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「空飛ぶ鳥、野の花を見れば分かる」

「空飛ぶ鳥、野の花を見れば分かる」
2010年3月7日
テキスト マタイによる福音書 第6章25-34節 ?
 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

早いもので、私どもは今朝、3月の第一主日を祝っています。第一主日は、いつも聖餐の礼典を祝います。この聖餐の礼典のことを私どもは、「目に見える神の言葉」と古代の教会より表現してまいりました。説教のことは、「語られる神の言葉」と申します。語りかけは、耳で聴きます。ですから、神は、皆さまに、言わば全身を耳にするようにして、聴くようにと求めておられるはずです。そうであれば、目に見える言葉である聖餐の祝いにおいては、神は、皆さまに、まさに見ること、注意深く、よく見ることを求めておられるのだと思います。

先週、子どもの教会に来ている中学3年生の女の子三人が、その内の一人が沖縄に引っ越すので、最後の別れをしにと、教会に来てくれました。3月は、卒業式のシーズンです。しかし、教会には卒業がありません。また何よりも素晴らしいことは、教会には試験がありません。学校では、必ず一年、一学期が終わる時、試験をします。きちんと学習できたのか、どの程度習得できたのか、それを試すわけです。忘れ難いことですが、ある牧師が、礼拝式の後、玄関で会員たちを見送る時、「今日の説教で何を学びました。今週、今日の説教をどのように生かしますか。」そう尋ねるのだと申しました。わたしがそのようにし始めたら、皆さんは、いかがでしょうか。

さて何故、このような話をするのかと申しますと、今朝、私どもは聖餐の礼典を祝うからです。実は、わたしは、この説教の準備をして「あっ」と、気付かされたことがあります。聖餐とは、その日の説教の実りをはかる、言わば試験のような機能があるのではないかということです。この聖餐をよく見るとき、注意して見るとき、主の恵みを深く、豊かに味わうことができるはずだからです。それは、おそらくは、私どもが、どれだけ御言葉を聴きとることができたのかということも同時にはかれるものとなるからです。

主イエスは今朝の有名な説教のなかで、「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」つまり、よく見ること、注意深く見ることを呼びかけられます。今朝、私どもは、空の鳥、野の花ではなく、むしろ、聖餐のパンとぶどうジュースをよく見る、注意して見つめたいのです。
もとより、「よく見る」「注意して見る」とは、先週の説教のおさらいになりますが、信仰の眼を開いて見るということです。信仰の窓を開くということです。今朝、それが、具体的に試されるのだとも言えると思うのです。しかも、この説教は、これまでの説教のおさらいのようです。
この説教の冒頭の言葉「だから、言っておく。」と始まることから、それは、間違っていないと思います。つまり、「今までの説教をちゃんと聴いてきたなら、そして信じたなら、その結論は、こうなりますね、ここで私が言うことが分かるでしょう」このような主イエスの思いがこもっているのです。

本日もまた、「星の王子さま」について、言及したいのです。この20世紀を代表する、最高の文学は、日本においては、子ども向けの本として紹介されました。お読みになった方はすぐ分かると思いますが、その理由の一つは、絵本のようにイラストが多く描かれているからだろうと思います。そして、このイラストが、この物語をひもとくために、なくてはならない極めて重要な役割を担わせられているのです。

物語の最初に、主人公である飛行士が描いた、大きな蛇が、象をまるごと飲みこんでいる絵が示されます。ヘビのお腹の中は、描かれていません。私などは、中学生のとき、おじさんにプレゼントされて初めて読んで見たとき、帽子にしか見えませんでした。そして、読み通すことができませんでした。

わたしは、このように考えています。著者は、読者にあなたは、この物語を本当に読めますか。理解できますか。あなたは、ものごとの真実、人間にとって目に見えない一番必要で、大切で、肝心かなめのことがちゃんと見えていますか、きちんとわきまえていますか、そのように問うているのだろうと思うのです。実は、この物語の最後にも、絵が登場します。もはや、絵というより、イラストのようです。3歳か4歳の子であれば、難なく描けると思います。それは、砂漠をあらわす二本の地平線とその上に星が昇っている、まったく素朴な、簡単なイラストです。

著者は、最後まで読んだ読者に期待している、あるいは、ここでこそ、最終試験、卒業試験を課しているのではないかと思うのです。「あなたは、わたしのこの小さな物語を終わりまで読んでくれてありがとう。でも、ちゃんと読んでくれましたか。読んでくれたなら、分かってくれますよね。この小さなイラストをよく見ると、ほら、王子さまの笑い声が聴こえてくるでしょう。薔薇の花や羊だって見えてくるでしょう。」そんなふうに、思うのです。

