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「はらわたを痛める愛で」

「はらわたを痛める愛で」
2010年8月15日
テキスト マタイによる福音書 第9章35・36節 -第10章4節 
【イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。

さて、今朝は予告いたしておりました第10章4節までは読まずに、二節だけを読みました。これは、マタイによる福音書の著者じしんによる第8章と第9章の総括する言葉です。そればかりか、主イエスご自身とはいかなるお方なのか、主イエスがいのちをかけて伝えようとなさった父なる神の人間に対するお心とはどのようなものであったかを記す決定的に重要な御言葉です。したがって、これまでのおさらいをも兼ねながら、この二節に集中したいと思います。

さて、改めて大きなおさらいから始めたいと思います。主イエスさまは、何をしにこの地上に来られたのでしょうか。どのようなことを語られ、またなさったのでしょうか。それを記したのが、四つの福音書です。イエスさまのお働きや説教を、たった一言で要約すると、どうなるか。マタイによる福音書では、第4章17節に記されています。「悔い改めよ、天の国は近づいた」です。主イエスは、こう宣言されて、地上におけるメシア、キリストとしての活動を始められました。それは、ただ一回限り、宣言して終わったわけではありません。イエスさまのなさること、語られること、それらのすべては、「悔い改めよ、天の国は近づいた」という説教を実現するためのものだったのです。

第35節にこうあります。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」それは、まさに、イエスさまが、「神の国はもうあなたの目の前で始まりました。こんなに近づいたのです。だったら、あなたも、あなたも、天国に入ってください。そのために、悔い改めて下さい。これまでの古い生き方を換えて、新しい時代にふさわしい考え方、生き方をしてください。」と呼びかけられたという事です。そうであれば、私どもは、頭を低くして、高慢な思いを捨てて、主よ、憐れんで下さい。主よ、こんな罪深いわたしを憐れみ、救って下さい。わたしもあなたと共に生きさせて下さいと、願い出ることが必要なはずです。それが、「悔い改める」ということです。同時にそれは、神の国の主、天国の王でいらっしゃる「イエスさまを信じる」ことに他なりません。主イエスがこの地上で、「ありとあらゆる病気や患いをいやされ」理由はそこにあります。つまり、本当に、イエスさまを信じても大丈夫なのだ。本当に、イエスさまを信じるだけで救われて、天国に入れるのだということを証明するために、奇跡をなされたのです。イエスさまの説教と奇跡の目的であり意味は、ただ一つ、神の国が始まったことを、知らせるためなのです。

次に36節です。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」これもまた、主イエスが何故、説教し、奇跡の御業をなさったのか、その理由を明らかにする御言葉です。これは、マタイによる福音書の中でも、極めて重要な聖句であるばかりか、新約聖書の中で、主イエスがなさった活動、天の父なる神さまが、私どもにどのような思い、お心を持っていて下さるのかを、これ以上に明らかにする表現は、他にないと、わたしは思います。そこで今朝、あらためてここで記された10の奇跡を振り返りたいのですが、時間がありませんから、第9章だけにしてみます。

第9章は、中風の人の癒しから始まりました。人々が、主イエスのところに中風の人を担架にかついて運んで来ました。主イエスは、彼らの信仰を見て、その人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」と宣言し、彼を癒し、その罪を赦されたのです。これが7番目の奇跡です。

その後、収税所で働いていたマタイを弟子として迎え入れます。マタイは、大いに喜んで、主イエスと弟子たちを自分の家に招き入れ、一緒に食事を楽しんだのです。そこには、人々から後ろ指をさされていた徴税人の仲間たち、そればかりか罪深い女性たち、ユダヤの社会から神を恐れない不届き者として糾弾されていた罪人たちも集まっていました。しかし、主イエスは、彼らの喜びをご自分の喜びとされ、言わば、天国の喜びを彼らに分かち合われた、ふるまわれたのです。

