過去の投稿2010年6月13日

6月13日

☆   大会役員修養会が終わりました。教会役員とは、「教師、長老、執事」を意味します。通算出席者は、207名とのこと。「修養会」というタイトルから、霊的な修養(リトリート)をなす集会と思いますが、実際は、(年度の)大会(的)課題の下準備、調整をはかるものが基調となっています。大会の教勢統計表では、東関東と東部が堅調な成長を続ける一方、中部、西部、四国は横ばい、減少です。現住陪餐会員は、5335名、42名の増加。朝の礼拝式は、4775名で、30名の増加。教会設立式を挙行される新浦安教会(掲示)は、驚異的な成長です。毎年、現住陪餐会員、礼拝出席者が10名づつ増え始め、今年は、50名ではないかと思います。この増加は、大会の中でも、まったく異例のことです。旧東部中会の開拓伝道として始められ、教会堂を献堂して、伝道者と共に、現住陪餐会員もきちんと確保して、まさに恵まれた出発をされた群れです。いったい何が起こったのか・・・。牧師は、芦田先生、アメリカ留学から帰られ、赴任してからのことです。大会教育委員会に加わられた先生、次回の委員会の折、くわしく伺いたいと思います。

★   いわゆる首都圏のキリスト教伝道と地方との格差。これも、今回の修養会のセッションで取り扱われました。東北、四国の伝道状況がそれぞれの伝道委員会より報告されました。名古屋という町に遣わされた私どもは、対キリスト教との関係においては、「荒れ野」ではないかとの思いを深めます。しかし、人口の少ない地方で戦う伝道者、キリスト者たちのことを思う時、この町には、大勢の主イエスを知らず、主イエスから離れている(つまり、主のいのちから切り離され、決定的な滅びへと転落し続けている)人々がいらっしゃるのです。たしかに、価値観が多様化する現代(この点では、良い面もあります)において、キリスト教を批判する人は、急速に減少しています。反面、キリスト教に人生問題の解決を求める人も減少しています。しかし、私どもは種をまき、土壌を耕し続けます。賜物を捧げ合い、教会の伝道に奉仕します。首都圏の成長は、喜ばしいです。しかし、名古屋圏でこそ、伝道が進展するなら、日本伝道に光が射すこととなります。それが、わたしの、いへ、日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所の責任ある課題です。

☆  「15周年記念誌」を持ち運び、配りました。(若い教師の方々にお手伝いをしていただき、本当に助かりました。これによって、送料は、1万円をはるかに超えて、節約できたはずです。ひとりの教師から大変、肯定的に読後感をお伺いいたしました。中会のひとりの教師から、会員に回し読みしてくださっているとのこと。

★  (ある大学生の質問に答えて・・・)マタイ、マルコ、ルカの福音書を「共観(きょうかん)福音書」と呼びます。「The Synoptic Gospels」の訳語です。この三つは、「同じ観点」から、つまり、主イエスの行いと言葉とを「歴史的」に叙述している点で、ヨハネとは異なります。最も古いマルコによる福音書は、当時編集されていたと仮定されている「Q」(語録)と呼ばれる「イエス語録」を資料にして、マタイとルカは、マルコとQを参考、資料にしたのだろうと考えられています。「福音書」は「伝記」ではなく、福音「神の喜びの音信」を告げるための、強いて言えば「キリスト教文学」です。もとより、これらはすべて神御自身が著者です。聖霊なる神の霊感を受けた著者たちが、神からの言葉を語った(記した)からです。したがって、私どもは聖書66巻を、「記された神の言葉」として「信仰と生活との唯一の絶対的な権威」として認め、服します。それなくして、私どもの教会形成も生活も成り立ちません。

(先々週、ひとりの女性宣教師から、わたしの説教を聴いて「安心しました。」と言われましたことは、忘れられません。アメリカの母教会(改革派)では、聖書を神の言葉として重んじることがどんどん後退していることを嘆いてのことのようでした。私たちが、「手を触れて癒された」という奇跡を信じることができるのは、復活という決定的な奇跡と、その生けるイエスさまが、今ここで、自分の上にも、手を触れて下さったとの認識(信仰とその体験)を与えられている、つまり、救われているからです。ついでに言えば、一言一句を「文字通り」読むことは、ふさわしくありません。それぞれの叙述の目的をわきまえて、読むべきです。)

なぜ、四つの福音書があるのでしょうか。各書は、それぞれ自分たちの置かれた教会の現実、その課題を克服するために、記しました。お互いに相談し合って書いたわけではありませんし、不可能です。しかし、神は、不思議にもこうして福音の全体像を、四人の目(八つの目)で複眼的?に明らかにされました。ちなみに、マタイは、ユダヤ人キリスト者共同体(教会)の中で成立し、彼ら固有の課題を背景に、キリストの福音を闡明して教会の課題を解決させ、存立を堅固にする為に記されました。(舌足らずです…。祈祷会で又…。)