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「ようこそ、天国の食卓へ」

「ようこそ、天国の食卓へ」
2010年7月25日
テキスト マタイによる福音書 第9章14-17節 
【そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、
「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。
イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」】

マタイによる福音書の著者は、徴税人でした。ユダヤ人から見れば、罪深く、汚れた、人々からつまはじきにされてしかるべき仕事を生業にしていました。ところが、そんな自分を、イエスさまが、弟子になるようにと招いて下さったのです。彼は、徴税人をただちに止めて、立ち上がって、イエスさまに従いました。ここでの、「立ち上がる」というギリシャ語は、「復活」という意味をもつ言葉が用いられています。まさに、古い自分の生き方は終わって、新しい人生が始まったのだという、喜びに満ちた思いが込められているように思います。

彼は、主のお招きを受けたことが、嬉しくて仕方がありません。そこで、反対に、自分の方からも、主イエスさまとお弟子さんたちを自分の家に招きます。すると、本当に、イエスさまが、彼の家に入ってくださり、一緒に食事をとってくださったのです。彼は、喜びにあふれたに違いありません。「こんな罪人である自分の家に、堂々と入ってくださった。」しかも、彼の家には、徴税人の同僚たちをはじめ、ユダヤ人から「罪にまみれた人間、犯罪者だ」と、後ろ指を指されていた人々も集まって来たのです。マタイは、イエスさまが、どんなにすばらしい愛の人であるか、これだけで、もう十分すぎるほど、理解できたはずです。しかし、何よりも、誰よりもそこで喜んでおられたのは、間違いなくイエスさま御自身です。主イエスは、マタイが救われたことを本当に大喜びされたはずです。つまり、もう天国が、神の国の救いの喜びが、ここで始まっているわけです。

ところが、事件はそこで起こります。今、洗礼者ヨハネの弟子たちが、このうわさを聞きつけてやって来ます。洗礼者ヨハネとは、イエスさまのお働きのために、その道備え、準備をするために、働くようにと神に立てられた器、預言者です。ヨハネは、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」と言われています。預言者として、神さまからの使命を受けた者として、「神を畏れつつ、神を第一にした生き方をしなさい、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」と叫んだ人です。したがって、弟子たちにしてみれば、悔い改めにふさわしい実を結ぶことに全力を注いだとお思います。

たとえば、ファリサイ派の人々は、週に2度断食していたと言われます。彼らは、信徒です。つまり、仕事をしながら、徹底した宗教生活を志していました。例えば、こんなに暑い毎日、一週に二日間、断食しながら仕事をこなすことができるでしょうか。どれほどの苦しさがあったかと思います。しかも、その浮いた食費は、貧しい者たちへの献金としたのです。そうであれば、洗礼者ヨハネの弟子たちの信仰生活とは、どれほどのものであったか、推して知るべしでしょう。

そんなヨハネの弟子たちに、このイエスさまの噂が耳に入ります。彼らの心は、大きく波打ったと思います。ヨハネ先生があれほどまでに高く評価されたイエスという人。ところが、最低限の断食すらしていない。むしろ、徴税人たちと会食をしているらしい。これは、いったいどういうことなのか。洗礼者ヨハネの弟子たちが、イエスさまに対する不信感や批判を募らせるのは、良く分かるのではないでしょうか。ですから、彼らは、イエスさまに尋ねるのです。「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」彼らは、「あなたの弟子たち」と言いました。やはり、主イエス御自身への直接の批判は、控えているようです。しかし、主イエス御自身への叱責の思いが込められています。

さて、いよいよここからが、本論です。主は、答えて仰せられました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」確かに、主イエスは、断食そのものを否定はなさいません。主イエスは、第6章で、弟子たちに「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。」と告げられました。しかし、一番大切なことですが、そもそも、断食とは何のためにするのでしょうか。言うまでもありませんが、たとい断食しても、それがダイエットのためならば、断食本来の意義とは違うはずです。断食とは、悔い改めの行為です。そして、神へと心を集中させるためでもあります。しかし、彼らは、熱心に断食をしながら、目の前で行われている神の救いの御業、目の前にいらっしゃるお方に気づいていないのです。約束の救い主なるイエスさま、花婿でいらっしゃるイエスさまを認めないのです。それは、まさに本末転倒です。

