「戦争責任を担い、平和を造り出す教会となるために」-教会性、教派性、教会の自律-?
日本キリスト教団愛知西地区 8・15集会 2010年8月15日(主日)
日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所 宣教教師 相馬伸郎
(中部中会 前・世と教会に関する委員会委員)
2007年に、富坂キリスト教センターから、「一五年戦争期の天皇制とキリスト教」(新教出版社)※(3)という論集が出版されました。そこには、日本のほとんどの教派を網羅するように、当時の教会が「心ならずも」戦争に巻き込まれた、痛恨の過ちについて、歴史的な検証をしています。カトリックも聖公会も日本基督教会もバブテスト派も日本基督組合教会もメソヂスト教会も日本福音ルーテル教会も、なによりもホーリネスもそして無教会までも、戦争責任とはまったく無縁ではなかったことが、それぞれの立場に属する研究者たちから指摘されています。教会の戦争加担の罪責を隠ぺいすることは赦されません。
私どもの教会は、自ら神社参拝を行いました。主の日の公けの礼拝式において、宮城遥拝を行いました。天皇讃美をしたのです。まさに偶像礼拝の罪を犯したのです。もしも、この行為に対し、こう主張する人がいるならいかがでしょうか。「いや、何も偶像礼拝までしたわけではない。その後で、三位一体の神にも讃美を歌ったのだから」そうであれば、信仰の初歩、基本から議論しなければならないと思います。
たとえば、旧約聖書の出エジプト記第32章の、金の子牛をつくって拝んだ物語を考えて見ましょう。あのとき、神の立てられたイスラエルを救出する指導者モーセは、シナイの山で十戒を与えられました。ところが、山からなかなか降りて来ない彼を待つことができませんでした。民は、アロンのところに来て、願いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。」この要求をアロンは受け入れ、金で若い雄牛の鋳造を造りました。そのとき、アロンは、こう言っています。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ。」こうして、イスラエルは、この金の子牛を造って、ひれ伏したのです。しかし、アロンは、そこでもこう言っています。「明日、主の祭りを行う」つまり、彼も、イスラエルの民も、なお、自分たちは、主なる神を信じているのだと、のんきなまでに、そう考えているのです。エジプトから解放してくださった神こそ、真の神、我々の神だと信じているのです。だから偶像の祭りではなく、「主の祭り」を行おうと呼びかけたのです。
確かに彼らは、自分たちの神、エジプトから脱出させてくださった神を信じているのです。それは、繰り返して申しあげてよいでしょう。しかし、神御自身は、彼らのした行為を、信仰として、礼拝としてお認めになられません。偶像礼拝の罪として憤られ、裁かれたのです。つまり、偶像礼拝とは、神と子牛とを重ねて礼拝すること、二つとも礼拝することなのです。
まことの神のみを神とする。この「のみ」が、教会にとって生命線です。私ども福音主義教会は、教会の改革者たちの改革の原理、教会改革の内容原理と言われる福音の真理内容そのものを言い表すフレーズ、「恵みのみ」、また形式原理と言われる福音の真理を確定する「聖書のみ」を堅持していると思います。これを、常に、徹底的に保持することなしには、プロテスタントを名乗ることは許されないと、おそらく誰しもが頷いてくださると思うのです。
しかし、この二つとも相互に深くかかわっているのは、「神のみを神とする」という聖書の根本的信仰です。このいわゆるプロテスタントの原理と言われる「のみ」が崩れたら、どれほど恵みや信仰や、聖書を語ったとしても、それでは、教会が立ちません。教会が立たないと言う事は、「救いの客観性」が崩れるということです。私どもの罪の赦しが、空疎なものになってしまうということです。そうであれば、そこに、まことの教会は、なくなってしまうということです。土地建物会員がいるという目に見える形としての「きょうかい」はあってもすでに主イエス・キリストを頭とし、主イエスの臨在される実体としての教会はなくなっている、教会でなくなっているということが起こるのです。
