過去の投稿2010年5月1日

「岩の上に立つ人の幸い」

「岩の上に立つ人の幸い」
2010年4月25日
テキスト マタイによる福音書 第7章24-29節 
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

マタイによる福音書を学び始めて既に1年4か月が過ぎました。そして、今学び続けております「山上の説教」は、昨年の3月15日から始まりましたので、丁度1年が過ぎました。そして、この学びも、今朝ついに終わります。私どもは、山上の説教を通して、改めて信仰とは、御言葉を聴いてそれを行うことであること、神の民とは、神がその御言葉を通して明らかに示された御心を行うこと、その道を踏みしめて歩むことだと、徹底して学び続けたのであります。

さて、今朝与えられた主イエスの御言葉の中に、「岩の上」という言葉が出て参りました。皆さまの中で、今朝、初めて、私どもの教会の名称の名古屋岩の上教会という名称が聖書の御言葉から取られたものだと、お気づきになられた方もいらっしゃるかもしれません。実は、名古屋岩の上教会の名称は、この個所ではなく、同じマタイによる福音書の第16章18節、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」から取ったわけです。しかし実は、今朝の御言葉とも深く響き合っているのであります。

それだけに、今朝、あらためて私どもの教会、いへ、およそキリストの教会であるということは、いかなる教会であろうと志すべきか、何よりもキリストの教会とは何によって成り立つのか、キリスト者とは、何によって立つことができるのか、立ちあがれるのか、そのことを再確認できればと思います。

さて、主イエスは、山上の説教の結びとして、こう仰います。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」さてそもそも、私どもが、神の言葉に対してとるべき態度、応答とはどのようなものでしょうか。それは、単純なことです。ただ一つのことです。つまり、それを真剣に聴いて、それに応えることです。もしも、聞き流してしまうなら、これは、神の言葉に限らないと思いますが、それは、空しいと思います。

面白おかしいお話しであれば、その時、その話を聴いている間、楽しめればそれで十分です。しかし、人生に関わるような大切な情報、いのちにかかわるような大切な教えであれば、それは、そのときだけ、聞いたとしても、それを自分にあてはめることがなければ、空しい、何も力にならない、何も起こらないと思います。

私どもが手にしています、旧約聖書そして新約聖書、聖書66巻に一貫して流れているメッセージ、まさに貫かれている信仰があります。それは、もっとも基本的な、まさに根本的な主張です。第1ページから、最後のページまで、要するに、同じことが証されていると言っても言い過ぎではありません。それは、何でしょうか。それは、神の言葉が語られた時、そのときには必ず、それは出来事となるということです。つまり、言葉はそのまま実現するということです。創世記の第一章、冒頭で、「光あれ」と神が声を発せられたその瞬間に、光が放たれました。初めに言葉があった。言葉に命があったとは、ヨハネによる福音書の1ページ、冒頭の宣言です。これでもか、というほどまで、神の言葉は、人間の言の葉、葉っぱのようには地に落ちないというわけです。これが、全聖書に貫かれている、聖書自身の言わば自己主張です。証なのです。

神さまは、御自身の御言葉によって天と地、そこに生きるものと創造されました。そして、その御言葉は、やがて人間との対話の手段としてこそ用いられます。神の言葉の本質は、まさに人間とコミュニケーションをとることにこそあると言ってもよいのです。反対に申しますと、人間が言語を用いることができるのは、神さまと対話することこそ、その最も大切な、根本的な理由なのです。神さまとの会話、つまり、お祈りをしない人間とは、人間に与えられた言葉、言葉を用いる能力をほとんど無駄にしている、不十分にしか発揮していないわけです。つまり、そこで聖書が明らかする真理は何かと申しますと、そもそも人間とは、神さまの言葉を理解し、信じ、それに応答するときに初めて、人は人となりうるのだということであります。

今朝、私どもがもしも、神の言葉、主イエスの言葉を聴いて理解し、理解して信じ、信じて応答することができたら、それは、私どもが本当の、本来の人間に取り戻されたということです。今朝、私どもが、お祈りすることができるとすれば、それは、本来の、本当の人間の姿として回復されたということです。それだけに、聖書は、そして何よりも神の生ける言葉そのものでいらっしゃる、主イエスは、御自身の御言葉が聞き流されることのないことを願っておられます。

