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「裁かれない場所」

「裁かれない場所」
2010年3月21日
テキスト マタイによる福音書 第7章1-6節 
 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
  神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

4月4日で、私どもは開拓伝道開始第16周年を迎えます。16年間の積み重ねの中で、やはり、決定的に大きなことは、おそらくは、開拓伝道を開始したその数年間のことではないかと思います。開拓のはじめ、私どもの教会はどこを目指し、何を目指していたのでしょうか。それを示すのが、この祈りの言葉です。「ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する慰めの共同体を形成させてください。」ここには、鍵の言葉が満ちているのですが、一つの鍵となる言葉は、慰めです。慰めの共同体です。

今、多くの求道者が与えられ、本当に感謝しています。そして何よりもうれしいことは、教会に来るのが待ち遠しいと仰る方を拝見することです。どれほど嬉しく思うことでしょうか。それは、キリストの教会、キリストの体なる教会である私どもの真ん中に主イエス・キリストが鮮やかに共にいて下さるからに他なりません。そして、それこそが、慰めの共同体の姿に他なりません。慰めの家とは、居心地がいい場所です。何故、教会は、居心地が良いのか。それは、自分のあるがままの存在が、神に受け入れられ、神の民お互いに受け入れられているからです。本日の説教の題は、「裁かれない場所」です。それは、言葉を換えると、自分が否定されない場所です。あなたはダメ、君はそんなんじゃダメだと、叱られない場所です。見捨てられない場所です。あるがままの自分が受け入れられ、愛される時、私どもは、本当に自分らしく生きれるようになるのだろうと思います。

さて、慰めの家をここに建てる、それは私どもの考えや、願いに基づくのではなく、主イエス・キリストご自身の決意に他なりません。主イエス・キリストご自身が、この岩の上に、わたしの教会を、慰めの家をわたしが建てると宣言なさったのです。そのような交わりをここに造り上げるとき、不可欠のこととしてお命じになられたのが、今朝の御言葉です。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」自分が裁判官となり、裁判長となって、自分以外の誰かを被告にして、裁くな、審判するなということです。

今は亡きある優れた説教者がこのように言いました。「人を裁くことは、良くないと思っています。それなのに、それは面白い事ですし、もし、人を裁くことが人の悪口を言うことであれば、こんなに気持ちのいいことも少なくないでしょう。我々は、人の悪口を言っては、自分が優越感に浸るのです。他人の悪口を言うことは、自分を喜ばせることになるのです。」さすがに、鋭く私どもの生活、心の底を見抜いています。

そもそも、罪とは一体何でしょうか。あるいは、何であったのでしょうか。あのアダムとエバが犯した神の御言葉に対する違反が罪の根本でした。罪の源です。それは、神が決して食べてはならない、食べたら必ず死ぬと警告された善悪の知識の木の実を食べたことです。聖書は、なぜ、それを善悪の知識の実と言ったのでしょうか。それは、善悪の規準が神にあること、神のみが、それを決定する権威をお持ちだという主張です。それにもかかわらず、人間は、愚かにも自分自身がその善悪の規準を持とうとする企てであったわけです。つまりは、罪とは、自分を神にすることです。自分を主にすることです。したがって、「人を裁くな。」とは、自分を神にするなという教えなのです。

ここで、先ず、基本的に大切なこととして確認したいのは、何故、人を裁いてはならないのかという理由についてです。新共同訳聖書では、「あなたがたも裁かれないようにするためである。」とあります。これは、受け身の形で表現されていますが、主語は誰なのでしょうか。神です。人を裁いてはならないのは、あなたがたの神に、あなたがたも裁かれないようにするためだ、ということです。それは、次の御言葉、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」においても同じです。あなたがたは、自分の裁く裁きの方法、裁きの規準で、神に裁かれ、自分の量る秤、刑罰で神にはかり与えられる、つまり神からの刑罰を受けるということです。そして、神の刑罰を受けるということがどれほど恐ろしいことか、私どもは、それに無関心なのです。

しかしその一方で、もしも、キリスト教や聖書は、一切の裁くことを禁止しているのかと問われるなら、ただちに、まったくそうではないとお答えしなければなりません。そもそも、私どもの教会は、言わば、裁判を重んじる教会だからです。私どもの教会には、憲法があります。ウェストミンスター信仰規準そして政治規準という教会を地上に建て上げるために必須の言わばルールブックを持っている教会です。教会において、神の主権、福音の真理が正しく教会において展開されているかどうか、その筋道を整えるための法が整備されています。私どもは、どれほど、このことを感謝しなければならないかと思いますし、これからも、いよいよ私どもの教会が、堅固な教会となるためには、この憲法に立脚して、これを身につけて行く努力に励みたいと思います。

