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日本キリスト教団 愛知西地区8・15集会 「戦争責任を担い、平和を造り出す教会となるために」-教会性、教派性、教会の自律-

「戦争責任を担い、平和を造り出す教会となるために」-教会性、教派性、教会の自律- 1/2
 日本キリスト教団愛知西地区 8・15集会 2010年8月15日(主日)
日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所 宣教教師 相馬伸郎
(中部中会 前・世と教会に関する委員会委員)

今回、愛知西地区の皆さまにお話しをさせていただく光栄に与らせていただきますことを心から感謝致します。7年前であったでしょうか、日本キリスト教団愛知東地区の集会で「聖餐の礼典」についてお話をさせて頂いたことがありました。その時の主題も、今回の主題も、おそらくは、教団の皆様にとっては、まさに深刻で、最重要な今日的課題なのではないかと思います。しかし、最初にお詫びを申し上げますが、わたし自身は、皆様の前で十分なお話しをするための素養を持ち合わせておりません。また、言い訳がましいですが、時との関係もありますから、まさに舌足らずで拙いお話ししかできません。
今回のご依頼は、桜山教会の田口牧師よりお受け致しました。先生とは、CBCラジオ「キリストへの時間」協力委員会で長く、ご一緒に奉仕させていただいてまいりました。この放送は、戦後、アメリカ南長老教会によって始められました。しかし今や、日本キリスト教団とキリスト教主義学校そして私どもの日本キリスト改革派教会中部中会の協力のもとに、なされています。このラジオ伝道は、日本キリスト改革派教会にとっても、もしかすると日本キリスト教団にとっても、とても珍しい協力伝道であり、その実りなのではないかと思います。このような宣教協力の場が与えられています事にも、この場を借りて、心から感謝を申し上げます。今後とも、宜しくお願い申し上げます。

最初に短く、自己紹介をさせて頂きます。実は、わたしのキリスト者としての出発は、横須賀にあります日本キリスト教団田浦教会で洗礼を受けたことから始まります。つまり、教団出身者です。本日のお話も、教団出身者のひとりとしてお聴き下されば、幸いです。
ただ、教団での教会生活は、信徒の時代の3年余りでした。やがて23歳で、牧師としての召命を受けました。その教会からは、東京神学大学へと進む流れがありました。しかし、考えるところがあり、福音派の神学校で学ぶことを志し、こうして田浦教会を転出し自動的に教団を出てしまいました。既に牧師になって、22年が過ぎました。現在は、名古屋市緑区で新たに自給開拓伝道を開始して、16年目になります。開拓5年目に教会と共に、日本キリスト改革派教会に加入し、その一つの枝としてなお開拓伝道を継続致しております。

さて、本日は8月15日、敗戦記念日です。皆さまが、この日を覚えて、集会を重ねて来られたことを伺いました。大変、素晴らしい事と、感謝致しております。
何故、日本の教会が8月15日を記念することが大切なのか、最初に結論を申し上げますが、この敗戦とそこに至るまでの事実こそ、およそ日本にあるすべてのキリストの教会にとって決定的に重要な出来事であると考えるからです。この日を迎えるに至った事実を、私どもキリストの教会、神の教会としてどのように認識し、評価するのか、これは、日本にある教会として、その教会がどのような教会であろうとするのかを明らかにする一つのしかし決定的な試金石となると考えるからです。それは、おそらく、その教会がなしている教会形成の働きそのものの「質」を、明らかにしてしまうと思います。いへ、もっとはっきりと発音してしまえば、その教会が、この日本にあって、真実にキリストの教会であろう、神の教会として形成しようと志しているのか否か、その教会根本的な姿勢、本質そのものが問われるほどの、決定的なことと思うからです。
なぜ、そのように断言するのか、それは、私ども日本にある教会は、先の15年戦争の加害者に他ならないからです。もとより、被害者としての側面がないわけでは、決してありません。ただし、歴史の事実を直視すれば、被害者の側面を強調することは到底許されないはずです。私たちの教会は、戦争遂行のために言わば積極的な主体的な役割を担った宗教団体であったからです。この根本的な歴史的事実については、もはや議論の余地はないはずです。