実は御存じのとおり、私どもの教会は、教会堂の中に、イラストや像を置くことを極力、排除してまいりました。これは、悪い事ではありません。何故なら、私どもには、聖餐のパンとぶどうジュースがあるからです。何よりもここに聖餐卓があり洗礼盤もあるからです。これをよく見る人、注意深く見る人には大切なものが見えてくるからです。

教会のシンボル、あるいはキリスト教のシンボルの中で最も有名なのは、間違いなく十字架です。これこそ、ごく単純な線で成り立っています。縦の線と横の線、二本の線をクロスさせるだけのイラストです。ところが、もしも私どもが聖書の物語を読んで、ただ読むだけではなく、心でちゃんと読んで、説教を聴いて悟るなら、この十字架のイラストを見つめるとただちに、そこに神の愛が見えてくるはずです。そればかりか、さまざまな神の真理、福音が映ってくるはずです。
ですから、礼拝堂に十字架だけは、例外としておいている改革派教会も少なくありません。私どもの教会堂の真上には、十字架が高々と掲げられています。ある人には、教会の目印、キリスト教のマークだけで終わってしまいます。しかし、信仰者にとっては、もっと深く、豊かなもの、シンボル、象徴となるのです。見る人の信仰の眼、その信仰の理解、信仰体験の深さにしたがって、十字架の見え方も違ってくるのです。

私どもは、今、室内にいますが、主イエスのこの説教をきちんと聴きとりましょう。主イエスの言葉による説教を聴くことによって、信仰の眼を開いて、鳥を見、野の花を見るのです。それは、主イエスの説教を心の奥底で聴きとることです。頭で理解するというより、心の深いところで理解することです。それは実際に、命じられた通りに御言葉を行うことです。そのために、今、何よりも大切な事は、語られたお方、主イエス・キリストごじしんを信仰の目をもって見つめることによってなされるのです。

 さて、主イエスがここで、弟子たちにお命じになられた最も大切な御言葉を聴きましょう。それは何でしょうか。それは、「思い悩むな。」です。「あなたは、思い悩んではならない。」という禁止命令です。日本語の順序では最後にでてきますが、もともとの言葉では、最初に語られます。

ある聖書は、「思い煩うな。」と訳しました。むしろこの方が、事柄を深く、適確に言い表しているかと思います。煩うとは、心を病むということです。患い、病気になってしまうのです。心を病むほど、不安にさいなまれる。それが、思い煩うということの意味です。

もとより、人間としてあれこれ悩むこと、それ自体を悪いことであるとは、まったく考えられません。もしも悩まずして大人になれた方がいるなら、それは、なんと薄っぺらな人間なのだろうと思います。おそらく、そのような人はほとんど一人もいないのではないかと思います。ただし、もしもその悩みが、的外れの悩みであったのならどうでしょうか。つまり、悩む必要のないことで悩み、本当は、悩まなくてはならないことを悩もうとしないで、やり過ごすことがあったらどうでしょうか。的外れの悩みに対して、どれほど真剣に、徹底して悩み、考え抜いても、結局は、よい結果を生じること、よい実りを結ぶ事はできないだろうと思います。
 
ここで思い悩むなと禁じられているのは、これまで主イエスの説教に耳を傾けていた弟子たち、これを直に聴いた弟子たちのことです。弟子たちは皆、神を信じ、イエスさまをそれなりに信じ、従っている者たちです。無神論の人、神さまのことをまったく気にもとめていない人に語られているのではありません。
主イエスは、隠れたところにいらっしゃって、いついかなるときにも、私どもを愛の眼差しで見つめていてくださり、やさしく、憐みの眼差しで顧みていてくださる、私どもの父なる神さまがいらっしゃることを語り続けて下さいました。施しをするにも、祈りを捧げるにも、断食をするにも、この神さまの御前で、それが見られ、聴かれていることを信じるべきことを、勧めてくださいました。

したがって主イエスはここで、「だから、言っておく。」と語られるのです。隠れたところにいらっしゃる父なる神さまを信じていながら、正しく悩むこと、考えを深め、思いを深め、人間性を深めるのではなく、思い煩ってしまうのは、おかしいことではないかと主イエスは問われるのです。天のお父さまを信じることと、思い煩うこととは、少なくとも主イエスにとっては、それは相いれないものなのです。少しも混じり合わない、まったくの別物なのです。

