棘である死の圧倒的な力の前に、逃げまどいつつ、しかし死んで行く惨めな人間、敗残者である人間のためにチャンピョンとなられたのです。この罪と死の背後に暗躍する悪魔、私たち人間を徹底的に打ち倒す敵から守って下さるのが、主イエス・キリストなのです。サタンは、私たちの罪と死という現実の弱さをつついて、神さまから引き離そうと、悪の力をもって攻撃してきます。しかし、主イエスは、ご自身の命をかけて、悪い者にたちはだかって、私たちを守って下さいました。あの十字架の上で、それを決定的に成し遂げられました。そして今まさにこの瞬間も変わらずに、まどろむこともなく、私どものために、大祭司として、執り成しの祈りを続けていてくださり、悪から私どもを守っておられるのです。

私たちは、「イエスさま、わたしを悪い者から救って下さい」と祈って、このチャンピョンでいらっしゃる主イエスの懐に逃げ込めるのです。この祈りによって、私たちは、主イエスによって守られ、助けられるのです。確かに私たちは、人生において、しばしばノックダウンさせられることがあるでしょう。しかし、この祈りを祈る人は、決してノックアウトされることはありません。この祈りによって、主イエスからの力を受けて何度でも立ちあがれるからです。逆に言えば、ダウンしても、へこたれたり、諦める必要もないのです。10数える間に、立ちあがれるはずです。神が、そこで恵みを注いで、立ちあがらせて下さるのです。チャンピョンでいらっしゃる主イエスのおかげで、私たちもまた、小さなチャンピョンにしていただけるからです。

 今、聖餐の礼典にあずかります。この礼典こそ、勝利者イエスと一つに結ばれるための、恵みの手段です。主イエスは、主の祈りとこの聖餐の礼典によって、ご自身の勝利を、私どもにそのままあてはめて下さいます。感謝を持って、聖餐の礼典を祝いましょう。

祈祷
 地上に、生きるかぎりは、信仰の戦いを強いられる私共、それを誰よりもご存じでいてくださる、私共の主イエス・キリストよ。私共の罪を贖う為に、御子を人間とならせ、その肉体において激しい罪への誘惑を受けさせられることをよしとされた父なる御神。どうぞ、この罪との戦いに、意気沮喪させられることから守って下さい。「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」と地上で叫び祈られた、主を仰いで、主と共にこの旅路を全うさせて下さい。そのために、主日の礼拝式をますます祝福してください。アーメン。