しかし、主イエスが、ここで最も悟ってもらいたいと願って、語られた事とは、何でしょうか。それは、「花婿が一緒にいる」という事実です。つまり、花婿とは、救い主です。つまり、主イエスさまです。このキリストが今ここに、目の前にいっしょにいてくださっているということです。断食は、すばらしいことなのです。しかし、ついに父なる神が、断食している人々に、「ほら、あなたたちの祈りと願いに、今こそ、答えているではないか。わたしの約束通りに、契約どおり、あなた方のために救い主が到来しているではないか。救い主は、あなたといっしょにいるのだよ。」こう、宣言なさったのです。

それは、また、「今」、「この時」がどのような時なのか、いかなる意味を持っているのか、それを知って欲しい、信じて欲しいということです。今このときは、まさに、特別の今、特別の時なのです。彼らは、全人類にとっての救いの御業がなされているまさにその瞬間に、まさに救いの極みの時に、その現場に、立ち合っているわけです。

ルカによる福音書第11章20節で、主イエスは、こう宣言なさいました。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」つまり、なぜ、イエスさまが、奇跡の御業をなさっているのかという理由、目的は、神の国がもう、わたしたちのところに来ている、始まっているということを証しするためなのです。つまり、聖書の約束は、ここで成就したということです。つまり、新しい時代の幕が開けたということです。反対からいえば、「これまでの時代は古くなった、終わった」と宣言なさるのです。

今日は、何月何日ということを、間違えるだけでも、私どもは、時に、損をすることがあります。ご婦人のお財布の中には、もしかすると、何日まで半額などというチケットがいくつも入っているかもしれません。そして、期限が切れたカードを出してしまったことも、一度や二度は、おありではないかと思います。わたしは、もう10年以上も前のことですが、免許証の更新を半年近く、忘れていたことがありました。それは、かなり大変な目にあいます。しかし、その程度のことなら、十分に、取り返しがつきます。

しかしながら、今この時代がどのような時代なのかということ、それをまちがえてしまったら、それは言葉の正しい意味で、取り返しがききません。その人の一生どころか永遠を決定してしまうことになるからです。
いったい今は、第1世紀の今とは、そして、21世紀の今とは、どのような時代なのでしょうか。21世紀とは、あらゆる領域でグローバル化が加速する時代であると言われます。しかし、問題にしているのは、そのような時代の特徴のことではありません。時代の質の問題です。

紀元前と紀元後の違い、それは、まさに、決定的な違いなのです。人類史を、歴史を画すると言う言葉は、まさにここでこそ、使われるにふさわしいことです。

日本では、時代を画すということは、最近では、江戸時代から明治時代への転換でしょうか。戦前と戦後でしょうか。明治政府が誕生したとき、かつての下級武士は、大変な苦しみを味わったことと思います。武士という階級も、仕事もなくなってしまったのです。時代の変化を受け入れられなかったなら、まさに、終わりです。

しかし、そんなこととは、まったく比べられない大変化、大転換が今、ここで起こっている、それが、イエスさまが、まさにいのちがけで、日々、休むことも知らずに、働きに働いて、新しい時代が到来したこと、言葉を換えれば、神の国が今ここで始まったこと、この一点を告げられたのです。

そこで主イエスは、二つの例えを語られます。服のたとえです。昔の人たちは、服が破れたら継ぎをあてて着続けました。今でも、そのようにしている人もいらっしゃるのではないかと思います。ちょっと、穴があいたり、かすれていても、そこだけ手入れをすればまだまだ十分に着れるものです。