しかし今、そのような私どもの教会が、「裁くな」との御言葉を聴くのです。これは、教会が建つか倒れるかというほど、重要な戒めだと言ってよいのです。

主イエスは、仰いました。「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」おが屑とは、のこぎりで木を切ったときにでる木のくずのことです。ここでは、兄弟の目からおが屑を取り除くことができるし、むしろ積極的に、それを取り除いてあげることが、求められていると理解できるはずです。

確かに、もしも教会の中で、キリストの主権を犯すこと、福音の恵みと真理を損なうこと、キリストの主権を脅かす事が起これば、教会の交わりは危険にさらされます。崩れることすら起こりえます。

5周年記録誌の中に収められている、98年5月の牧会通信に、このような文章があります。「岩の上教会が、岩の上に立つ為に、神を知り、ありのままの人間を知り、認めることが不可欠なのです。弱い欠けだらけの土の器が教会を構成するのです。その意味で私共は、「わがまま」は斥けられねばなりませんが、お互いの「弱さ」を偽り隠し立てする必要もありません。」ここで言う、「わがまま」とは、自分の正しさをどこまでも主張する弱さのことです。教会は、これとは徹底的に向き合い、それに妥協してはならないのです。ただしかし、そこで急所になるのは、ここでは、言わば、「わたしがそれを取り除いてあげましょう」など言いだすことは全く想定されていない点です。

むしろ、自分の目の中に丸太が入っていることにこそ、気付けと指摘されます。これは、とてつもない例えです。自分の目の中に、丸太が入っているのです。板ではなく一本まるごとの木です。丸太の木を切るときにでるおが屑と丸太の量とを比べれば、何千何万、いへ、何百万分の一のでしかないはずです。その丸太が入っていれば、自分を正しく見ることも、人を正しく見ることもできるはずがありません。

ただここでも、注意しなければなりません。の目から取り除くことによって、その結果、自分がよく見ることができるようになる。丸太が取り除かれたら、「こんどは大丈夫ですから、わたしがあなたの目に入っているおが屑を取り除いてあげましょう」というようにはならないということです。ここでは、どうやったら、肝心かなめの相手の屑を取り除けるのか。それは、ひと言も語られません。それは一体何を意味するのでしょうか。

星の王子さまの物語で、王子さまが最初に訪ねた星には、ひとりの王様がいました。この王様のセリフにこういうものがあります。この星にすぐに飽きてしまって、すぐにも飛び立とうとする王子さまに向かって、こう言いました。「行かんでくれ、お前を大臣にしてやるから。」「法務大臣じゃ。」この星は極めて小さく、この王様以外に住んでいないのです。王子さまは言います。「でも裁判にかけなければならない人なんて、だれもいないでしょう。」そこで王様は、はじめてのように、よいことを言うのです。そのセリフがこれです。「それならばお前は、自分を裁判にかけるがよい。それが一番むずかしいのじゃ。他人を裁くより、自分を裁くことの方がずっとむつかしい。もし自分を裁けるなら、それはお前が本物の賢者だからじゃ。」これは、本当のことだと思います。私どもにとって自分のことが、自分の過ちが、本当に分からないのです。

旧約聖書に登場するダビデ王は、部下の妻を自分のものにしてしまったおそろしい罪を犯しました。しかし、預言者ナタンによって、罪を指摘されるまでは、平然としていられたのです。あれほど賢い人間、王であっても、自分を裁くことにおいては、驚くほどの鈍感さでした。まさにそこに、人間の弱さ、罪があるのだと思います。これは、まったく他人事ではないのです。

もしも私どもが、誰か兄弟の目から塵を取り除くことができるとすれば、それは、徹頭徹尾、自分の目そのものが真理を正しく見る眼として開かれる、目が澄んでいる、そこにかかっているのだということです。言葉を換えれば、自分自身が変わること、これこそ、すべてのすべてなのです。もっとはっきりと発音すれば、兄弟の罪を悟らせ、おが屑を取り除けるのは、ただ、神のみだということがここではっきりと示されているのです。私どもが出来ることがあるとすれば、それは、自分自身がこの神をはっきりと仰ぎ見ていること、目が澄んでいることにかかっています。

そうなるといったいどうして、人を裁くことに急げるのだろうかということが分かります。また、何よりも自分の目から丸太を、神さまによって取り除いていただくためには、どうすればよいのかも分かって来ると思います。

