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「天の父の御心を行う者」

「天の父の御心を行う者」
2010年4月18日
テキスト マタイによる福音書 第7章21-23節 
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

マタイによる福音書を学び始めて既に1年4か月が過ぎました。そして、今学び続けております「山上の説教」は、昨年の3月15日から始まりましたので、丁度1年が過ぎました。そして、この学びも来週で終わろうとしています。私どもはこの一年に渡って、山上の説教において、主イエスから、信仰とは、御言葉を行うことなのだ。神の民とは、神の示された御言葉の道を踏みしめて歩むことだと、徹底して学び続けました。

ところが、今朝与えられた主イエスの御言葉は、まさに驚かざるを得ません。主イエスは、「偽預言者を警戒しなさい」と仰いました。預言とは、神の言葉を語ることです。つまり、信仰の告白の内容が厳しく問われたわけです。

ところがそのように、信仰の内容そのものについての厳密な理解を求めたその直後に、さらに、厳しい言葉が語られます。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」
ここで「主」と言われている言葉は、イエスさまに対する信仰の告白です。私どもの信仰の基本中の基本、「いろはのい」に関わることだと言ってよいのですが、私どもはイエスのことを、イエスさまとお呼びします。いへ、それだけではきちんとした信仰の告白にはなっていませんから、イエス・キリストとお呼びします。いへ、それだけでも不十分ですから、私どもが正式に、公的にイエスさまをお呼びするときには、主イエス・キリストと申します。

イエスはお名前で、神は救う、神の救いという意味があります。そして何よりも、キリストとは名字ではありません。救い主という称号、タイトルを意味します。つまり、イエスさまは救い主ということです。しかし、キリスト者として、決定的に問われることは、イエス・キリストを主とするのかどうかです。主とは、まさに神ということです。主人ということです。単にイエス・キリストと言い表すのではなく、「主イエス・キリスト」と告白すること、お呼びすること、それは、自分は、このお方に従うということの意志表明、信仰の告白なのです。

ですから、私どもの教会では、お祈りするとき、「主イエス・キリスト」と信仰を込めて、喜びと感謝を込めて、お呼びしているはずです。主の日のたびに、私どもは、ニカヤ信条によって、「われらは唯一の主、イエス・キリストを信ず。」と告白し、讃美と感謝を捧げています。

それだけに、マタイによる福音書がここで、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」と主イエスの御言葉を記したことの衝撃は大きいと思います。つまり、今朝、この礼拝式に出席して、ニカヤ信条をもって、世々の教会の信仰の告白を自分自身の告白として、正しく告白するだけではだめだということになってしまうのです。

わたしは、先週、主の日の礼拝式と祈祷会に出席すれば、大丈夫ですと、良い実を結ぶことができますと、ここで説教したばかりです。しかし、今朝、礼拝と祈祷会、毎日「主よ」「主イエス・キリストよ」と熱心に祈るだけでは、天国に入る確約も、良い実を結ぶこともできませんということになってしまいます。

しかも、そればかりではありません。さらに衝撃なのは、これまでの山上の説教で強調されてきた、御言葉に生きること、つまり、行いの面においても、ただそれだけでも、神の御顔の前には通用しないと言われるのです。「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

たとい、主の御名によって預言をしても、神との関わりを「全然知らない」と完全に否定されることもあるというのです。ここでは、明らかに偽預言者とされている人のことではありません。主イエスの御名を用いて語る預言者なのです。つまり、語られた言葉、文字を検証すれば、教会の公的な判定から言えば、正しい説教者と判定しうる預言者をも意味していると思われます。教会が、この人は、試験を通過して公認された説教者、安心して聴ける人ですと、太鼓判を押された人を意味すると思います。ところがそれでも、神御自身に退けられる可能性があるというわけです。

さらには、説教だけではありません。まさに、御言葉の実践の面、行いの面でも、大勢の人々が、「これはすごい、これは奇跡だ」と認めるようなことをしてみせた人でも、ただそれだけでは、だめだと言うのです。「悪霊を追い出す」とは、当時の人々は、すべて悪い事が起こることの背後には、悪霊の働きがあると考えていました。ですから、悪霊を追い出すこと、イコール、病人であればその人を癒し、ある悩みの中にある人であればその大きな問題を解決させること、不幸が襲いかかって来た人であればそれを幸いへと転換させてしまうことです。まさに奇跡を起こすようなすごい人です。そのような人がいれば、誰しもが、すばらしいキリスト者の働き人だと認めるのではないでしょうか。

