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「絶対に必要な53分?」

伝道夕礼拝   
(とくに青少年のために)
主の2010年5月16日7時30分~8時30分

聖書朗読    マタイによる福音書 第6章11節 
「わたしたちに必要な糧を 今日 与えてください」
(主の祈り第4祈願)

説  教   「絶対に必要な53分?」
賛美歌     528番 「あなたの道を」
頌  栄     24番
祝  福

きっと、誰にとっても、絶対にこれがなければダメだというものが、一つや二つはあるのではないかと思います。教会の男の子たちには、もしかするとゲーム機がそうかもしれません。ゲームのない世界なんて考えられないと思っているかのように、熱中しています。ある人には、音楽かもしれません。あのCD、あのグループの音楽がない生活なんて、考えられないという人がいるかもしれません。ある人たちには、どこそこのあのケーキとか、食べ物かもしれません。あるいは、ある人たちには、絶対に友だちがいなければ、ダメ、生きて行けないと思う人もいるでしょう。

わたしは、10代の頃、バイクを趣味にしていました。バイクなしの生活は考えられないと思っていました。私たちの生活の中には、これは、自分には絶対に必要だと思う物がある、絶対に必要という存在、誰かがいるのだと思うのです。

どうして、そのようなものが、わたしたちの生活には、必要なのでしょうか。わたしが、まだ10代の頃、高校を卒業し、大学生になって、生きることが空しかったときを過ごしました。生きることの空しさ、つらさ、ほとんど恐怖とすら思えるようになったことさへあります。生きる寂しさと言い換えても良いのです。それは、欲しいものが手に入れられないからという、具体的な何かを欠いていたからなのではありませんでした。

何故、空しいのか、寂しいのか、その根本の理由は分かりませんでした。まさに、そこに、空しさの理由があったわけです。友だちもいました。バイクもありました。しかし、空しかったのです。

今晩は、主イエスが、私どもが日々祈るべき祈りとして祈るようにとお与えくださいました「主の祈り」の第4番目の祈り「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」から、ごく一部分だけですが、ご一緒に学んでまいりたいと思います。

今、ゴスペルを歌いました。「This is the Day.Lord has made!」「この日は、主なる神さまが造られたのだ」という讃美です。聖書によれば、真の神さまは、私たちの為に、今この時を、一瞬一瞬を、新しく創造していて下さいます。つまり、私たちは、神さまが造り続けていらしゃる時の真ん中で生きている、生かされているということです。そのようにして、言わば、瞬間瞬間、神さまに抱かれながら生かされているのです。
今晩は、私たちの人生にとっての「今日」という問題、「今」という問題、つまりかなり哲学的な問いになりますが、いったい「時とは何か」について思いを巡らしてみたいと思います。主イエスは、私どもに主の祈り、とくに今晩の第4番目の祈りを祈らせてくださることを通しても、私たちの今晩、今というこの瞬間を、どうしたら生き生きと、充実して生きることができるようになるのか、その道をここで明らかに示して下さるのです。

ギリシャ語では、時間のことを二つの言葉であらわします。「クロノス」と「カイロス」です。クロノスとは、何時何分という「時間」をあらわします。それに対して、「カイロス」とは、ただの時間ではないのです。たとえば、わたしの説教の時間を例にして、考えてみます。わたしの説教は、40分に及びます。最近は、ぐっと短くして35分で終わるように努めています。しかし、もし説教を、教会に来られる方々が、長く感じるなら、おそらく説教がつまらないからでしょう。分からないからです。分からない話し、くだらない話をきかされるのは、10分でも20分でも苦痛です。しかし、もしもその説教が、本当に自分にとって、人間として生きるためになくてはならない、命の言葉だと思ったらどうでしょうか。

学生であれば、つまらない授業だと、60分あるいは90分は、とても長く感じられるでしょう。反対に、本当に、興味深い授業であれば、あっという間だったと思うことも、あるのではないでしょうか。つまり、あっという間の40分の経験のことを、「カイロス」と呼びます。つまり、カイロスとは、充実した時、満たされた時を意味します。したがって、カイロスを豊かに持っている人は、幸福な人です。

そこでもしかすると、少なくない人が、このように考えるかもしれません。「会社にとられる勤務時間の8時間、通勤の往復で10時間、残業を入れれば、12時間、自分の人生は、クロノスばかりではないか。何としても、レジャーや趣味や他のいろいろ楽しいものでカイロスの経験をいっぱいにしたい。今は、仕方がない、老後を充実させて楽しもう。」いったい、私たちは、どうすれば、カイロス、充実した時、満たされた生活を持つことができるのでしょうか。人生そのものを、カイロスの中に取り戻すことは可能なのでしょうか。

わたしは、昨年の半年間、ある大学で、サンテグジュペリの「星の王子さま」の物語を用いて、キリスト教を教えました。この物語は、飛行機が故障して、サハラ砂漠に不時着してしまった飛行士と小さな星から来た小さな王子様との出会いと別れの物語です。その中にこのようなエピソードがあります。