この基本が分かれば、あの富田統理の日本基督教団の創立総会の宣言文にある「我らは基督教信徒であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一となす。」という文言は、まさに、偶像礼拝そのままであることは、明らかです。「神の民」であることと「日本臣民」つまり天皇の民であると言うことは、同列におけないのです。いへ、あのときは、同列どころか、神の国にではなく天皇の国に忠誠を尽くすをもって第一とするのだと言っているのです。もはや、あの教団創立総会の宣言文は、キリスト教信仰そのものにコミットすることは不可能と言わざるをえないはずです。聖書にあるこの信仰を、どのように解釈して言い逃れても、神の御顔の前には、通用しません。悔い改める以外に、赦し、救いの道はないのです。人間の次元で言っても、果たして、アジアの人々に対し、また日本において伝道する資格があるのかと思います。※(6)
ここに集まりました私どもの共通の志とは、何でしょうか。何にすべきでしょうか。それは、二度と、神の前に、また人々の前に、戦争に協力し、偶像礼拝の罪を犯さないという悔い改めを更新し、深めることです。たとい、どの教派に属していようが、あるいはまだその時には、キリスト者ではなかった方にとっても、あるいは、わたしのようにまだ生まれていなかったキリスト者にとっても、決して避けて通れない課題、避けて通ってはならない共通の背負わなければならない課題なのです。
冒頭に申しました通り、私どもの諸教会がひとしく、国家の圧力に屈したことを認めるのか認めないのか、これによって、それぞれの教会の進む方向性は、決定的に違ってしまいます。この歴史認識は、日本人の戦争責任の問題と同じく、いへ、神の民にとっては、比べられないほど神の前に大きな責任が問われていると思います。私ども神の民にとって、はるかに重要な歴史認識であると言わなければなりません。私どもは、日本キリスト教団に属していようとなかろうと、日本にあって、キリストの教会として再出発するために、この問題に個人的にも、教団としてもきちんと決着をつけない限りは、真実に、日本にあって教会を形成し、伝道することはあまりにも無責任であると言わざるを得ないのです。
まさにここに、日本における教会形成の「急所」があると言えると思います。「もはや戦争責任でもあるまい、もう、あの当時、キリスト者であった牧師、指導者はいない、日本の教会の悲惨な行為について一般社会では、問題視されない、批判されないから、寝た子を起こす必要はない」などとは、口が裂けても言えません。
その意味で、1967年、日本基督教団総会は、鈴木正久総会議長名で「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を公にしました。これは、罪責についての不徹底さなど問題も山積していますが、しかし、同教団の歴史のみならず日本の教会史にとって、特筆すべき光彩を放つものと考えます。少なくとも教団に属する方々にとって、この告白、この声明文は、極めて大切となるはずです。
しかし、今晩、私どもがそこに留まっているだけでは、わたしは、教会の集会と称するには、なお、まったく不十分であると思います。そこまでなら、他の宗教団体や市民学習会の次元と同じだと思います。もはや二度と過ちを犯しませんと、自分たちの非を認め、謝罪し、反省して立ち上がることは、人として極めて大切なことで、そのように志す市民は、少なくないハズです。
しかし、教会としては、そこから何をどうするか、それこそが、問われるのです。教会が教会であるということ、日本キリスト教団で申しますと、しばしば教団の「教会性」という言葉が使われるかもしれません。それよりも「教派性」と言う方が、一般的な表現です。福音主義諸教会にとって、この「教派性」の確立こそ、自分たちの教会の存立に必須のこととして考えられ、整えられたのです。これが、福音主義諸教会、宗教改革の歴史の基本中の基本です。自分たちの伝統、ルーツが不明であれば、そこがはっきりしなければ、どのような教会となろうとするのか、その目標も分かりません。そもそも、今現在、自分たちが、使徒よりの聖なる公同の教会に連なっているのか、公同教会として存立しえているのかどうかも、はっきりしなくなるはずです。