ところが、主イエスは、まさに、そのような人であってもしかし、ただそれだけであれば、神から「全然知らない」と完全に否定されることもあると宣言なさったのです。

いったい、主イエスが、ここで問われることは、何でしょうか。わたしは、山上の説教を終えようとするとき、この説教全体を正しく聴きとれたのかどうか、理解できたのかどうかを、まるでイエスさまから試されるような、試験をされるような、そのような説教ではないかと思います。

山上の説教の主題とは、神の国です。神の国の生き方の道しるべが示されています。そして、神の国とは、私どもにとっては福音です。よき知らせです。この福音の理解にもとづいて、徹底的に、信仰の行いとは、いかなるものであるかが明らかに示されるのです。

先週は、連合婦人会の集まりがこの礼拝堂で行われました。開会の礼拝式で、マルタとマリアの物語から説教しました。マルタは、傍目に見れば、主イエスと弟子たちの食卓の世話に勤しんでいたのです。もとより大切な、きわめて尊い奉仕です。ところがそこでも、実は、神さまとは、関係ない奉仕に転落する危険性があるということです。それは、確かに奉仕なのですが、神の栄光を求めない奉仕です。神のために捧げるのではなく、自分のために捧げることがそこで起こりうるのです。わたしは、教会の奉仕に励むキリスト者であれば、一度も、それと戦ったことのない人はいないのではないかと思います。

私どもは、うっかりすると、自分の信仰深さや自分の信仰の行いによって、自分自身を安心させてしまうということもありうるのです。自分は、こんな奉仕もしている、あんな奉仕もした、だから、神さまの御顔の前に、生きることができている。そうやって、神の御前で、自分の義を貫くこと、そうやって安心したり、さらには誇りとすることがないわけではないのです。

主イエスは、ここで「かの日」と仰います。「かの日」とは、将来の日のことです。それは、最後の審判の日のことです。「天の国」とは、今地上に始められた神の国、キリストの教会において始められている神の国ではなく、完成された神の国のことです。その完成の日とは、主イエス・キリストが再びこの地上にい来られる日であり、そのとき、生きている者も死んだ者ももれなく全員が、このお方に裁かます。それを最後の審判と申します。しかも、ここで主イエスは、最後の審判の日、そのとき、大勢の人々が、自分が天国に入国を許されない事態が起こるであろうと、警告なさるのです。

さて、ここで、私どもが悟らなければならない第一のことがあるはずです。警告されているということの幸いについてであります。

先週、学校の関係で、ある学生が自分は履修登録したのに、講義も受けたのに、評価がされていないというクレームがあることが分かりました。教務の方は、履修登録をしていないから、ダメだと言いました。わたしは、それは、教務のミスでもあるかもしれないし、わたしの評価はとてもよい評価を提出していると告げました。一週間後、もう一度、評価を提出し、おそらくその学生さんは単位を取れるようになると思います。私としては、きちんと受講し、試験もよかったのですから、なんとかしたいと思いました。

学校の試験のことをも考えて見ます。一定の点数が取れなければ、単位が取得できませんから、学生は真剣です。そのとき、私だけではないと思うのですが、教師は、試験について、一定の情報を与えるのではないかと思います。それは、落としたいからではなく、単位をあげたいからです。

この主イエスの説教を聴く時、主イエスがどのようなお方でいらっしゃるかを決して誤解して、聴いてはならないと思います。どなたが、これを仰ったのかが分からないと、この御言葉だけを言わば、文脈から切り取って、解釈すると、イエスさまは、血も涙もない冷酷な方だと言うことになるかもしれません。しかし、そんなことは、想像もできません。主イエスは、私どもが天国に入ることを、願っておられるのであって、決して、大勢の者たちをそこへ入らせまいとなさるのではありません。父なる神が、御子の流された御血、その尊い犠牲の死を多くの人々の救いに導くことを、どうして願わないはずがありましょうか。神の御心は、一人でも多くの者たちが悔いあらためて、福音を信じ、天国に入る事に他なりません。テモテへの手紙?第2章4節にこうあります。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」そのような神が、その御子イエスさまが、ここでこのように語られているのは、警告のためなのです。どうぞ、こんなひどいことにならないように、と愛をもって警告し、勧めて下さるのです。