いったい、御言葉を聞き流すとは、どのようなことでしょうか。ヘブライの信徒への手紙第4章にこのような御言葉があります。「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう。というのは、わたしたちにも彼ら同様に福音が告げ知らされているからです。けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです。」

信仰によって結びつかなかった。神の言葉が信仰によって結びつけられない、一体化しない場合は、神の安息に与る約束、天国に入る約束が与えられながら、それに与れないということが起こると、警告されているのです。
今朝の主イエスの説教、「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」それは、信仰によって御言葉を自分の生活に結びつけなければ、砂の上に家を建てた愚かな人に似ているのだということになるのです。

昔、ある牧師がこのような例話を語られていました。まだお子さんが、小さな時のことです。自分でトイレで用を足せるようになり始めたのです。ところが、ある日、昔の家のことですが、内側からカギを掛けてしまったのです。トイレの鍵が、勝手に降りてしまったのです。トイレから出ようと思っても、ドアが開かない。恐くなって泣き始めました。しかし、外からは、開けられないわけです。そこで、父親である牧師が、とにかく落ち着け、大丈夫だから、御父さんの言う通りに、やりなさい。そうして、その男の子は、御父さんの言う通りに鍵を動かしたのです。そして、事なきを得たというのです。

実に、言葉というのは、トイレから脱出させる力をも持っているわけです。しかしその子が、もしもお父さんの言うことを聞いても信用しなかったらどうでしょう。言う通りにしなかったらどうでしょう。トイレのドアを壊して、その子を取り戻すしかなかったでしょう。人間の言葉ですら、それを信じて、行うか行わないかで、決定的な差がでます。

その意味で、主イエスは、御自身が語られた御言葉はどれほど尊いものでしょうか。その戒めをそのまま実行することが、トイレからの脱出どころではない。地獄からの脱出、そして天国への入国を実現することになるのです。

それだけに主イエスがどれほどの思いを込めて、山上の説教を語って下さったのか、今最後に、御言葉を行う人になりなさい、賢い人になりなさいという呼びかけが切実で、真剣な呼びかけであるかを思います。

しかし、私どもはこれまで山上の説教を学んでまいりましたが、この一年の歩みの中で、どれほど、主の言葉を行うことができたのでしょうか。私どもは、繰り返して、主イエスの御言葉を守り抜くことができない人間であることを、悲しみの中で、しかし同時に、喜びに溢れて認めてまいりました。自分自身の行いによって、主イエスの約束される天国に入ることは、不可能であることを、学び続けたのです。

ロシアの文豪、トルストイは、聖書は、この山上の説教だけあれば、それで十分、これさへあれば、キリスト教はなくともよいという主旨のことを言いました。人類の道徳の最高峰、人類の倫理の高さの頂上、人間は、この規準を目指すように生きて行けば、世界は素晴らしくなる、人類の未来は明るいということでしょう。しかし、私どもは、彼の理解になびくことはできません。

もとより私どもも、山上の説教は、すばらしい教えであると、心の底から同意します。しかし、自分の事を振り返ると、この教えを生きていない、求められる掟を実現しえていない自分の惨めな姿を認めざるを得ないのです。それなら、この教えだけで、私どもは救われることができるのでしょうか。それは、決してできません。

私どもの学びを振り返り、この山上の説教を、その掟を真実の意味で、完全に、完璧に生き抜かれた人は、まことの神にしてまことの人となられた主イエス・キリストお一人以外にいないということこそが、はっきりと、くっきりと浮かび上がってくるのです。この御言葉を語られた御自身こそ、この御言葉をまったく行われたのです。

そして、このお方が、私どもの罪を償うために、十字架にかかって身代わりに死んで下さったと福音書は告げるのです。罪を犯さず、神の掟を完全に全うされたイエスさまだけが、私どもの罪を償える、身代わりになれるのです。そして、主イエスは、まさに、そのようなお方として、つまり救い主として、私どもに、この教えを語られたのです。そして今もなお、この戒めを守るようにと呼びかけて下さるのです。