「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。」と仰います。異邦人とは、創造者なる神、唯一の神を父として知らない人々のことを意味しています。主イエスは、彼らは、父なる神さまを知らない、信じないから「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩む」のだと仰るのです。それは、言わば、仕方がないことなのです。しかし、神を父として知っている信仰者なら、そのようなことで思い煩うことは、罪となるのです。

 少し横道にそれてしまうかもしれませんが、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と考えること、それは、本来、楽しいことなのではないでしょうか。もし女性が、着るものに何のこだわりもなければ、いささか寂しい気が致します。もしもお食事をつくってくださるお母さんが、今日は何にしようかと、食事の準備を楽しんでくださらないと、それを頂く側は、さびしい気がします。つまり、これら日々のことごとは、そもそも、本来は、思い煩いの対象ではないのだと思います。それらを思い煩いにしてしまうところに私どもの、言わば異常さが見えてくるように思います。そこに不信仰の惨めさがあります。

確かに、心が病むと体も調子が悪くなります。病気になります。そのようなストレスから来る病気は少なくないはずです。主のために生きるところから来る様々なストレスのことを言っているのではありません。使徒パウロは、主のために、主の教会を建てるために、様々な教会の悩み事、心配事、課題のためにどれほどのプレッシャーを受けていたことでしょう。まさにストレスのかたまりのような日々だったと思います。おそらく真実に教会に仕える牧師であれば、そのような経験を知らない人は一人もいないはずです。
 
 しかし信仰者、キリスト者にとって、思い煩うことは、許されていないのです。禁止されているのです。何故でしょうか。それは、もし、思い煩うのなら、それは、隠れたところを見ておられる私どもの父なる神を信じていない、深く信頼していない証拠だからです。その結果、起こってしまうことだからです。「そうは言っても、神さまを信じていても、人間は思い煩うものだ、仕方がない。」そんなふうに、簡単にここを読み飛ばし、言い訳にしてはならないのです。これまでの主の説教の総決算がここで語られているからです。そのために、主イエスは、私どもによく見ることを求めてくださいます。よく見なさいと招かれます。

先週もご紹介した詩人のまど・みちおさんの詩に、まさに鳥について、小鳥を詠った、すばらしい詩があります。皇后の美智子さんが、英語に翻訳して世界に紹介したことでも有名になりました。「ことり」という詩です。

そらの しずく?  うたの つぼみ?
  目でなら さわっても いい?」

詩人は、小鳥を見つめています。詩人の眼には、小鳥が、まるで大空から滴り落ちるきらきら輝くしずくのように見られ、またその耳には、天から奏でられる音楽の調べ、歌のつぼみのように聴こえているのでしょうか。手で触ったら、その小さな心臓をどきどきさせてしまいそうで、かわいそうに思ったのか、「目で触る」と表現しています。
わたしは、この詩を読むまで、目で触るというような表現に出会ったことがありませんでした。目で触る。それは本当によーく見る。見つめる。しかも優しさをもって、深いいとおしさをもって、愛情をもって見つめているのだと思います。小鳥そのものが空そのものとして見える。小鳥そのものが歌そのものとして見える、もう、これ以上、短くもできないし、これ以上にやさしい、簡単な言葉も使えないほど、ぎりぎりの表現で、小鳥の存在に感動している詩人の心臓のどきどきするような思いが、こちらにまで伝わって来ます。

 青空も鳥も、神の被造物ですから、その美しさを主イエスは、100歳になる詩人のまど・みちおさんとは比べられないほど、もっと深く、鳥にも草花にも愛をもって、喜びと驚きとをもって見つめ、そして、創造者なる父なる神を賛美なさったことと思います。ただし今ここで主イエスが見つめていらっしゃるのは、ただ単にそれらの美しさではありません。この鳥たち、野の花々をちゃんと生かし、養っておられるお方がいらっしゃるという事実です。主イエスは今朝、私どもが優れた詩人になるようにと願っておられるのではありません。まことの信仰者、幸いなキリスト者になることを願っておられる、そうなるようにと要求されているのです。そのために、神へと信仰の眼を向け、神へと心の窓を大きく解放することを求めておられるのです。

