過去の投稿2010年9月21日

9月12日

☆  本日は牧師夏季休暇に伴い、昨年に続き2回目の礼拝式の司式を担わせて頂きました。小さく拙い者であるにも関わらず、主なる神様が用いてくださり、このような恵みに与からせて頂いたことに感謝致します。司式を担うにあたって、招詞の聖書箇所やニカヤ信条・十戒・主の祈りを声に出して唱え備えました。普段からするべきことであるとは思いますが、出来ていない自分を恥じつつ、そのようにして礼拝式に備えることができ、祝福された一週間となりました。後藤先生の奨励奉仕にも心より感謝致します(○委員)

★   敬愛する後藤先生にご奉仕を賜りますこと、実に光栄です。若きとき、人生の空しさ、生きる意味を問い続けた先生が、主イエス・キリストにお会いし、福音を知ったこと。そこから、先生のご生涯、人格は、ただ「主の僕」としてのそれであったかと思います。目の前の一歩一歩を、御言葉を道しるべとし、祈り求めながら、主の導きを熟考しつつ信じつつ、応答なさったのです。やがて、はるかインドネシアまで、現地の神学校へと出発(たびだた)れました。しかも、そこでの奉仕を成し遂げられてもなお、終わりません。現在は、神戸の神学校でも奉仕をなさっておられます。今、日本キリスト改革派教会、また神学校に求められているのは、まさに後藤公子先生のような伝道者です。しかし、先生が「女性」であることによって、「教師・牧師」としての任職がかないませんでした・・・。私どもへの問いは、重く、深いのではないでしょうか。

☆  「教会学校教案誌」第39号巻頭言より  「神の人間教育とことば、そして祈り」神は、天と地と、目に見えるものと見えないもの、それら一切を御言葉によって創造されました。創世記は「『光あれ。』こうして、光があった。」(1章3節)から始まり、「神が言われた。そうなった。」と繰り返されて行きます。読者は、神の言葉が発せられたら、そのまま出来事となるといういのちの言葉の力を印象付けられて行きます。

そもそも聖書全巻が、主の言葉の威力を証しています。旧新約聖書の全歴史とは、つまるところ、神の言葉の成就の歴史に他なりません。こうして実に、信仰とは、神とその御言葉に信頼すること、それ以上でもそれ以下でもないことが明らかにされてまいります。

さてところが、人間だけは、「人間よ、あれ」と、言わば一回の御声で造られたのではありませんでした。 人間は、地のちりで造られました。しかし、その後に、神の命がその鼻に吹き入れられて、「生きものとなった」と創世記第2章は告げています。言わば、他の被造物より時間がかけられている、手塩にかけて創造されたという意味なのでしょう。人間が人間になるには、時間が必要だということでしょう。

いったい人間の赤ちゃんほど、育ちに時間がかかる動物はいるでしょうか。牛や馬は、生まれて1時間の内に、自分の足で立ち上がり、歩き始めます。それは、肉体上の成長の時間の問題ではなく、人間の人格の問題として、考えて見ましょう。

いったい、赤ちゃんが喋りはじめるには、どれほどの時間が必要でしょうか。そこに大切な真理が秘められています。つまり、人間が人格として成長ためには、つまり、人間の教育には、多くの時間が不可欠だという事です。人格教育には、促成栽培は不可能だということです。

したがって、神が人間を、ご自身の御言葉の理解者、対話の相手として造られたということは、ゆっくり育てる必要があったのです。

どんな人でも、否定できない事実があります。言葉をしゃべれる人は、必ず、誰かに愛されたお陰だということです。赤ちゃんは、抱っこされ、目を見つめられ、語りかけられることなしには、母語、言語を語ることはできないのです。

そうであれば、神は、あのアダムとエバをご自身の胸に抱いて、目を見つめて、語り続けられたということを意味しているのではないでしょうか。この愛によってこそ、人間は「生きるもの」と、人間(人格)となりえたのです。聖書の神は、物言わぬ神ではありません。私どもに向かって、愛をもって優しく語り続けて下さる生ける神なのです。

そうであれば、そもそも人間にとって言葉を学ぶということは、言葉そのものでいらっしゃる神とその御言葉を理解することこそ優先されて当然だと思います。こうして人間は、神に語りかける存在としても育てられるのです。そこに、人間の人間たるゆえんがあるのです。

弊誌は、信仰教育の目的を、「自分の言葉で祈ることが出来る子に育てる。」と主張してまいりました。つまり、人間にとって祈ることは、当たり前のこと、必須のことなのです。

「神の人間教育」に奉仕すべく召された皆様の上に、聖霊の豊かな注ぎを祈ります。  Soli Deo Gloria !