過去の投稿2010年8月1日

8月1日

☆  8月に入りました。猛暑の日々が続きます。どうぞ、体調管理に気をつけて、8月を乗り切りましょう。いつも、礼拝式の後に、冷たいお茶のサービスを受けています。しかし、8月は、どうぞ、先ず、冷たいお茶を一口頂いて、喉をうるおし、体をいたわりましょう・・・。充実した礼拝式を捧げるためにも、大切かと思います。

★  読書会は、その名の通り、基本的には、著作、講演記録等を共同で深く読むための集会です。今回は、初めて、「個人伝道の学び」、まさに実践的な訓練の道を求めて取り組みました。先週の読書会は、出席者がいささか少なく残念でした。読書会の歴史は、名古屋岩の上教会の教会形成の歴史に決定的に重要な集会でした。ただし、出席する方はほぼ固定しています。わたしどもの課題として常に、横たわったままです。

☆  先週の読書会も、求道者に福音の言葉を紡ぎだすための作業をしていただきました。説教で語られた福音を、自分の言葉で、求道者に分かち合うための訓練です。説教を聴くことは、言うまでもなく、自分じしんのためです。しかし、同時に、人々を、「天国の食卓【の前味・前表・地上における味わい・・・】」に招く伝道へと派遣されているのですから、まさに隣人の祝福のためでもあります。そのような聖書的な信徒としての自覚がいよいよ深められることを心から願います。

★  読書会で、少し脱線して、古代教会の洗礼入会志願者教育について、触れました。おひとりお一人に、教会はどのくらいの期間、教育を施したと思うか、尋ねました。それは、3年間です。3年間に渡って、教会生活を見守り、励まし、福音の教えと生活を身につけた者に、復活祭の夜(復活徹夜祭)に執行しました。現代のキリストの教会で、ここまで長い期間を課す教会は、ほとんどないと思います。古代の教会の置かれた状況からの要請であることは明らかと思います。ただし、もしも現代のキリスト教会が、「キリスト者」たるその恵みの重さについて、認識が浅いものに留まるとすれば、由々しきことです。私は、洗礼入会志願者と、マンツーマンでの学び会を行います。子どもカテキズムを学び終える前に洗礼を施された兄妹も、必ず、その後、最後まで、学びを継続します。したがって、どなたともほぼ1年近く、学ぶことが、基本です。しかし、そこでの学びは、初歩の初歩です。もとより、そこで学んだことは、一生涯に渡って身につけるべき福音の恵みのほぼすべてが語られています。しかし、学ぶべき事柄は、なお数多く残っています。聖書各書、教会の歴史、教理の歴史、他宗教、「キリスト教」の成り立ち・・・、さらに奉仕の具体的、実践的諸課題・・・・。(もしも説教において、それら教育的な課題に重心を据えるとすると、礼拝の次元、つまり神賛美、頌栄的な、説教の生命線が不鮮明になる誘惑が大きくなります。)

☆  福音主義教会(プロテスタント)とりわけ私ども「改革派教会」の形成の生命線は、信徒訓練にあります。教会役員は、信徒も担っている教会です。いへ、むしろ、改革者(いわゆる宗教改革者)たちは、ローマ・カトリック教会に向かって、「信徒(キリスト者)の教会であることこそ、聖書的教会の姿に他ならないのだ」と、主張したのです。ローマ・カトリック教会は、教会を「教える教会(いわゆる聖職者たちの交わり)」と「教えられる教会(いわゆる信徒たちの交わり)」として、二重に考えているからです。したがって、教える教会は、真理(霊的生命)を保持し、伝達する責任がありますから、彼らには、徹底した神学と霊性の修練が課せられ(るはず)です。(この点、プロテスタントは、様々な教派、単立教会もあり、牧師養成のレベルは、まさに自由競争・・・。結局、牧師は、卒業後の相互研さん、自己研さんを、自ら課し、生涯の学びが不可欠なのです。)  反面、私の見立てでは、信徒の教理的訓練は、改革派の方が、「かなり」自覚的になされていると思います。しかし、彼らと比較して、満足・・・などと言っていられません。彼らは、もともと、そのような教会理解で成り立っているからです。しかし、私どもは、「それでは、教会にならない!」と主張した教会なのです。

☆  あれから500年が経とうとしている今日の私ども日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所。まさに「教会設立」を目指す教会として、自給と複数の長老、執事を立てることが、危急の課題です。しかしそれは、伝道所委員の兄妹にまかせていればよいはずはありません。下半期・・・。今一度、読書会、祈祷会、教会を形成するための学びと訓練を受けるべく、献身を新たにし、深めましょう。わたしは、「経済の自立を果たすために信徒を増やそう・・・」とは、まったくこれからも申しません。今いる、私どもひとり一人の課題なのです。教会の内実もまた、まったく同じです。現住陪餐会員が増えれば、教会設立に至るのではありません。小会設立の課題は、現住陪餐会員ひとり一人が、いよいよ、教会人として、キリスト者としての使命に生きる訓練を受け、自立した、成人としてのキリスト者として成長するかどうかにかかっています。励んでまいりましょう。