王子さまは、地球にやってきて、一人の商人と出会います。その人が売っていたのは薬です。どのような薬かと申しますと、のどの渇きをピタッと押えてしまうという薬です。その薬を一週間に一粒飲めば、あとは何も飲まなくても良いと宣伝する薬です。

王子さまは、このように尋ねます。「どうしてそんな薬を売っているの」
商人は、答えます。「すごく時間が節約できるんだ。」「えらい先生が計算したところ、この薬のおかげで、一週間に53分の節約になるそうだ。」
「その53分をどうするの?」
「好きなことをすればいい・・・。」
王子さまはこうつぶやきます。「ぼくだったら、もし53分つかえるなら、どこかの泉までゆっくり歩いて行くだろうになぁ・・・」
 この薬を、買い求める人は、その対価で、何を得ることができるというのでしょうか。それは、時間です。時間を節約する。まさに、現代の経済活動の中心的主題です。

さて、時間の節約、スピードアップということですが、ここでは、水を飲む時間を節約するというのです。この奇抜な物語は、いったい何を意味しているのでしょうか。説教の初めに、自分の生活に絶対なければ困ると思うものを考えて見ました。しかし、それらは趣味とか生きがいというものを考えたわけですが、そもそも人間が、生きる上で絶対に必要なもの、必要な糧とは何でしょうか。それは間違いなく、「食べること、飲むこと」でしょう。それをなくせば、生きて行けません。また、この物語の主人公の飛行士がこの王子さまから薬売りの商人の思い出話を聴かされていたのは、サハラ砂漠の真ん中で、今まさに、一週間分の飲み水を入れていた水筒の最後の一滴を飲みほしてしまったところだったのです。飛行士にとって、あり得ないことですが、万一にもそのような薬があれば、何としても手に入れたいと思うような状況にいるのです。

時間を節約する薬、しかも水を飲む時間の節約とは、一体著者は、何を言いたいのでしょうか。その薬を飲めば、偉い学者先生は、一週間で、53分の節約できると言うのです。わたしは、真剣に、いったい、なぜ、53分なのかと、考えてみました。一日で言うと7、8分となるのでしょうか。ゆっくりとお茶を飲めば、もっと時間がかかるでしょう。反対に、ただ喉の渇きをいやそうと、一気に水を飲めば、一日に、1分ほどではないかと思うのです。この事に関して、関連する書物をどれほど調べてみても、誰も何も書いていません。

実は、主人公の飛行士は、後で、王子さまと共に砂漠の中に、井戸水を探しに行きます。そして発見します。そして汲み上げて一緒に飲んだ、その水をこう表現しました。

「水は、心にもおいしい贈り物なのだ。ちいさなこどもだったころ、クリスマスプレゼントをもらったとき、クリスマスツリーの明かりや、真夜中のミサの音楽、そしてみんなのやさしいほほえみのおかげで、プレゼントがきらきらと輝きだすように感じたのにも似ていた。」

サンテグジュペリは、フランス人、カトリックのキリスト者です。このお話しの題にもしました「53分」とは何でしょうか。それは、まさに、カトリックのミサの時間の象徴、メタファー、暗喩なのではないでしょうか。礼拝とは、何でしょうか。それは、主イエスがヨハネによる福音書でひとりのサマリアの女性に語られた御言葉を思い起こします。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」つまり、礼拝とは、人間が人間として生きるために絶対に必要ないのちの水そのものでいらっしゃる主イエス・キリストに、うるおされる場所、時です。

今、多くの人は心の中でこう言うかもしれません。「礼拝の時間があれば、どれだけ稼げるか。どれだけ、休日を楽しめるか。そうだ、教会に行く時間を節約しよう。それこそが、いやな仕事から解放されて、休日を楽しむ方法だ。」

しかし、神を礼拝する時間を節約する、亡くしてしまうなら、それこそ、まさに死です。そのとき、人間は、人間ではなくなっているのです。水を飲まなくても生きれる薬など、地上にはありえないことは誰もが知っています。ところが、いかがでしょうか。永遠の命の水など、そんなものを飲まなくても生きれる、何も、日曜日に、教会に行かなくても、礼拝しなくても、祈らなくても、人間は人間らしく楽しく生きれますよとうそぶくのです。礼拝に代わるものとしてどれほどの機械が、品物が、レジャーが大量に売られていることでしょうか。

今こそ、私どもは深く悟らなければなりません。キリスト者そして教会は、真剣に主張しなくてはなりません。人間にとって最も大切な、必要な糧は、神を礼拝すること、祈ること。神さまとの交わりがない時間は、クロノスだけなのです。そして、クロノスはあっという間に過ぎり、しかも、空虚なのです。カイロスがない人生は空虚になるのです。主イエス・キリストが共にいて下さり、主イエスと交わり、対話することのない人生は、まるで借り物のような生活、人生になってしまうのです。本当の自分、自分自身のかけがえのない人生ではなく、時代の色に染められ、時代の流行、空気に流されるだけだからです。