けれども、やはりこの日、改めて、悲しく厳しい思いを深めることになりますが、当時の状況を資料によって、わずかでも確認してまいりたいと思います。
わたしは、自分たちの教会の「教会学校教案誌」の責任を長く務めている関係もありまして、かつて、1930年代・40年代前半の日本基督教会発行の教案誌「日曜学校の友」を調べたことがあります。
実は、既に1937年には、日曜学校協会理事長は、日中戦争支持の姿勢を表明しています。日曜学校協会は、日曜学校の加盟校宛に主事名でこのように通告しました。「質素を旨とし、反戦思想ありと誤解されるごときなきよう」と。日本のキリスト教会は戦争反対論者、反戦的ではないこと、むしろ、国策にぴたりと寄り添う団体であること、あるべきことを明らかにしようとしました。
38年には、日本基督教会の教案誌である「日曜学校の友」の中で、神社参拝に理解を示すように訴えています。
1940年には、皇紀2600年記念日曜学校大会を各地で開催しました。日本にある諸教会が、日本基督教団に統合された際には、当時の教案誌は、繰り返し、天皇の赤子としての使命、つまり天皇のため、お国のために従軍することこそ、神の御心であると推奨し、これを鼓舞する説教が繰り返されます。つまり、当時の日曜学校は、子どもたちを戦地へと送り出す教育を積極的に担ったわけです。
たとえば、1940年11月3日の明治節の日の幼稚科の「おはなし」の一節に、明治天皇をたたえる文章があります。※(1)小学科になれば、さらに国策にすりよった奨励がなされています。今の時点から読み直せば、既に、キリストの教会であることを実質上失っていると理解すべきでしょう。

私ども日本キリスト改革派教会中部中会も毎年、敗戦を覚え、基本的には7月なのですが、必ず平和集会を開催致しております。昨年は、講師として、初めて未信者をお招きしました。ベストセラーになった、新書「靖国問題」で有名な東京大学の哲学教授、高橋哲哉先生です。高橋先生は、講演においてもまた、当時の日本のキリスト教会が、どれほど靖国神社を礼賛したのか、資料を挙げられました。著書には、このような当時の日本のキリスト教会の姿を、「無残と言うべきであろう」と記しています。未信者の方にご指摘されるまでもなく、まったくその通りであります。本の中で、「靖国の英霊」(日本基督教新報、1944年4月11日)という文書が紹介されています。※(1)
「キリスト教こそ、血の意味を最も深かく自覚した宗教である。日本のキリスト者こそ、誰よりも血の意味を知っているものたちである。キリストの血に清められた日本基督者が護国の英霊の血に深く心打たれるのは血の精神的意義に共通するものがあるからである。」誰が書いたのかは分かりませんが、今で言えば、誰がどう見ても、異端思想、異端信仰となるのではないでしょうか。
1938年、当時の日本基督教会大会議長の富田満は、朝鮮に赴き、まさに国家の神社参拝の手先となって、山亭�餐(サンジョンファン)教会で、神社参拝は、国家の儀式であって宗教ではないから帝国臣民として参拝しなければならないと、彼ら神社参拝に抵抗していた牧師たちに転向を迫りました。会議には、憲兵たちも同席していました。富田氏は、まさに国策の手先となって朝鮮の教会、キリスト者と牧師たちを迫害し、弾圧の急先鋒となったのです。
ちなみに、これに対し、朱基徹(チュキチョル)牧師は、このように言ったと伝えられています。「富田牧師、あなたは豊かな神学知識をもっておられる。しかし、あなたは聖書を知りません。神社参拝は明らかに第一戒を破っているのに、どうして罪にならないと言われるのですか。」朱基徹牧師は、最後まで神社参拝を拒否して、獄死させられました。この牧師こそは、まさに殉教者の名にふさわしい方と思います。
富田牧師は、1941年6月24日、日本基督教団統理となります。創立総会の宣誓文にこう記されています。「我らは基督教信徒であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一となす。」そして、41年の1月11日に、日本基督教団の発展を伊勢神宮に詣でて祈ったのです。言うまでもなく、伊勢神宮とは、天皇の先祖、天照大神を祭るまさに皇室の氏神、天皇の神社です。それは何をどう言い繕って見せても、宗教施設に他なりません。