つまり、あのいわゆる戦争責任の告白は、教会の改革者たちが認識する教会を形成するに不可欠と信じる意味での信仰告白ではないわけです。つまり、それだけで、教会を結集し、教会を形成すること、教派や・教団形成をなすことは、できません。そもそも、歴史的に見れば、できるはずもありません。これ以上は、神学、教会論そのものに言及することになりますから、控えます。おそらく、声明を出した議長じしん、そのようなことは、考えておられなかったのではないか、わたしは調べておりませんので、軽々には申せませんが、個人的にはそう思っています。
実はわたしは、信徒の頃、このような強い憧れを抱いていました。「一五年戦争の時代に、ホーリネスの人々は弾圧や迫害を受け、解散させられ、獄中で殉教した指導者がいた、その信仰にこそ、本物があるのではないか」しかし先ほどの論集に、わたしの親友で日本ホーリネス教団の牧師が寄稿しています。彼は、戦時下のホーリネス弾圧について誠実な研究を重ねました。そこで、自分たちの被害者意識を、自己批判しています。彼は、「国家権力の圧力をかわすことに腐心した教会は、国体と矛盾しない信仰に生きているという自負がその支えとなっていたと言えるだろう。」(「一五年戦争期の天皇制とキリスト教」p446)彼らは、自分たちの教会は、愛国的であると自負していたのです。天皇制や戦争に対して、むしろ、反対も抵抗していなかったわけです。
先ほど申しましたように、教団を出て牧師になるための神学校に進む時、このホーリネスの信仰に憧れを抱いたこともあって、日本ホーリネス教団立の神学校に進んだのです。しかし、歴史を検証すれば、わたしの憧れは、まったく不正確であることは、ただちに証明されてしまいます。当時、ホーリネスの指導者たちは、自分たちの信仰は、「国体」と矛盾しないという思いを抱いていました。確かに、キリスト教界への言わば見せしめのような形で、弾圧を受けました。しかし、それは、国家権力への抵抗ではなかったことは、明らかなのです。詳しくは、この書物を読んでいただければと思います。
その真実の原因は、自分たちの教派性、つまり、聖書によって示され、確立すべき教会理解、教会像が未成熟であったということです。さらに、わたし自身の補足を加えて言えば、それは、結局、信仰告白を整える必然性をわきまえることが出来なかったゆえに、自分たちの信仰が挫折せざるを得なかったということになろうかと思います。
今でも、「当時の指導者たちは、会員や教会を守ろうとした」とする歴史認識があります。しかし、それは、結局、神社参拝や教会合同などへと転落し、信仰の真理を否定し、神への愛と従順を裏切ったのです。それは、教会の自殺行為でしかありません。大変厳しいことですが、彼らが守ろうとしたのは、教会の「資産」ではあっても、教会の「信仰」でも「会員」でもなかったと思います。いったい、教会を守るとは、いかなることを意味するのでしょうか。
わたしも牧師のはしくれですが、いつでも信徒を守りたいと願っています。しかし、信徒を守るということは、会員たちをしてその信仰の戦いを励ますこと、つまり、永遠の命を獲得するようにと励ますことではないでしょうか。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。」(テモテへの手紙?第6章12節)神の主権に反抗し、福音の信仰を裏切ってまで守るべき「きょうかい」なるものは、地上には存在しえないのです。
それができなかった理由はどこにあったのでしょうか。信仰が生ぬるかったからでしょうか、勇気がなかったからでしょうか。その決定的な理由は、おそらくは、先ほどのホーリネス教会の課題と、まったく共通しているのだと思います。つまり、教会を守るとは、キリストの教会であり続けようとすること、キリストの主権を明らかにしようとすることのはずです。つまり、あの時、指導者たちは、聖書の言う教会とは何か、それが分かっていなかった、あえて言えば、理解があまりにも不十分だったということ尽きると思います。日本の諸教会は、すべて例外なしにあの当時、教会とは何か、教会と国家との関係についての信仰の理解が極めて未熟であったからではないかと思います。
つまり、戦争加担の罪は、時代に対する政治学的な、社会学的な認識の誤りに求められるより、はるかにまさって、聖書的教会の形成の問題なのです。