ところがそこに洗礼者ヨハネの弟子たちがやってきて、主イエスは厳しく批判されました。議論が起こりました。

しかもまたそこに、ひとりの父親が、「自分の娘がたった今死んでしまったけれども、あなたが娘に手をおいてくだされば、生き帰るはずです」と駈けこんで来ます。ものすごい課題が、依頼が飛び込んで来ました。そこで、主イエスは、この父親の悲しみ、苦しみに心を深く寄せられ、まるで、自分が父親であるかのように、自分の娘であるかのように、すぐに立ち上がって、彼の家に急がれます。

ところがその途中、今度は、12年間、女性特有の病気に苦しむ人と出会います。彼女は、長血という、社会生活を営むことが許されない病気にかかって、社会的な死を味わっていました。しかし、イエスさまの衣の房に触りさへすれば、癒されると信じて、イエスさまに触ったのです。イエスさまにとっては、本当に迷惑千万な行為のはずでした。なぜなら、この病気の人に接触した人は、エルサレムの祭司のところに出かけて行って、感染していないということを証明してもらわないといけないからです。ところが、主イエスは、この女性の悲しみと苦しみを我がこととして、受け止められました。「よく触ってくれたね」と、そのような思いで、彼女を癒されました。彼女のために、わざわざ、時間を割いて、群衆の中に紛れるのではなく、真実に向き合って、出会って下さったのです。そして、少女のところに行って、彼女を起き上がらせます。

確かに皆さまも、忙しい日々を過ごしていらっしゃいます。しかし、主イエスの毎日の生活と比べるなら、いかがでしょうか。まるで戦場のような激しい労働の日々でした。しかも、すべて、自分の利益を求めてなさったのではなく、徹底して隣人の利益のためでした。自分を宣伝するためではなく、ただひたすらに隣人の幸福のために生き抜かれました。自分を忘れて、自分を捧げ、隣人と共に生きられました。

主イエスの一日は、まだ終わりません。先週学びました二つの奇跡が続きます。二人の盲人が、「主よ、憐れんで下さい。」と主イエスについて来たのです。主イエスが休まれる家にまであがって来ます。そして、主イエスは、そこでも喜んで彼らを癒されたのです。彼らが癒されて、大喜びで家を出て行くと、なんと、入れ替わりに、悪霊に取りつかれて口の利けない人がやって来ます。そして癒されます。これで10番目です。たった一日の間で、癒しの奇跡の数5つです。その他、議論としての説教や食事会もありました。まさに、息つく暇がありません。実際に、主イエスは疲れの余り、この群衆から身を隠したこともありましたから、肉体の健康ばかりか、いのちの危険も感じられたのかもしれません。

さて、マタイによる福音書は、一体何故、イエスさまがいのちをかけるようにして、まるで戦場にいるかのような激しい伝道の日々を送られたのか、その理由、そのお心の秘密を明らかにするのです。それが36節です。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」主イエスの御眼に映る人々の姿、群衆の姿とはいかなるものでしょうか。彼らは、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」のです。

 いったい羊に、もしも飼い主、羊飼いがいなければどうなるのでしょうか。羊は、皆さんがよく聴いていると思いますが、まったく弱い動物です。いろいろな面で弱い。生きていく能力において、とても弱いのです。目が極端に悪いのです。頭もまた、・・・です。運動能力が劣っています。戦う能力は、皆無です。そうかと言って逃げ足が速いわけでもありません。まあ、見事に、弱いです。一匹の牧羊犬が上手に100匹以上の羊を檻の中に誘導したり、出したりします。犬と人間は仲良しですが、犬は、人間がいなくても、立派に生きて行ける。ところが、羊はそうではありません。とりわけ、イエスさまがいきておられたパレスチナは、そうです。水飲み場は少なく、草の生えている場所もそう多くはないそうです。何よりも、崖が多いのです。目が悪く、耳を悪い羊が、群れを離れれば、羊飼いから離れれば、簡単に迷子になります。迷子になれば、もはや、それまで、命がありません。

つまり、羊は羊飼いなしには、生きて行けないのです。弱り果て、打ちひしがれ、死ぬのは、時間の問題です。狼のような猛獣が襲ってきたら、一瞬のうちに、殺されます。しかも、その地方は、決して肥沃な緑したたる牧場などではなく、むしろ沙漠に近いのです。そんな羊たちが、羊飼いがいないなどとは、まさに、危機的状況とはこのことです。