イエスさまの当時は、まさにそうだったかと思います。しかし、当時の人々の常識として、その継ぎをあてる時には、折たての布は、使わないのです。少なくとも、一度、水洗いをします。水洗いをして、縮んだ後で、縫い合わせるのです。そうしないと、せっかく、継ぎをあてても、初めは良いかもしれませんが、洗濯したら新しい布切れが縮んで、古い布切れをもっと破ってしまうことになるからです。

さらに畳み込むかのように、葡萄酒の実例を出します。新しい葡萄酒、それは、まだ発酵していないものだそうです。発酵すると、膨張するのでしょう。古い革袋は、伸縮性がなくて、破れてしまうのです。しかし、新しい革袋には、伸縮性があるので、発酵前の葡萄酒を入れるのにふさわしいというわけです。

さて、この二つの実例による例えは、結局、一つのことを明らかにしています。織りたての布も、あたらしい葡萄酒も、イエスさま御自身のたとえです。イエスさまによってはじまった神の国の例えでもあります。つまり、神の国は、今ここで始まったということです。

反対に、古い服、また古い革袋とは、約束された救い主が来られる前の世界、時代のことです。もっとはっきりと発音すれば、救い主がこの地上に来られることを約束した神の言葉である聖書は、今、このイエスさまの到来によって実現した以上、その意味で古くなったということです。

だから、このイエスさまは、新しい革袋に入れなくてはならないというわけです。それは、何を意味しているのでしょうか。それは、新約聖書の誕生、同時に、教会の誕生を示しているはずです。

神の御言葉における約束である、神の国が地上に現れ、救い主が到来した以上、神の言葉が記されたこれまでの聖書は、必然的に、古い契約の書になったのです。当然のことです。ただし、間違ってはなりませんが、この古い契約の書の価値がそれで低くなったという意味では、まったくありません。むしろ、正反対です。まさに、聖書は神の言葉である、神の真実の契約の書であることが、イエスさまのご存在によって、この上ない確かさで、明らかにされたのです。

したがって、これまでの聖書に記された言葉は、そのままでは通用しなくなった部分も当然、出てまいります。その最大のものは、礼拝の方法です。神との交わりの仕方です。しかし、ここでもまた、誤解してはなりません、それは、神さまが新しくなった、変化したなどというわけではありません。旧約の神と新約聖書に証されている神は、ひとりの永遠の神です。旧約が厳しい神で、新約が優しい神に変化したわけでは、まったくありません。

しかし、時代が変わったのです。それは、神さまの、私ども人間に対する接し方、語り方も、変わってまいります。そのことをきちんと識別する、学ぶことが、キリスト教の言わば、学びの大切さの一つです。それが、分からなければ、おかしなキリスト教になってしまいます。

旧約聖書の中で、大切に行われていた宗教儀式は、行わなければならなかった礼拝儀式は、今や、すべて無効となります。それは、衝撃的なほどまでの、大変化です。しかし、すべての礼拝儀式は、このイエスさまの到来を目標にしていたのですから、止めなければならないのです。

その意味では、断食一つとっても、昔と今では、それをする意味も変わるはずです。変わらなければ、むしろ断食しない方がましになってしまいます。

わたしは、イエスさまは、彼らの批判や?責の言葉に対して、このようにお考えになっておられたと思うのです。「洗礼者ヨハネの弟子たちよ、今、丁度、食事会は終わってしまったけれども、もう一度、食べ直してもよい、もう一度、この喜びの食事会に参加しなさい。マタイ、このヨハネの弟子たちのためにももう一度、食事を準備して欲しい。」イエスさまと言うお方は、このようなお方なのです。断食なんかばかばかしいと、考えていたマタイだけではなく、この誠実な信仰者たち、しかし、本質を見失っていた信仰者たちをも、何としてでも、御自身のいのちへ、御自身の神の国へ、御自身の救いへと招き入れようとなさるのです。ここでの小さな説教は、主イエスの彼らに対する愛のメッセージ、ほとばしる愛の招きなのです。