天の父の御心を行うものだけが天国に入れるのだぞと言われると、もしかすると私どもは、すぐに、心が慌てて、そわそわし始めるかもしれません。「自分は、これまでの教会生活を通して、どんなことをしてきただろうか。イエスさまの前に立たされるとき、自分の信仰生活の中でどんな報告ができるだろうか」そわそわするのです。
教会は1月に会員総会を開催します。総会とは、先ず何よりも神の御前に、教会の歩みを報告するためのものです。その次に、会員お互いへの報告のためです。そこで優先するのは、神への報告なのです。ここに教会が、他のいかなる諸団体との違いがはっきり致します。中部中会も4月に第一回定期会を開催しました。これもまた、一年間の神への報告がなされるわけです。先週は、中部中会連合婦人会の代議員会、総会が開催されましたが、同じことです。しかし、うっかりするとそのことを忘れやすいのです。

総会は、言わば、「かの日」、「最後の審判」のミニチュア、ほんのわずかかもしれませんが、そのときの影を映し出していると言えるかもしれません。それなら、どのような報告が求められるのでしょうか。

私どもが地上でなした働きをまるで、自分の成果、自分の働きの実り、業績として神に報告することは、できないのです。そのようなことはあり得ないはずなのです。地上で問われ、評価されることは、自分がなした努力、その実績です。たとえば学校を卒業し、会社に入ったとします。会社は、利潤を追求します。社員は、その利潤をどれだけあげることができるのか、それによって、会社の価値観で、価値規準に従って評価されます。そこで、自分の成果が、問われるわけです。地上にあっては事ほどさように、自分がしたことが、問われるのです。
学者の世界では、「業績表」というものが、問われます。業績表という言葉を初めて知った時、すごい言葉だと思いました。どんな業績を残したのか。それは、論文の数、雑誌への寄稿、学会での発表そのようなものが、どれだけあるのか、牧師でも、引退された牧師が教会員の手によるのでしょうが、どれだけの論文、講演、原稿を残したのかが、余すところなく、記される場合があります。それを否定することはないと思います。ただ、万が一にも、それらの働きが、まるで自分の成果であるかのように表記されるとすれば、それは、残念なことになるはずです。

私どもは、それらのすべてが、ただ神の栄光のためになされ、何よりも、神の恵みの実りとして、神の、聖霊のお働きの実りとしてなされたのだということを、わずかでも、不明瞭にするのなら、主イエスの御前に、父なる神の御前に、退けられることを思うのです。

つまり、私どものあえて業績という言葉を用いるなら、神の恵みによってという事実が現されるように、表現されるべきです。「父なる神さま、あなたの御子の贖いのみ業が、あなたの聖霊のお働きによって、わたしの預言を用いて、あの人、この人から悪霊が追放されました。奇跡が起こり、あなたを信じることができました。つまり、あなたの御業が成就しました。しかも、こんな小さなわたしの奉仕が、無駄にならず、用いられました。用いて下さったことを、心から感謝致します。」これが、私どもの報告の姿のはずであります。そこでは、自分が何をしたのかが重要なのではありません。結局は、神の御業だけが讃美されるのです。実に、何をしたのかという事を、誇って下さるのは、私ども自身ではなく、神のみなのであります。つまり、「かの日」、「最後の日」には、主イエスが、私どもに、「あなたは、わたしのためにこれをしてくれた、あれをしてくれたね!」と、評価し、語って下さるのです。それこそが、私どもの究極の幸いです。神が、私どもに、善かつ忠実な者と宣言してくださるのです。マタイによる福音書第25章に、最後の審判のときに神が語られる言葉がこう記されています。「忠実な良い僕だ。よくやった。」

最後に、このことをお互いに確認したいと思います。私たちの世界では、たとい誰も見ていなくても、自分の良心に恥じないように、行動することこそ、人間性の最高の境地だと言われています。本当に、そうだと思います。

ただしキリスト者としては、そのような境地で生きることはできないし、する必要もありません。
むしろ、主イエスが、聖書が何度も語り、約束してくださるのは、神の御前で、それらはなされ、評価されるということであります。キリスト者は、ただ、自分の良心に従って、よき働きを担う、奉仕に励むのではないのです。このこともまた、神のため、そして、神が顧みて下さるからこそ、そっと、誰にも知られずとも、この地上の困難な労苦を担えるのです。