 ここで一つ補足すれば、マタイはここで「群衆」と記しています。確かに、人々は群をなしています。大勢います。確かに人の数としては大勢いるのですが、しかし、一人ひとりの心は、バラバラです。実は、お互い、ひとりの人間として出会うことなく、孤独に生きているのです。

あのマタイたちと一緒に食事を楽しまれたとき、それは、たとえば、吉野家で牛丼を食べるとのとはまったく違います。カウンターの隣や向かいに人がたくさんいますが、牛丼を黙々食べたら、隣に座っていた人のことなど、まったく忘れてしまう。まさに、他人です。出会いがない。しかし、イエスさまの食事会は、違います。語りあいつつ、皆と喜びを共有しながら食べたのだと思います。これが、私たちの時代、社会だと思います。古い歌謡曲に、東京砂漠という歌がありましたが、おそらく、その通りだと思います。

 主イエスが、ご覧になられた当時の群衆は、まさにそう主イエスの御眼差しに映っているのです。ただし、主イエスは、群衆を群衆としては、扱われません。これが、ここまで学んだところではっきり見えていると思います。

 イエスさまは、少女を蘇生させる道すがら、長血の女性と出会います。主イエスは、ひとり一人の祈りや願いを、かけがえのないものとして受け止めて下さるのです。私たちの常識では、今は、忙しいです。二つのことは同時にできません。順番ですから待って下さい。こう言います。しかし、主イエスは、全部、引き受けて下さいます。したがって、わたしたち全員が同時に祈っても、まったく大丈夫なのです。ひとり一人と関わって下さるのです。そのようにして、私たちどうしも、神の国では、バラバラではなくて、一つに結ばれます。

あの「二人の盲人」は、イエスさまと出会って、おそらく、二人の間もまた、これまで以上の絆で結ばれたのだと思います。「口の利けない人」もまた、連れて来てくれた友だちか家族と、やがて会話を楽しめるようになったと思います。豊かな交わりが深められたと思います。つまり、イエスさまがいらっしゃる所には、人が愛の絆で結ばれて、行くのです。その絆の真ん中に、主イエスが共にいてくださり、主イエスごじしんが絆そのものなのです。教会とは、まさに、このようなお互いの交わりによって形成されます。その交わりこそが、教会です。したがって、いよいよ、共に集まり、共に祈り、共に学び、共に礼拝を捧げることが、かけがえなく大切なのです。
 
さて、誤解してはなりません。主イエスは、群衆を群衆としてご覧になられますが、しかし決して群衆としては扱われません。つまり、主イエスは、ひとりひとりその名を呼ばれるのです。実に私どもは、一人ひとり、主イエスから名前を呼ばれているのです。呼ばれないでキリスト者になったり、教会に来れたり、信じることが出来た人など、ひとりもいません。私どもは、主イエスにその名を知られています。名前とは、私たち自身、存在そのもののことです。

 ここで、聖書は言います。羊飼いじしんがそのようにしているのだと言います。目が悪い羊たちは、羊飼いの声は聴き分けられるのだそうです。時に、笛のようなものを使うのです。羊の群れが水飲み場で、交じってしまっても、羊飼いは、まったく慌てないそうです。名前が分かるからです。また、羊たちは、羊飼いの声を聴き分け、笛の音を聴き分けるからです。

 ところが、ここで問題なのは、本人の問題です。本人は、自分がそんな恐ろしい状況にいると気づかない。いへ、認めないのです。羊飼いのいない羊のこの例えは、うっかりすると、羊が悪いのではなく、羊飼い自身の問題にされます。羊飼いがいるのだけれど、その働きを担っていないということです。そのような理解を否定することもできないかもしれません。本当なら、律法学者たちも、祭司たちも本当の意味で、神の民であるイスラエルの人々を配慮し、慰め、励ますべきです。しかし、彼らは、自分たちの特権だけを意識し、主張したのです。しかし、人々もまた、神さまのもとに立ち返って、ふさわしい働きを担って生きていたかと言えば、そうではなかったはずです。