さて、これらのことを、21世紀に生かされているキリスト者たち、神の家に集められ、今まさに、主イエスのいのちのおもてなしを受け、礼拝を捧げている私どもに、何を語りかけているのでしょうか。私どもは、この主イエスの説教によって、どのような考え方、生活へと呼びだされているのでしょうか。私どもは、あのヨハネの弟子たちと同じ過ちを犯すことはないでしょうか。あるいは、犯しているのではないか、神の御前に真剣に問うべきはずです。

もしかすると、私どもの教会生活、信仰生活を振り返って、真剣さの面で、あのヨハネの弟子たちに劣っているかもしれません。ファリサイ派の人たちに劣っているかもしれません。私どもはうっかりすると、すぐに、ファリサイ派すなわち、律法主義者、すなわちイエスさまを殺し、イエスさまも彼らと戦われた、罪深い人たち、そのような図式で理解してすます危険性があるかもしれません。しかし、彼らの的外れの熱心を批判して済ませ、自分は違うと安心することはできないと思います。

「悔い改め」も「断食」も、洗礼者ヨハネだけが語ったのではなく、私どもの救い主イエスさまも、求め続けたメッセージに他なりません。主のために、また、隣人や教会のために、断食して、献金したことのない人が、簡単に、ヨハネの弟子たちの生き方やファリサイ派の人々を、見下すことはできないと、わたしは思います。

しかし、そのようなことにはるかに勝って反省すべきことがあります。いへ、悔い改めることがあるはずです。彼らは、悔い改めの断食を励みながら、しかし、決定的な過ちを犯したままでした。つまり、目の前に、神から贈られた花婿がいっしょにいることを、喜ばなかったということです。断食の本質を、踏み外して、神の約束そのものでいらっしゃる救い主イエスさまを信じなかったのです。問題は、そこです。

私どもも同じです。先週一週間、いったい、どれだけ、このいのちの食卓に招かれ、もてなされたことに感謝したのでしょうか。喜んだのでしょうか。イエスさまは、わたしの日々の生活の中に、一緒にいてくださる。神の国は、もう、自分の職業生活、家庭生活、学校生活の中で、始まっている。わたしは、もう、イエスさまと一緒に生きている。守られている。天国は、今、わたしの生活に突入している。来ている。始まっている。主よ、感謝します。そのように、喜んで、主に従う生活であったかどうか、それが問われます。本来、暗い顔つきの信仰生活は、成り立たないはずなのに、私どもは、主イエスさまに失礼を重ねたのではなかったかと思います。

さて、あのマタイたちが喜んであずかった主イエスの食卓、天国の祝宴は、今、私どものこの礼拝堂においても、実現してくださっています。聖餐の礼典を祝う度に、まさにそれがここで繰り返されているわけです。主イエスが、新しい革袋である新しい神の民であるイスラエル、つまり私ども教会に与えて下さった新しい儀式、-これを聖礼典と申しますが-それは、二つになりました。洗礼と聖餐です。この聖餐は、礼拝式の中で、繰り返し祝われます。主が再び来られるまで、教会は、聖餐の食卓を囲み続けるのです。主イエスは、そこで、天国の礼拝の恵み、その力、その祝福を、信じて与るすべての人々に溢れるほど降り注がれるのです。

ただし、それは、自動的、機械的に確かめられるわけではありません。ヨハネの弟子たちには、イエスさまを目撃しました。ところが、イエスさまの本当のお姿は、見えていませんでした。それと同じことが、教会の礼拝堂の中にいても、起こるのです。悲しいことですが、聖餐の礼典にあずかっていても、この聖餐の意味を十分に弁えないまま与るなら、祝福を受けることもまた、乏しくなってしまいます。