主イエス・キリストの贖いの死、十字架の死と復活とによってのみ、山上の説教は、単なるよい教えではなくなりました。実行された教えとなりました。また、人間に実行可能な掟であることも証明されました。「こんな掟は、単なる理想だ、夢物語だ」などと言えなくされたのです。そして、世々の教会、キリスト者は、この先立ち歩まれた主イエスさまの背中を見つめながら、また、勝利者イエスさまの前で、この掟を生きようと格闘してきた。キリスト者も教会も決してこれを捨てなかったです。

この教えは、十字架の教えです。私どもを救うために十字架につかれた主イエス・キリストの教えなのです。だから、すばらしいのです。自分の罪深さ、その悲惨さに涙を流し、おそれおののきますがしかし、それで、終わりません。この神の犠牲の愛、まったき愛のゆえに、自分が御言葉に生き抜くことができなくとも、なお、赦され、天国の門が大きく開かれ、すでに信仰によって天国の民とされていることを信じることができるからです。

もしも、私ども自身、私どもの教会が、この山上の説教を聴いて行っている限り立つ、というのであれば、私どもの家は、しょっちゅうぐらついているはずです。ぐらつくどころか、先週一週間を振り返るだけで、洪水に流されて、ひどい倒れ方になるのではありませんか。もしも、御言葉を完全に行っている限り、堅く立ちうると言われるなら、私どもの救いは、立ちどころにぐらつきます。安心して、自分の全存在を、任せ、委ねることはできません。

私どもの救い、それは、他ならないこの山上の説教を語り、生き抜かれたイエスさまにのみ根拠があるのです。つまり、岩の上とは、他ならない主イエス・キリストというお方その人のことを意味するのです。主イエス・キリストこそが、私どもの岩です。巌です。揺るがぬ土台、救いの土台なのです。私どもは、このイエスさまの上にだけ、立ちうるし、今、立たされているのです。それが、救われる、救われているということです。だから、洪水が来ても、流されません。倒れません。

岩の上に立つとは、主イエス・キリストの上に信仰の土台を据えるということです。恵みの上に立つことです。そして、この揺るがぬ救い、救い主の上に立つことと、御言葉を行うということとは、矛盾しません。

イエスさまという岩、土台の上に置かれたら、もう、何もする必要がない、もう、御言葉を守る必要もないのだ、などということはあり得ません。そのようなことを、考えるキリスト者がいるなら、それは、頭だけで信仰を考えているだけです。生きていらっしゃる主イエス・キリストとお会いするなら、御言葉を語られた主イエスを信じるなら、自分の体を打ち叩いてでも、主イエスの掟を守りたくなるし、その信仰の戦いへと促されるはずです。それは、信仰の論理です。経験です。主イエスを信じるとき、御言葉を守ることによって救われようと言うことは成り立ちませんが、同時に、御言葉をないがしろにしても良いのだ等と言う理解もまた、成り立たなくなるのです。

砂の上に土台を建てるということは、結局は、主イエス・キリストを信じていないということに尽きるのです。本当には、御言葉を重んじていないのです。信じている人は、行うのです。行うとは、そのまま、実行し得る、完璧に実践するということとは、違います。それは、主イエス以外にはできません。しかし、しようと挑戦する。挑戦したくなるはずです。少しも心が動かないのであれば、それは、主イエスを信じていないということです。何度も何十度も、何百回でも失敗し、挫折しても、主イエスの御言葉に取り戻され、やり直したくなるし、やり直せる、それが信仰の世界なのです。

最後に、28節を見ましょう。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
群衆は、非常に驚いたのです。それは、権威ある者としてお教えになられたからです。そもそも聖書の学者、律法学者にとっては、聖書そのものが権威であって、自分の解釈が聖書の正しい解釈となっているかどうか、それがすべてを決するわけです。預言者の場合は、また独特です。聖書にこう書いてあるというよりは、「神は、今ここで、あなたがたにこのように語られる。神の御心とは、このようなものなのだ。」と、預言者もまた、自分はこう言うということではなく、神がこう言うと語るのです。そうでなければ、まったく権威を失い、ただちに偽預言者となってしまいます。その意味では、聖書の学者も、神の言葉の語り手の預言者も、いずれも自分自身を権威にすることはできないのです。

