過去の投稿2010年8月16日

日本キリスト教団 愛知西地区 8・15集会 講演原稿・資料

昨日の主の日は、「敗戦記念日」と重なりました。
教会では、毎月一度、主日午後に「読書会」を行います。名古屋岩の上教会の教会形成にとって、決定的な重要な意味を持つ集会です。開拓伝道開始2年目の頃からであったか、8月の読書会は、必ず、「教会と国家、教会の戦争責任、平和など」を主題として学んでまいりました。

今回は、上記の主題で学びました。昨日は、いつもは、「子どもの教会教師会」の週でしたが、読書会に変更しました。一つは、ちょうど8月15日と重なったからです。もう一つは、夜から、日本キリスト教団愛知西地区の平和集会の講演奉仕 http://blog.livedoor.jp/iwanoue/archives/cat_864218.html
があったからです。

読書会には、20名ほどが集まり、もっとも感謝したことは、高校生の仲間が初めて加わってくれたことです。しかし、学んだ内容は、あまりにも厳しく、重いものでした。

受洗後、なお若い会員が問われました。
「昔のような厳しい状況になったら、どうしよう・・・。自分は、抵抗できそうにない・・・」
「今、自分の目の前にすでに戦いがあるはず。神のみを神とする、この戦いを生活の中で、重ねてゆくこと。 もし、その時になって、対応しようとするなら、抵抗できるはずはない。今、すでに着々と、そのような方向へと進んでいる現実を見抜き、それと戦うこと。私たちの教会は、このような学びのときを重ねてきた。これからも重ねて行く。こうして積み重ね、掘り下げてゆくこと、これが大切・・・」

わたしが教会の戦争責任について、初めて知ったのは、21歳のときだったと思います。親友の属していた札幌北光教会の平和(教会の戦争責任)についての学びの資料を、送ってくれたことからだったように記憶します。本当に、驚かされました。当時、わたしも日本キリスト教団の会員でしたが、そこでは、一度も学ばなかったと記憶します。

1時20分~3時40分まで、予定を大幅に超過しつつも、どなたも最後まで残られました。そして、質疑応答の後、最後にいつものように全員で、感想を分かち合いました。(そのせいで、40分超過!)けれども、本当によい学びができました。ここに、日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所の実力の一端がうかがえると、自負しています・・・。そして、もっと時間があれば、深く、広い学びができたと思います。

夜、日本キリスト教団名古屋北教会で、講演しました。用意した原稿どおりをほぼ語りました。質疑も受けました。その後、一階で、残った牧師方と懇談しました。もっと時間があれば、掘り下げてお話ができたかもしれません。しかし、よき交わりも与えられました。同時に、「日本キリスト教団」を深く、徹底して神学しなければならないとあらためて痛感、これまでよりはるかに強く思わされました。

来週は、中部中会学生会の奉仕があり、今年も信州夏期宣教講座に行けません。この集会のだいご味は、「討論」があることです。講演も、聞き流されては、力がありません。自分にとって、受け入れられる事柄だけ、理解できることだけを頭にしまっていては、「変化・改革」がありません。新しくされません。私ども日本の教会は、おそらく「日本」(政府・国民)よりはるかに、戦争責任を「あいまい」にして過ごしてきました。真実に責任を担うことも、悔い改めることもせず、「風化」に任せようとしたのではないかと思うのです。

この「あいまいさ」こそ、実は、もっとも信仰の対極に位置するあり方ではないでしょうか。「教会(教派)とは何か」これを、あいまいにして、神の教会の形成に奉仕することはできるでしょうか。教会の戦争責任を考えることは、社会科学の知識や認識を深めることへと、私どもを促すことは、まったく否定しません。その通りです。しかし、それよりはるかに、大切なことは、「神のみを神とする」という信仰の基本の問題を掘り下げることです。そうであれば、それは、昔の問題ではなく、現在のキリスト者と教会のあり方そのものを、正すことに直結します。

「あの」、「日本基督教団」が、今なお、日本の中に存続している現実を、アジアの人たちからの視点でとらえなおすことも、大切かと思います。そして、それでもなお、そこに、「どうしても『日本基督教団』でなければなければならない」という、その意義と価値を「確信!!」する教団人、牧師、神学者が起こされること、それを祈り、願います。

・・・・、講演記録をアップしました。講演(他教会)を開いてくだされば、幸いです。http://blog.livedoor.jp/iwanoue/archives/cat_864218.html

神に対する悔い改め」、これこそ、私どもが日々、深めてゆくべきものです。
まずは、「何を悔い改めるのか」、神が私ども日本の教会に真の悔い改めを与えてくださること
共に、心から祈り続けてまいりたいと思います。
過去を「あげつらう」ことは、何の意味もありません。
しかし、過去(事実)を見つめ、人間的な弁明をやめ、ひたすらに、悔い改めるないなら、
神の真実なる裁きを味わい続けるでしょう。
神は神の教会を御自ら「守り!」そして、聖書にしるされた通り、神の国の地上における最大のあらわれとして用いてくださいます。
人間(牧師・信徒)が教会を守ることは、できません。神の教会は、神が守りたもうのです。この基本を常に明瞭にすることができますように。
Coram Deo!(神の御顔の前に生きる、この幸いに生き抜きましょう!)


最後に、
このような出会いを与えて下さいました、関係各位に心から御礼申し上げます。
質疑応答で、「大変なことなる!?」ことを覚悟して出かけましただけに、豊かな出会いに恵まれましたことを重ねて感謝いたします。
実際は、各個教会が、それぞれ、聖書の信仰、福音の信仰に立脚し、困難な課題と戦っています。
そのひとつひとつの教会が、聖霊に満たされ、導かれますように。

最後の最後に、
CBCラジオ「キリストへの時間」における、よき協力関係のように、これからも伝道協力の交わりが深められますように・・・。

Soli Deo Gloria!