いったい神が、どうして、罪人でしかない私どもの姿を、野のゆり、薔薇よりも美しく装おい、そのように美しい存在として見てくださるのでしょうか。その最も深い原因は、私ども自身にあるわけではないのです。それは、神が、御子のいのちをもって私どものいのちを買い戻されたからです。神さまに、罪を赦されているからです。そのように、溢れるほど豊かで、深い赦しの恵みを受けている自分の姿です。主イエス・キリストの御苦しみ、苦難によって、自分の罪が帳消しにされている。自分の罪がまったく洗い流されている姿です。驚くべき姿。あり得ない姿です。

しかし、それが起こった。起こってしまったのです。主イエス・キリストが十字架について下さったからです。わたしの罪を赦すため、父なる神が身代わりに御子を裁かれたからです。徹底してわたしの代わりに御子なる神、人となられたイエス・キリストが、私どものすべての罪を代わりに負って下さったのです。担って下さったのです。この罪の刑罰をことごとく十字架の上で担われた事の故に、私どもは、神の子とされました。

神の子とされた自分をよく見る。それは、単に、自分を見つめることとは違います。自分をよく見つめただけでは、ここで言われている恵みは見えてきません。ただ自分の心を深く掘り下げてみても、それだけでは、見えて参りません。本当の自分の姿を見るためには、ただ徹底して、十字架を見上げることが必要なのです。イエスさまを見つめることです。主イエス・キリストを仰ぎ見るとき、そこに、神の愛を見ることができるのです。今朝は、聖餐の礼典はありませんが、先日の説教で、パンとぶどうジュースをよく見ようと申しました。それは、ただ、パンそのものを見ることではありません。パンとぶどうジュースを通して、主イエス・キリストを見つめることでした。そ十字架のシンボルが、主イエスを信じた人には、無限にまで豊かに語りだすのです。

裁くことに急ぐとき、私どもは、そこで、見るべきお方を見なくなるのです。その時には、私どもの信仰の眼には、丸太が入ってしまい、閉ざされてしまうのです。そうすると、暗くなります。闇になります。

そのとき、実は、自分を裁くことも起こります。自分で自分を審判する。裁くのです。それは、正しい裁きではなく、まだ誰かを赦せていない自分、まだ自分を中心にして、自分の力や立場にこだわろうとしている情けない自分。その自分を、自分で、これではダメだと裁くことです。神に代わって、自分を断罪するのです。人を裁く罪と自分を裁く罪と、根本にある罪は、同じです。人を裁くとき、人を損ないます。自分を自分で裁いたら、自分を損ないます。

またわたしは、思います。もしも、神のみが真実の裁き主であることを見失えば、我々は、何とか自分で、地上で、裁判を開いてもらって、身の潔白を証明しなければ、悔しくてたまらないと思うはずです。そして、この恨みはらさでおくべきかと、恨みやつらみで、自分のこれからの人生を損なってしまうのです。そんな悲しい生き方に閉じ込められたままになるかと思います。

私どもは、自分も兄弟も、神に愛され、神に赦され、神の目に値高く、尊いのです。その尊い人間を、我々は、知らないまま、無意識の内にも壊そうとするのです。それが、我々の闇です。しかしだからこそ主イエスは、今朝も、私どもに、この礼拝式へと招き入れ、ここで神の光を浴び、神からのいのちの光を注いでくださるのです。悔い改めと信仰こそ、光に向きあう道です。その方法、手段が祈りであり、何よりもこの礼拝式なのです。

最後に、第7節に触れなければなりません。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」この御言葉がここで語られるとき、私どもは、これを解釈することがとても難しいと思います。裁くなと言われた主イエスご自身が、ここである人たちを犬と、また豚と呼ばれたからです。ご自分の戒めをここで自ら覆してしまわれるのではないかとすら思ってしまいます。これは、祈祷会で改めて丁寧に学ぶ必要があるだろうと思います。

5節までは、主イエスは、兄弟に対して語りかけられていました。つまり、神の民である教会の交わりを慰めの共同体とするためです。神の民であるキリスト者には、神聖なものが与えられています。神聖なものとは何でしょうか。それは、福音そのもの、福音の教えと言ってよいでしょう。そして、福音そのものでいらっしゃるイエスさまご自身のことであると言っても良いのです。私どもは、ただこのイエスさまのおかげで、自分の目の中に丸太が入っていて、自分のまことの姿が見えないのだと教えられました。そして同時に、その丸太を取り除いて頂けたのです。少なくとも、私どもは今、この丸太を取り除いて頂いている過程にあるのです。

