過去の投稿2010年9月21日

9月5日

★ 今年も牧師休暇を通して、特別な主の訓練を受けることができます。特に伝道所委員は、この機会を特別な期間として捉えております。とりわけ本日奨励を担って下さった○○委員は、固有のつとめを果たしながら、御言葉の深い説き明かしに取り組んでくださいました。この奉仕を通して、日頃の牧師の御言葉を取り次ぐ奉仕の重要性、尊さを実感され、牧師の一番の理解者、長老として整えられて行かれるのであろうと思います。 また他の委員は、日頃の牧師夫妻のあまり表には見えない奉仕、また牧会的配慮を少しずつ担う必要があります。その見えない業が、教会を支え、愛の交わりを築くのにどんなに大切なことなのか実感し、又その愛の業ができるような器に委員一人一人が整えられるよう祈り願います。どうぞ牧師休暇中、教会員の皆様のお祈りとご奉仕のお支えをよろしくお願いします。(文責 ○○)

 
 
 ★ 「教会学校教案誌」第38号コラムより
「僕たち私たち」 ―説教者の立ち位置―
教師として、子どもの礼拝説教の奉仕は、楽しいですが、相当の重荷でもあるでしょう。どのような説教を整えるのか・・・、そのとき、説教者の「立ち位置」を考えてみることは、とても大切です。
最初に、基本をおさえておきましょう。説教において語るのは、父と子と聖霊において一つにいましたもう神です。神ご自身がそこでお語りになられるのです。神を主語にして、その権威をもって、福音の事実を宣言するのが、説教の本質です。
しかし、実際にそこで語っているのは、言うまでもなく説教者じしんです。説教者は神に代わって、記された神の言葉(=聖書)を解き明かし、目の前にいる神の民に適用して語るのです。その意味で、説教者とは神の代弁者と表現することができます。同時に、民の代表者でもあります。彼じしんもまた神の民の一員ですから、彼らの真ん中に立って語るのです。したがって「わたしは~」と、「一人称単数」では語らず、「私たちは~」「私どもは~」一人称複数で語るのです。
わたしは、子どもたちの礼拝説教において、しばしば、「僕たち私たち」と語ります。それは、子どもたちを契約の民、共に生きる信仰の仲間(幼き兄妹)として見るからです。彼らと共に、そこに信仰の共同体、礼拝共同体を建て上げること目指しているからです。
ちなみに、学校の先生であれば、子どもたちに自分の豊富な知識を上から語ることがその基本姿勢となるのだろうと思います。しかし、わたしたちの基本姿勢はそうであってはならないはずです。もし、私たちが日曜「学校」のイメージに流されるなら、説教が、ひいては礼拝式そのものが、聖書からそれる危険性があります。もちろん、わたしたちも教師ですから、信仰を教え、諭す責任があり、その点では、いかなる先生よりも、権威を帯びた存在と言ってもよいでしょう。
「僕たち私たち」という「特異」な表現は、日本語になりえていないでしょう・・・。しかし、説教が、子どもの教会、契約の子の「礼拝共同体」に奉仕するものでありたいとの願いが込められているのです・・・。   Soli Deo Gloria !