私どもが証しすべきことは、何でしょうか。それは、わたしどもの時間の中に、主イエス・キリストをお迎えすることです。私どもの生活の真ん中に、主イエス・キリストをお迎えすること。そのときこそ、クロノスはカイロスになりこと。そのときこそ、空しい人生は終わりを告げ、充実した人生が始まることです。主イエスは、主の祈り、その第4の祈り、「日用の糧を今日も、今日与えて下さい」と言う祈りを祈らせて下さることによって、今日という日、生活の真ん中に、主イエス・キリストを迎え入れさせてくださる言わば、イエスさまに場所を開ける祈りなのです。

昔、ある牧師のこのようなお話しを読んだことがあります。その先生が、病院にお見舞いに向かう途中、タクシーを利用したのです。

牧師がタクシーに乗り込むやいなや、運転手がこう言ったのです。「お客さん、本当にありがとうございます。」タクシーに乗ったことのある人は、思うでしょうが、普通、そんなに言われることはありません。先ず、行き場所を尋ねるのが普通だと思います。牧師じしん驚いていると、運転手さんが、こう話し始めたのです。「今日は、一日、流していたのだけれど、お客さんが初めて拾ってくれた、本当に嬉しい。お客さん、ありがとうございます。」

タクシーが一日中、お客さんを乗せないで、運転していたら、それほど空しい一日はないと思います。わたしはドライブするのは、きらいではありません。自分の思う通りに車を操ることができる。自分の行きたい場所に行ける、これは、気持ちの良いものです。隣にいる人に、あそこへ行け、ここを曲がれ、この道に入れ、ここで止まれなどと、いちいち命じられていたら、車の運転はいやになると思います。その点、タクシードライバーは、ドライブを楽しむことは、おそらくできないのではないかと思うのです。しかし、反対に、一日中、自分の思う通りの場所を目指して運転しても、どこで止まり、どこで曲がろうとまったく自分の自由にできるとしても、一日中、お客さんを乗せられないまま、であったらどうでしょうか。

お客さんを乗せていないタクシーを見たことがあるでしょうか。注意して見ると、ダッシュボードの上に、赤の文字で、「空」とプレートが立てられています。
ちなみに、タクシー業界では、お客さんを乗せた車のことを、「実車」というのだそうです。反対に、乗せていない車は「空車」です。空車のまま、一日走る。それはまさに、車が空しいどころが、運転手じしんが空しいのです。

空車が実車になる。お客が乗り込んでくる。そのとき、自分の思い通りの運転は、止めなければなりません。お客さんの言う通り、目指す場所に行くのです。しかしそれは、運転手にとって、つらいことでしょうか。苦しいことでしょうか。違います。嬉しいことです。楽しいことです。もう空しくはない、生き生きと、走り始める。

私たちの人生は、まさに、このタクシーに似ています。タクシーは、誰かに、お客さんに拾ってもらわないと、走っても空しいのです。目的が、走る意味が分からないままであれば、空しいのです。つらくなります。
それなら、私たちの人生、わたしたちは、この空しさを解決するために、どこに向かって、生きるのかをはっきりさせる必要があるはずです。そして、本当にそれを指し示し、また、わたし自身の生きる空しさを、充実へと満たすのは、ただお一人です。それは、わたしたちの人生の主、いのちの主、わたしをこの地上に生かして下さっている神さまを知ることです。

この神は、私たちのところに降りてきて下さいました。それは、永遠の神の御子なるお方が人間となられたということです。そして、このお方こそが、主イエス・キリストなのです。

このイエスさまは、今晩、あなたのところに来て下さいます。そして、手を挙げて、止まりなさい。今晩、わたしは、あなたの心に入る。あなたの人生、あなたの時間、あなたと共に生きることにしている、だから、わたしのために、ドアを開けなさいと、招いておられます。

今、皆で、いへ、ひとりひとり、立ち止まりましょう。これまでの、どうしても、勝つことができなかった、克服できなかった、生きる空しさ、空しさのゆえに、無意味に過ごした日々、苦しく過ごした日々を振り返り、もうやめてよいのです。

主イエスを信じることは、自分を止めること、自分らしく歩むことを断念することでは決してありません。むしろ、イエスさまをお乗せしない日々こそが、自分らしさを知ることもできず、周りに流され、場の空気を乱すことを恐れ、自分を見失っていたのではないでしょうか。

今こそ、今晩こそ、クロノスをカイロスに変えて頂きましょう。それは、この53分から始まります。来週は、朝、10時30分に、ここでお会いしましょう。皆と会うことは楽しみですが、何より、神さまに、主イエス・キリストにお会いしましょう。

祈祷
人間にとってなくてならないいのちの糧、それは、主イエス・キリストの父なる御神、あなたご自身です。どうぞ、ここにあなたが呼び集めて下さったお一人おひとりの上にあなたの祝福を満たして下さい。
あなたご自身で満たして下さい。そうすれば、わたしたちは充実した、本当の自分の人生を生きることができるからです。どうぞ、一人で生きることを教え、共に、日曜日にここで礼拝する喜びを深く味わわせて下さい。