 そのことがまさに徹底的に暴露されるのは、このまことの羊飼いに他ならないイエスさまを、彼らは、まことの羊飼いとして、その声に聴き従わず、むしろ、このお方を、十字架に追いやった、最終的な責任者たちだからです。十字架につけろ、十字架につけろと叫び続けたのは、イエスさまの御眼に、力のない羊、まさに死なんとする憐れな羊たちだったのです。

羊飼いと離れた生きる羊たちに、本来のあるべきいのちはすでに失われているのです。すでに、霊的には死んでいるような状況にあるわけです。

しかし、わたしは、この群衆たちの中には、イエスさまにまさに悪態をついたファリサイ派の人たちも入っていると考えています。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。」同じすばらしい奇跡を目撃しても、彼らは、心を開かず、見ることができず、色眼鏡をつけて見たのです。自分たちが、悪人とか病人だとか、考えていません。だからこそ、私たちは、自分を羊として主イエスにみられることを本当に感謝したいと思います。何よりも、この羊の群れを主イエスがどのようにご覧になられたのでしょうか。

深く憐れまれた。」この翻訳では、やはりどうしても、そのニュアンスを正しく、深く伝えることはできないだろうと思います。ある翻訳では、こう訳しました。「ハラワタがちぎれる思いに駆られる」これは原語の意味を日本語に移し替えることに成功していると思います。つまり、「深く憐れむ」という表現では収まらない、実に激しい言葉がここで用いられているのです。そして、それは、ただイエスさまのお心を明らかにする言葉としてだけ、用いられているのです。ギリシャ語では、「スプランクニゾマイ」と言います。「はらわた痛む」と言う翻訳もありました。内蔵が「きゅー」あるいは、「ギュ」と締め付けられるような痛みを伴う、心の動きなのです。そして、聖書は、はらわたがちぎれるような痛みを伴う激しい心の動きを、神の愛、主イエスの愛を表現する言葉として用いるのです。

聖書が明らかにする愛とは、どのようなものなのでしょうか。まことの愛それは、向き合う相手に「共感」することです。向き合う相手の痛み、苦しみを共にする、共有するということです。新共同訳のこの個所の小見出しには、「群衆に同情する」とあります。これは、わたしは、むしろよくない、不要な表現と思います。日本語のニュアンスにおいては、同情は、どこか、上から目線のニュアンスがあるように思います。同情は、英語で「コンパッション」という言葉でもあらわせるように思います。

主イエスの十字架に至る道行きを中心に描き出した映画に「パッション」があります。パッションは苦しみという意味ですが、キリスト教の専門用語ともなっています。その時の意味は、「キリストの受難」という意味です。コンパッションとは、「苦しみを共にする」という意味がるのだと思います。主イエスの愛、それは、同情というように、上から目線で、ああ、かわいそうに、救いあげてやろうというような、ものとは違うと思います。それは、上にいるだけではなく、自分自身がそこから降りてきて、一緒に苦しむということなのです。それなしの同情は、むかしのテレビ番組で、「同情するなら金をくれ」という名台詞が思い起されます。上から憐れみの眼差しを投げかけるだけ、人を見下すだけで、自分はいっさい手を汚さない、汗をかかない、苦しまない、それが、日本語の同情とか憐れみのニュアンスです。まさに、「憐みを垂れる」という表現に端的に現れています。

しかし、主イエスにおいて明らかにされた神の愛とは、まったく違います。御自ら苦しまれるのです。はらわたを痛める激しさで、一体化してしまうのです。そのようにして、ご自分が、上から下へと、飛び降りて、私どものどん底にあって、私どもの悲惨に心を震わせ、共鳴し、それは、ご自分が内蔵がちぎれるような苦しみを引き受けられるのです。しかも主ご自身はそこで共倒れになってしまわれるのではなく、立ちあがって下さるのです。