ところが、ここで、主イエスは、驚くべきことを主張し続けたのです。「あなたがたは、昔から、これこれを聞いてきた。それは、モーセによって与えられた律法であったり、少なくともそれに基づく学者たちの解説だった。しかし、わたしは言っておく。」つまり、主イエスの説教の特徴は、御自分にかけて語られるところにあります。そのような語り方は、何を意味するのでしょうか。それは、簡単に言ってしまいますと、御自身こそ、救い主である。わたしは、モーセとは違う。わたしは、モーセ以上のもの、つまり、神なのだ、モーセに御言葉を語らせた、そのお方なのだということです。

ですから、それが民衆、群衆が驚かないはずがないのです。そして、その驚きを、私どももまた、ここで味わわねばならないと思います。ここで語られたことは、神御自身の語りかけなのです。

聖書の朗読のとき、わたしはしばしば神の言葉を聴きましょうと申します。これは、神の言葉なのです。山上の説教では、主イエス・キリストの言葉を聴きましょうと申します。主イエス・キリスト御自身が、この岩の上そのものでいらっしゃるからです。私どもにとってまさに救いの岩そのものなのです。言葉を換えれば、主イエスこそが、救いの権威なのです。救い主御自身が、ここで神の言葉を語られたからです。

しかも、この権威そのもの主の言葉は、遺言です。遺言は、その遺した人の死によって効力を発揮します。主イエスは、まさに私どもの罪の身代わりになって、十字架の上で死なれました。その死によって、この山上の説教は、私どもにおいて、まさに救いの権威そのものとなったのです。主イエスを信じるだけで、天国が開かれ、罪が赦される。それが実現したのです。

主イエスは、ここでの戒めを、私どもが完璧に実行できるかどうか、常に、私どもを見張っていらっしゃるのではありません。刑事や警察官は、時に、現行犯で取り押さえるために、ずっと見張るということをするようです。しかし、主イエスは、「今、あなたは、神の言葉を破った。わたしの戒めをないがしろにした。」そのように見張っていらっしゃるのでは、決してありません。むしろ、この岩なるお方が、流され掛って、倒れ掛かってしまうところに、御手を差し伸べてくださるのです。この差し伸べられた御手によって、何度でも、この岩へと立たせられるのです。

人生はやり直しが聞かない、一度だけの人生と言われます。確かにその側面を否定できません。しかし、その意味で申しますと、私どもキリスト者の人生とは、とても不思議です。毎週のように、今朝もまた私どもは、礼拝式の祈りのたびに、悔い改めの祈り、罪の懺悔、告白の祈りをしました。主よ、憐れんで下さい。わたしは、すぐる週もあなたの御言葉の戒め、その要求に対して、あなたの喜びを満たすことにおいて、到底、かないませんでした。その規準に達することができませんでした、その道しるべの外を歩きましたと告白します。どうして自ら告白できるのでしょうか。それは、イエス・キリストが救い主だからです。赦しの完全さを信じているからです。十字架の愛と赦し、その不動の恵み、揺るがない約束の言葉を信じているからです。

祈祷
私どもを御自身のいのちをもって贖い取ってくださいました主イエス・キリストよ、あなたが、あの山の上で語られた説教に聴き続け、この一年余りの月日、主の日の礼拝を捧げてまいりました。
しかしわたしは言っておく。何度も、主イエスの厳かな、権威に満ちた語りかけを聴いてまいりました。最初は、右の目がつまづかせるならえぐり出して捨ててしまいなさい。右の手が躓かせるなら、切り取って捨ててしまいなさいとの御言葉に、震えるように、むしろ主のこの言葉にこそ、躓きを覚えかねないほど、たじろぎました。しかし、主イエスよ、あなたがどれほど真剣な、真実な愛をもって、決して地獄に入らせてはならない、どのような犠牲を支払ってでも、私どもに天国に入らせようとの限りない愛の故の掟であり、警告であり、威嚇であるかを思います。そして、この説教を学び終えるとき、改めて、私どもの救いは、主よ、あなたと、あなたの御言葉にこそあることを思わされます。そして、その岩なるあなたを心から讃美し、感謝致します。どうぞ、私どもの志を新しくし、堅くし、御言葉を聴いて行う者とされた光栄を感謝し、あなた様の真剣さの千分の一でも万分の一でも、私どもの者とさせて下さり、天国の民らしく、天国の生き方をもって、地上の旅をなさしめて下さい。