もしも、それがなければ、わたしもまた、様々に地上的な評価を得るために何とかしなければと、焦ると思います。率直に申しますと、「あの事、この事、本当のところは、これこれこうだったのですよ」と、弁明したくなるでしょう。しかし、いちいち言いません。どうしてでしょうか。それは、「かの日」を本気で信じているからです。その日には、自分で自分を弁明する必要はありません。わたしは、あなたの御名によって、云々と、神に自己主張することはできないし、する必要はないからです。そもそも、そのようなこと自体が、福音を裏切ることであって、無意味なことだからです。

天の父の御心を行う。それは、どのような行為なのでしょうか。そのことを見事に言い表したのは、他ならない福音を説き明かした使徒パウロのコリントの信徒への手紙?第15章にあると思います。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」

そしてこの愛とは、まさに主イエスの愛であり、主イエス・キリスト御自身のことです。御心を行うとは、結局、神を愛し、隣人を愛することに他なりません。ただ、それだけが、山上の説教の生き方なのです。そして、それは、私どもの内側を振り絞って、絞り出せるようなものではまったくありません。こおの愛の行いは、奉仕は、伝道は、ディアコニアの力と実践は、主の救い、主イエスの恵みによってのみ与えられるものなのです。
だからこそ、主イエスは呼びかけられました。「求めよ!探せ!叩け!」そのようにして、主の愛を豊かに受けるようにとの招きです。私どもは、御言葉の恵みに与るときだけ、御心を行う者とされるからです。父なる神に、子どもとして愛され、恵まれ、施され、優しくされるとき、そのときだけ、人にしてもらいたいと思うことを、人にもできるようになるのです。

「かの日」の審判のときの警告を、厳かに聴きましょう。主の御心を悟り、その日によく備えましょう。それは、今ここで、言わば練習することもできます。今朝、私どもは神の御顔の前に座っています。先週、そしてこれまでの信仰の歩みをどのように報告するのでしょうか。これもまた、使徒パウロの言葉がふさわしいと思います。コリントの信徒への手紙?第15章10節、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」わたしがキリスト者として存在し、奉仕させていただけるのは、神さまの恵みのみによるのですという告白です。しかも、その次に続く御言葉もまた、決定的に大切です。「そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」

パウロは、自分の働きについての圧倒的な自負を持っています。誰よりも、働いたと言う。うっかりするとなんと傲慢な、と思います。しかし同時に、それなら、恵みを受けても何もしないということはあるのかという問いがうまれるでしょう。パウロは、「わたしは、恵みを受けた。だから、恵みに押し出されて働いたのだ。しかもそのすべては、ただ神の恵みによるのだ」と言うのです。ただ恵みを誇りとするのです。ただ神のみを誇るのです。それは、徹底的に、自分のささげた偉大な教会奉仕、また日々の祈りの生活、霊的な生活すら、自分の信仰の誇りとして、神の前に通用する行いとしては、考えないということです。このパウロは、コリントの信徒への手紙?でも?でも、こう記しました。「誇る者は、主を誇れ」これだけが、「かの日」に備える私どものあり方です。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、ただ御子イエス・キリストの尊い贖いの御業によってのみ神の民の一員とされ、天国に入る資格を与えられました。それ以外に、なにもあなたの御前に誇るものはありません。ただ、あなたさまだけが私どもの誇りです。救いの岩そのものです。私どもがなした拙い奉仕を、まるで私どもがなしたものであるかのように、お喜び下さり、受け入れて、評価してくださるあなたの恵みを思います。どうぞ、その恵みを確信し、今、誰が見ていなくとも、評価されなくとも、あなたと教会のために、奉仕する者とならせて下さい。あなたの御言葉に従う志を高くし、強めて下さい。どうぞ、この世の価値観に押し流されて、御言葉に生きることを怠ったり、自分に与えられた賜物、経済を出し惜しみすることがありませんように。かの日の報告の折に、あなたがしてくださった恵みによって、これこれをなすことができましたと讃美させて下さい。私どもの宝は天にいますあなた御自身ですから、あなたの御前に、天に宝を積む者たちとして成長させて下さい。アーメン