過去の投稿2010年8月9日

8月8日

☆  夜の祈祷会では、創立60周年記念宣言の中の、「終末の希望の中で迎える信者の死」を学び始めました。先週の祈祷会は、○○兄の義兄のご葬儀を終え、夜の祈祷会に駆けつけて下さいました。長く長老職に就かれ、神と教会に仕えた方と伺いました。主と結ばれて死ぬことができるキリスト者の幸いを改めて思います。(洗礼を受けることなく、逝去された愛する方々のことを、忘れることは決してできません。わたしもまた、当事者の一人。しかし、まさにそこでこそ、私どもの信仰を深くさせて頂きたいと思います。誰でもただ洗礼を受けた事実があれば、自動的に天国・・・とは行かないでしょう。洗礼を受けられなかったなら、自動的に・・・とは、さらに行かないと思います。少なくとも、キリスト者の家族の死は!・・・、丁寧に学びましょう!)

★  いつものように、先週の説教のテキストも深く味わいました。このテキストは、祈祷会で予習し、また、復習もしました。読めば読むほど、主イエスの愛に圧倒されます。自分の愛する娘の死に立ち合わなければならない人生の現実。どんな慰めも、励ましもあのときの父親に届くことができたであろうかと思います。おそらく私どもにできるギリギリのことは、彼の傍らにそっと立ち続けることくらいではないでしょうか。しかし、主イエスがなさったことは、まるで、父親の悲しみをそっくりそのまま、ご自分に引き受けることでした。

   牧師をしていてひとつの危機は、教会員ひとり一人と共に生きる上で、その思いに心を寄り添わせて、自分の心が壊れて行くという危険性にさらされるということであると思います。カウンセリングの書物を読んで、ごく基本的なこととして書いてあるのは、カウンセラーはクライアント(相談者)の思いに感情移入し過ぎてはならないということです。カウンセラー自身のストレスが過重となって、心を病んだり、客観的な判断も下せなくなるからでしょう。ところが、イエスさまは、どうでしょう。そんなことはお構いなしに、まるで自分のことのように、感情移入をなさったのだと思います。

   彼女の家に急ぐ途上、12年間長血で苦しみ抜いている女性に触られます。主イエスは、彼女の病気のこともご存じだったはずです。彼女に触られたら、律法によれば、祭司のところに出向いて、清めてもらう必要が生じます。大急ぎのイエスさまにとって、大迷惑です。普通だったら、触らせないはずです。しかし、主イエスは、彼女のその行為を、心から喜ばれました。「娘よ」と呼びかけたのは、彼女もまた、父なる神の子であるのだ、あなたも神に愛されているのだという宣言でしょう。そして、「元気になりなさい」と宣言して、癒されます。主イエスの愛は、ほとばしり溢れ出ます。際限もなく、どのような人の困窮にも、悲しみにも、苦しみにも心を震わせていらっしゃいます。

   まことの愛とは、まさに共感することではないでしょうか。共感は、英語で、「シンパシー」【シン(共に)+パシェイン(苦しむ)】と言います。直訳すれば、共苦となるでしょうか。これに似た、英語に、「コンパッション」(同情する)があります。「パッション」は、キリスト教の専門用語では「キリストの受難」を現します。「コム」も「共に」という意味ですから、「共苦」です。

    そこにまことの「強さ」を見ることができます。まさに、神の御子としての強さです。罪人である普通の人間では、持ちこたえられないと思います。まさに、神の御子です。少しも手を抜かない。本当に、悲しまれる・・・。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙第12章15節)とあるように、愛とは、まさに共感です。パウロがこう語ったとき、それは、彼自身が福音書から学んだ、主イエスさまのご生涯、伝道生活の日々であったはずです。イエスさまは、まさに、弟子とされ、救われたマタイの喜びを共に喜び、愛娘を失った父の悲しみを共に悲しまれるお方です。

   主イエスに触れた長血を患う女性、主イエス触れられた少女。いのちとは、このいのちの源なるお方、つまりイエスさまに触れあうこと、交わり、出会いにあります。私どもは、聖餐のパンをちぎるとき、まさに、彼女がした手を伸ばして触れる「追体験」をしているのです。主イエスの愛と慈しみ、憐みに感謝あるのみです。

☆   ○兄の病床を、1~2週間に一度は、お訪ねすることに決めています。洗礼を受けられてから、あらためて心と魂とが強められたのでしょう。健康が守られてまいりました。しかし、最近は、5年目の病床生活のなかで、皆さまの祈りを集めなければと思います。先週、死といのちについてお話しし、額に手を置いて、祈りました。アーメンと終えて目を空けると、スヤスヤと・・・。信仰の勝利を確信させられる時です。