さて、なお少し、歴史の事実に目を留めたいと思います。敗戦直後、私どもの属した日本基督教団とその指導者たちは、どうしたのでしょうか。彼らは、戦争加担の責任と罪について、神に悔い改めようとしませんでした。また、自分たちの思想教育で犠牲になった方々に謝罪することもまったくありませんでした。むしろ、会員に対して、このように呼びかけたのでした。敗戦の責任は、自分たち教会の「報国の力」が足りなかったからである。「天皇に対して」懺悔・悔い改めるべきである。
日本基督教団統理令達第14号(1945年8月28日)にこのように諸教会に通達します。「聖断一度下り畏くも詔書の渙発となる。而してわが国民の進むべき道ここに定まれり。本教団の教師及び信徒はこの際聖旨を奉戴し国体護持の一念に徹し、愈々信仰に励み、総力を将来の国力再興に傾け、以て聖慮に応え奉らざるべからず。我らは先ず事茲に到りたるは畢竟我等の匪躯の誠足らず報告の力乏しきに因りしことを深刻に反省懺悔し、今後辿るべき荊棘の道を忍苦精進以て新日本の精神的基礎建設に貢献せんことを厳かに誓うべし。特に宗教報国を任すとする我等は先に留意し信徒の教導並びに一般国民の教化に万全を期すべし」※(2)
もはや、これ以上の資料を掲げる必要もないかと思います。推して知ることができるはずです。確かに8月28日は、敗戦後2週間足らずで、まさに混乱期でした。しかし、まさにこの文書、戦前、戦中の教会と国家の関係を、そっくりそのまま残しています。貴重な資料です。
確かに、この時には、既に「神国」である「大日本帝国」は事実上崩壊しています。しかしなお、宗教の国家統制を法制化した「宗教団体法」が生きていました。政府は、なお、「日本再建宗教教化実践要綱」を示して、戦時の「宗教報国会」を「日本宗教会」と改名して、国家の破局の収拾を図ろうとしたのです。それに対して、教団指導者たちの頭の中には、政府の姿勢を批判することも、何よりも自己批判する必要性も微塵も認めていないように思います。敗戦の現実に至ってなお、生ける神、主イエス・キリストよりも天皇や政府が上位に置かれているわけです。「天皇を中心にする神の国」の方が、「父と子と聖霊なる三位一体の神の国」より重んじられ、現実感があるわけです。
自分たちに対する神の裁きに震え慄くことが出来ない限り、このリアリティーが、欠落しているところで、教会もキリスト者も、悔い改めることはできません。したがって、再生することもできるはずがありません。

さて、やがて神国日本の支柱となることを志していたはずの教団は、連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters=GHQ)の占領政策を知ります。するとどうでしょうか、まさに急転直下、これまでのことはきれいさっぱりすべて水に流し、まるで何事もなかったかのように、その主張を一転させます。占領政策を受け入れた政府にただちに迎合して行くのです。
GHQは、自らの占領政策のために、教団を利用することを得策として、日本基督教団の戦争責任は、まさに例外的に不問としてしまいます。富田統理は、9月20日に、東久邇宮内閣に呼ばれ、GHQの政策に基づく「令旨」を受け、日本政府からも協力を求められて行きます。
こうして、戦後の伝道は、一転して、平和国家の樹立を唱えて始まります。その精神的基盤こそキリスト教なのだと臆面もなく主張します。1947年初頭、アメリカのエキュメニカル派の8教派(エイト・ミッションズ)が来日して、日本基督教団を支援する委員会を組織し、資金援助を行います。教団は、エイト・ミッションからの協力や莫大な献金への受け皿となりました。ここから明らかになる構図は、教団は、戦前だけではなく戦後もまた、まさに時の権力に迎合することによって自らの存立を担保した、あるいは、少なくともそれを志向したわけです。
やがて、空前のキリスト教ブームが起こります。それは、マッカーサー元帥じしんが、熱心なメソジスト・キリスト者であったことも背景にあると思います。戦後すぐに、日本基督教団との対話再開のために来日した4人の教会指導者たちに、「できるだけ早く1000人の宣教師を派遣して欲しい」と依頼したと言われています。また、「日本は精神の空白地帯となっています。もし、それをキリスト教で満たさなければ、共産主義が埋めるでしょう。」と言ったとも言われています。こうして、1950年までに、2000人ものアメリカ人がキリスト教の宣教の働きのために来日しました。彼の考えは、日本をアメリカの価値観の中に取り込み、反共産主義の防波堤にしようとするものであったと思います。
また、天皇家も、積極的にキリスト教とかかわり、皇太子の家庭教師は、クエーカーのエリザベス・グレイ・バイニング夫人になり、1年契約の予定を越えて、4年間働いています。余談ですが、今の皇后の美智子さんは、カトリックの家庭で育てられたわけで、彼女との結婚もまた、少年のときのキリスト教の感化があったのかもしれません。皇室は、キリスト教に親近感を抱いて行きます。少なくともそのような雰囲気をあらわしたのです。当時、天皇のキリスト教改宗説が巷に流れるほどであったと言われています。まさに、日本中で聖書が読まれ、多くの国民が教会へ足を運びました。しかし、1955年頃から高度経済成長が始まると、急速にしぼんで行きます。その理由について、議論する暇はありませんが、とても大切な主題です。
いずれにしろ、日本人が聖書に向かう絶好の機会が訪れましたが、日本人そのものの課題もあり、なによりも、時代状況を利用して、自ら、神の御前に悔い改めないままの教会の伝道が、祝福されるはずもないのではないかと思います。大変、厳しい言い方ですが、生ける神の前に、当然と言えば当然の帰結と言わざるを得ないと思います。何よりも、それは、日本の教会の戦争責任の罪が、戦後の日本人にも災いをもたらせてしまったのではないか、わたしはそう考えます。教会が真実に神を畏れることなしに、人々を真実に神に連れて行くこともできないのではないかということです。その後、日本の諸教会は、伝道においても教会形成においても隘路に陥って、いよいよ閉塞感に喘ぎ、将来の展望を開けないままでいます。