つまり、信仰の眼を開き、窓を開き、神からの光を入れることです。ともし火を灯して頂くことです。その明るい澄んだ信仰の目で見ることを求めておられます。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」鳥とは、まさにその日暮らしの生き物です。人間のように明日に備えることができません。小鳥たちは、親鳥が餌を運んでくるのを待っています。そして、親鳥は、小さなくちばしを一生懸命、親鳥に開けて、餌を入れてくれるのを待っているだけです。そのような鳥たちのいのちを神が慈しんでくださることを私どもは知っています。そんな鳥たちが、「空のしずく、歌のつぼみ」かと謳いたくなるほど、その鳥としてのいのちをキラキラと輝かしています。私どもの目すら癒し、楽しませ、耳に心地よい讃美の歌を響かせてくれるのです。

そこで主イエスは、問われます。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」わたしども人間は、神の形に似せて創造されました。神のいのちを鼻からふきいれられた存在として地上に置かれています。それは、他のいのちとはまったく別格です。まるで神であるかのような尊い、尊厳ある存在として人間は造られ、生かされているのです。それが、聖書の人間理解です。それほどまでに尊い存在のいのちを神が大切になさらないはずがない、これは、主イエスの確信なのです。主イエスの私どもへの約束、宣言なのです。先週もご紹介しました八木重吉さんの詩をここでも思い出して頂ければと思います。「自分のかたわらに立って、自分を見る。美しく見る。」神は、人間を鳥よりも花よりも美しく見ていて下さるという真理がここにあらわされています。

 先週、ユニセフから募金の求めがまいりました。幼い多くのいのちが食糧がなく生命の危機にひんしている、あなたの募金で何とかならないのかと訴えられます。何週間か前には、「国境なき医師団」という団体から、ハイチのための医療団を派遣するために、緊急の支援をと訴えられました。世界には、明日の食糧を受けることができない人々がいることを、わたしどもは知らないわけではありません。

そうであれば、天の父は何をしておられるのか、イエスさまが言われたことは、21世紀の人類にとっては、鳥以下の存在になっているではないか、神は何をしているのか、全能者なる神はいるのかという批判がでるかもしれません。しかし、その批判を神に向けるのは、的外れです。そこでこそ、鳥にまさる人間の出番があります。それは、倉に納めている食糧や銀行にあずけてあるお金をいくばくかでも分かち合うことです。

 神は、誰かにではなく、教会に求めておられます。キリスト者にこそ、求めておられます。なぜかと言えば、キリスト者たちは、自分もまたこの神によく守られている、いつも豊かに顧みられているという驚きを知っているからでしょう。その感謝が、私どもの献金、隣人への奉仕ディアコニアに繋がるわけです。私どもは、自分のこと、自分の暮らしを守るために精一杯で、そんな外国の人たちのことまで、知らない。そう言えないのではないでしょうか。私どもは今、神に支えられ、衣食住を与えられているからです。

主イエスは、ここで重ねて仰せになられます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」

それは、あの主の祈りの学びの時にも、主イエスが切々と語られたお約束でした。あなたがたの天の父は、私どもの日用の糧を御存じなのだ、何を食べ、飲み、そして着るかその他、すべての必要を御存じなのだ、これらを与えて下さるのだと学びました。主イエスは、今、おさらいをしてくださるように、重ねて約束されるのです。それでもまだ、確信がもてないのなら、あの鳥を見よ、あの花を見よと、ここで目に見える現実の姿をもって説得して下さったのです。

私どもは、今ただちに聖餐の礼典に与ります。これは、鳥や花を見ることとは比べ物にならないほどの現実、しるしです。聖餐は、天の父が私どもに御子なる神の御いのち、主イエス・キリストご自身を与えて下さったことのしるしだからです。このしるしを注意深く見るとき、「大丈夫、生きて行ける。」と信じることができるのです。なぜなら、聖餐を祝うそのとき、「大丈夫、わたしが共にいる。大丈夫、父とわたしと聖霊の恵みの支配の中にあなたは包まれ、生き続けることができる」そのような神の語りかけを聴くことができるからです。
 
祈祷
 空の鳥、野の花を見るよりもはるかにまさって、聖餐の礼典を今朝私どもにふるまって下さる恵み豊かな主イエス・キリストの父なる御神、聖霊の交わりの内に、大丈夫、心配ないと語って下さいますことを感謝いたします。あなたをよく見ることを怠り、不安の中に、落ち込む愚かな、不信仰な私どもを憐れみ、赦して下さい。今朝、主の御言葉を聴いて、聖餐に真実に与らせてください。そして、思い煩う人々の隣人として私どもを用いて下さい。アーメン。