カルバンの伝統に立つ改革教会にとって、それは、「教会の自律性」の問題を問うことを意味します。教会の自律性とは、国家という政体に対して、教会は固有の政体であり、教会は自らのことを国家の関与を排除し、自由に決定する権利を持っているという主張であります。これを最も真剣に考え、闘い、獲得したのは、歴史的に申しますと改革教会、改革派教会でありました。
ご存知の通り、中世において教会と国家は一体の関係にありました。しかし理念上は、教会が神の恵みを管理するゆえに、国家(自然)の上位に位置すると考えられていました。勿論、実際にそのような従属関係を保った期間は長くはありません。
宗教改革期において、ルターは教会と国家との関係を「二王国論」として考えました。(神の左手と右手)世俗的統治としての国家と霊的統治としての教会の二つに区別し、両者を従属ではなく、並列に置き換えました。しかし、理念はそうであっても、歴史的には国家教会(領邦教会)として形成されたことは周知の通りであります。
カルバンの宗教改革はジュネーブにおける教会改革でありました。彼が直ちに着手したことは何だったのでしょうか。教会規定の制定でした。これによって、教会の自律、自己決定権を確立しようとしたのです。教会形成が、国家(公権力、ジュネーブ市)の支配から自由になされるのでなければキリストの主権の確立を貫徹することは原理上不可能だからです。ちなみに、教会政治の確立は教会の自律の問題と直結します。その教会が、どのような会議を開催するのか、それが、教派の一つの在り方を決定します。監督政治、会衆政治、長老政治という三つの基本形態が、福音主義教会の基本です。会議をもって、キリストの主権を明らかにすることが、基本です。もしも、その会議をどのように構築するのかが不鮮明であれば、本来、「教会の会議」にはなりえないということを、私どもは基本的なこととして理解する必要があります。
このような信仰の告白や教会の会議などを、整える努力をしなければ、教会の自律を真剣に求めることがなければ、聖書的な教会を形成することにはなりません。そうであれば、戦前戦中の教会を克服し、国家と対峙しうる教会を形成することは、夢の夢となるかと思います。
日本の教会の今なお問い続けるべき最大の課題は、教会の戦争責任と戦後責任を担うことのできる「まことの教会・神の教会」を主の御前に形成し、お捧げすることです。僭越ながら戦後、いち早く日本キリスト改革派教会を創立した私ども日本キリスト改革派教会の先達の志も、まさにそこにあったと考えております。ただし、そうであればあるだけ、60年後の私ども日本キリスト改革派教会※の教会形成の実質こそ、皆さまよりはるかに神の御前に厳しく、鋭く問われてしかるべきです。確かに、一定の実りを実らせているという評価は正当ではあろうかと思います。ただし、よき模範となりえているかどうか、これは、まさにおこがましくて言えないと思います。そして結局、それは、教会の正しく力強く生き生きとした形成は、単に神学的に筋道が通っていることだけで担い、克服することはできないと言う事だと思います。教会形成は、霊的な力、実際的なまた総合的な力が問われています。私ども日本キリスト改革派教会の欠けが、まさにその総合力において欠けが多いということが言えると思います。
最後に、聖書の主題は、神の国です。神の国がこの地上に実現すること、これが、神の救いの歴史の完成です。神の国とは、神の平和の支配に他なりません。そうであれば、聖書の主題は、神の平和と言い換えることもできるのです。そうであれば、教会の使命は、神の平和をこの地に構築することです。それは、現実のこの世界における教会のかかわりをも示します。ただ、この平和とは、安全保障というものではなく、霊的な神との平和こそ、その中心です。そのような教会をこの地に建てるために、お互いは召されています。そうであれば、私ども神の民は、政治運動や社会運動を軽んじることはできませんが、しかし、教会を建てるための地道な奉仕、その学びを重んじないところで、神からの責任を正しく担うことができないはずです。
8:15の集会は、教会が行う集会である限りは、キリストの平和を証するために、神の国の中心的な現れである教会を堅固に据える戦いを横に置く事は決して出来ません。どうぞ、そのような霊的な神学的な信仰的な、そして地に足をつけた、地道な平和構築の戦いを、推し進めて参りたいと願います。
平和の源である神が皆さまと共におられますように!(ロマ15:33)
Soli Deo Gloria!