ただし、この福音の真理、神聖な宝物は、誰にでも喜んで受け入れられるものではないこともまた、私どもが生活の中で実際に味わっていることです。伝道のために奉仕するとき、ただちに直面させられる厳しい現実です。私どもは、こんなにすばらしい福音の教え、主イエスの恵みと愛なのだから、誰でも大喜びで、これを受け入れるはずだ、こんなに大切な教えは、この世界に二つとないのだから誰だって、この福音を信じるはずだと思います。これは、私どもの自然な感情です。

ところが、多くの人々は、この福音を求めていません。彼らが、求めているのは、似てはいますが、違うものなのです。主イエスこそ、それを御存じでいらっしゃるのです。この神聖なもの、真珠のような貴重な宝は、それを求めず、理解しようとしない人は、捨ててしまいます。主イエスが、群衆によって、十字架へと捨てられてしまったようにです。ですから、言わば大安売り、投げ売りする必要はないし、それをしてはならないということがここに言われているのです。しかし、それは、決して、彼らを見捨てることでも、見放すことでもありません。主イエスは、彼らのためにも十字架に赴かれたからです。

誰が犬であり、豚なのか。それは、おそらく多くの場合は、私どもの眼には、隠されているのでしょう。日本の社会の中で、現代ほど福音が求められている時代もまた少ないのではないかとすら思います。しかし、多くの人たちは、福音による解決を、救いを求めずに、お手軽なもので済まそうとします。

しかし、そのような中で、この福音の宝に目が開かれる人も起こされるのです。一体何故なのでしょうか。それは、まさに、求道者の眼が、その中に入っている丸太が、福音によって、イエスさまによって取り除かれたからです。先週、ある方から、このようなメールを頂きました。「少しずつですが、聖書を読み進めるうちに、これまで考えもしなかった自分の過ちに気が付いたり・・・」自分の過ちに気付く、これこそ、目が澄んで来ている証拠に他なりません。それは、その方の心の窓、心の眼が、見えない神の方へ、天へと向けられたからでしょう。いへ、丁寧に申しますと、神が向けてくださったのです。こう言った方がもっと近いでしょう。神がその憐れみによって、神ご自身がそこまで降りてきて下さって、その方の視界に入り込んでくださったからです。

そして、その宝、その聖なるお方へと、目を注ぎ続ける内に、求道者もそして既に洗礼を受けた私どももまた、光よりの光でいらっしゃる主イエスの光を浴びて、罪深い自分の姿を、そして同時に罪を赦された姿をも見ることができる者とされるのです。

わたしどもは、兄弟の目からおが屑を取り除けると、豪語することは決してできません。牧師であるわたしのところに来たなら、誰でも信者にしてみせる。そんなことは決してあり得ません。そのような考えを持つなら、それこそ、わたしの目に丸太が入り込んでいるのです。しかし、わたしは祈ります。こんな自分ですら、赦されたのですから、丸太を取り除かれたし、取り除かれ続けているのですから、自分の力に頼まず、自分の限界を知りつつ、しかし、福音の無限の力を信じ、期待するのです。私と同じように生ける神を信仰によって、仰ぎ見ることができ、信じる事が出来るようにと言う期待です。

おそらくそのとき、どれだけの忍耐が求められるかと思います。しかし、わたし自身もまた、神のとてつもない忍耐の故に、遅々たる信仰の歩みが赦され、支えられているのです。

神に裁かれないこと、これこそ、私どもの救いです。そして、私どもは神のおそるべき裁きが御子に下された故に救われた、赦されたことを、この日もまた、しっかりと心に刻みます。自分を主として、人を裁く誘惑に抵抗します。神を仰ぎ見る信仰の眼差しが開かれることをこそ、熱心に求めるのです。

祈祷
自分のことを棚にあげ、人の罪、過ち、欠点ばかりを見抜く私どもです。しかもそこで、まるで悪口を言い、批判することができる自分の方が、優れているかと思いこんでさへしまう、まことに愚かな罪人です。あなたの裁きを恐れず、あなたに赦されたその赦しの重さに感謝することを怠る、まことに傲慢な罪人です。どうぞ、私どもの罪を御子の故に赦し、私どもの目から丸太を今、取り除き、あなたを仰ぎ見る信仰の眼差しを、澄みとおらせて下さい。そのようにして、ここに慰めの家を、主の赦しに生きる神の民の祈りの家を築かせて下さい。アーメン。