今朝は、聖餐の礼典を祝いません。次週の聖餐の礼拝式を飢え渇く思いで、待ち望みましょう。しかし同時に、この礼拝式そのものが、主イエスのいのちの交わり、天国の食卓であることをも、しっかりとわきまえたいのです。

今朝は、主の日です。今ここで、天上の礼拝と地上の礼拝式とは、結びあわされています。今や、天は開かれ、人間となられた救い主イエスさまは、そこに入国されました。今や、天において、数え切れないほどの天使たち共に、又、すでに召された数え切れないほどのキリスト者たちと共に、アブラハムやヤコブと共に、祝宴のとき、礼拝が始まっています。私どもは、死んだなら直ちにそこへと移されることが約束されています。そのような究極の祝福、幸いに私どもは今朝ここで、あずかっているのです。父なる神は、御子イエスさまによって、聖霊の恵みの中で、ここにいる私どもすべてを、天国の食卓を先取りするようにして、味わわせて下さっているのです。今は、そのようなすばらしい救いの時代、新しい時代が開幕しているのです。神に感謝致します。

ですから、キリスト教会は、決してこの日には、断食しません。むしろ、どんなに悲しいときも、つらいときも、死にたくなるような苦しみに遭ったとしても、ご飯も喉を通らないような絶望の崖っぷちに立たされたと思うようなときにも、ここで、心を高く挙げるなら、天のいのちに満たされるのです。主イエスの愛に満たされ、癒され、豊かにされるのです。また、兄弟姉妹の交わりの中で、励まされ、慰められるのです。ですから、私どもは、主の日には、必ず、この聖なる礼拝堂、神の家に来るのです。

最後にもう一度、高らかに、宣言します。主イエスは、新しい時代の幕を開けられました。それは、もうあなたの古き時代は、終わったということです。それは、こう言う事を意味しています。あなたが犯したこれまでのいかなる罪も過ちも、恥も愚かさも、もう天国には、関係がないとうことです。主イエスによって、全部、克服されてしまいました。帳消しにされ、既に過去の遺物になっているのです。したがって、この新しい時代に、今更、古い生き方を持ちだす必要は、まったくありません。誰でも、あのマタイのように、招かれています。マタイと一緒に立ち上がれるのです。古い自分に死んで、復活させられるのです。まじめに生きている、立派な、優れた生き方をしていると自負していたファリサイ派の人々をも、ヨハネの弟子たちをも、主は愛をもって、救いへと、天国へと招かれます。私どもは今朝、この場にいるこの事実をもって、もはや暗い顔つきをしていられなくなっているのです。落ち込む理由は既に消滅しています。主が一緒にいてくださるからです。アーメンと同意しましょう。

午後、個人伝道の学び会を続けます。伝道とは、天国がここに始まったことを証することです。この説教の題を、「ようこそ、天国の食卓へ」と致しました。伝道とは、この礼拝式へと招き、主イエス・キリストのいのちの交わり、救いの喜びへと招き入れることです。どうぞ、主と共に、伝道しましょう。教会はそのために存在しています。何よりも、私どもの毎主日捧げる礼拝式が、天国のいのちの喜び、救いの喜びにあふれた祝宴となりますように。

祈祷
父と子と聖霊の交わりにおいて唯一なる御神、いのちと愛に満ち満てる永遠の神、平和の神よ。あなたは、御子なる神を真の人として、この地上にお与え下さり、御子によって、罪の赦しを与えて、古い約束を成就して下さいました。私どもは今、あなたの交わりに入らせていただき、あなたのいのちによって、生かされています。永遠のいのちの喜びを知り、私どもの心は、喜びで満ち溢れます。どうぞ、主イエスとの交わりに生きる救いの喜びを、いよいよ味あわせて下さい。私どもの自身ためだけではなく、何よりもあなたの栄光と隣人の救いのために、神の国の拡大のために、満たして下さい。そのようにして、私どもの教会が、新しい時代が始まっていることをこの時代の、この町の人々に、証できるようにしてください。 アーメン。