ここでついに、イエスさまが、何故、あの激しい毎日の奉仕の日々を、担われたのか、分かると思います。主イエスは、あの、ひとり一人を、まさに死なんとする危機に陥っている人、既に死んでしまっている悲惨な状態として、ご覧になったのです。主イエスにとって、死んでいるのは、まさに肉体が死んでしまったあの少女だけではなかったのです。すべての人々のことを、死んでいる人間としてご覧になられたのです。そして、「ハラワタがちぎれる思いに駆られ」て憐み、愛されたのです。だからこそ、命をかけるようなご覚悟をもってひとりひとりに真実に出会って下さったのです。

わたしは、ここでの主イエスとまさにぴたりと重なる御言葉を思い起こします。それは、使徒パウロがローマの信徒への手紙第12章で、キリスト者の倫理、生きる姿を描き出した、一つの御言葉です。「喜ぶ人と共に喜び、悲しむ人と共に悲しみなさい。」主イエスこそ、この生き方のまさに模範、モデルに他なりません。

もう15年も前になるでしょうか。神学校時代のひとりの友人が、深刻な危機に陥ったことがありました。わたしは、とにかく、現場を離れて、名古屋に来るようにと伝えました。家では、くつろげませんから、公共の施設に宿泊して、風呂につかり、ゆっくりとつもる話を聴こうとしました。それは、とても厳しい内容でした。これ以上牧師を続けるのは難しいと、生きて行く力そのものが失われていると訴えて来ました。わたしはそれこそ必死に、励まし続けました。ところが、夜になって、胃が痛みだしたのです。話は終わっていません。しかし、もう、こちらが参ってしまったのです。わたしの方が、横になってしまいました。すると、彼が、一生懸命、わたしの背中やお腹をさすってくれ始めたのです。我ながら、情けない思い出です。

実は、憐れむということ、人の悲しみや苦しみに寄り添うということは、たった一人のためだけであっても、それは、おそろしく大変なことです。つくづく、主イエスの憐れみということのすごさを思わされます。いへ、はっきり発音した方がよいでしょう。このような憐れみを持つ人間、憐れむことのできる力をお持ちの方は、いないはずです。人間には、できないはずです。

わたしどもキリスト者とは、この主の憐れみを受けた者に他なりません。神は、私ども一人一人に、まさに一対一で、とことん向き合って下さいます。そして、こんな私どもの悲惨に、はらわたをよぎるような鋭い痛みをもって憐れみ、愛してくださるのです。

私どもを愛するということは、罪人を愛するということに他なりません。罪人を愛するということは、その罪を赦すということが伴います。それなしには、愛は成り立ちません。私どもと神との関係を取り戻せません。正すことができません。ですから、主イエスは、十字架に赴かれました。私どもの罪を償って下さるために、自らどろだらけになり、ぼろぼろになり、苦しみ、傷み、まさに、はらわたそのものをちぎって痛み抜いて下さったのです。父なる神御自身もまた、御子を十字架にかけることによって、私どもへのはらわたを痛める愛、憐みを現して下さったことに他なりません。

この憐れみ、この愛こそ、私どもを救うのです。私どもを生かすのです。神の愛それはまた、神のいのちそのものです。神の永遠のいのちを分け与え得るために、主イエスは、まさにいのちをかけてくださったのです。その憐れみを受けた者として、私どもは今、生かされています。深く、信じましょう。こんな私のために、苦しんで下さった十字架のイエスさま、御子を与えて下さった父なる神のご愛は、今このときも変わらずに、私どもに注がれています。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもを憐れんで下さいと、私どもが叫び、手を差し出す前に、既に、あなたが、御子とそのいのちを、私どもの救いのために十字架にまで与えてくださいました。あなたの恐ろしいまでに激しい、真実の憐れみ、ご愛がなければ、到底、私どもは頑なな、冷たい心のまま、独りよがりの生き方を続け、霊的ないのちを失い、日々、永遠の死へと歩んでいたはずです。どうぞ、その愛に応えて生きる新しい生き方、天国に生きる者らしい人生を、始めさせて下さい。そして、私どももまた、主イエスを愛し、自分を愛し、隣人を愛することへと進み行かせて下さい。アーメン