「神を畏れる者に、恐れなし」
2010年9月26日
テキスト マタイによる福音書 第10章26-31節
「 人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
ある聖書の学者が、こう言いました。旧新約聖書全体を通して、神が最も多く呼びかけられた禁止の言葉、禁止の命令は、数え方にもよるのかとも思いますが、「恐れてはならない」だそうです。今朝の聖書朗読で、三回聴いた言葉であります。それなら、一体何故、私どもの主なる神は、これほどまでに、「恐れるな」とお命じになられるのでしょうか。答えは、明らかです。それは、私どもが、常に、恐れに囚われてしまう、とらわれやすいからです。
もしも、自分は、今それほど恐れるものはない、恐れを覚えていないと感じている方も、もし、恐れを不安と言い換えると、ぐっと身近に、自分のこととして受け止められるでしょう。心配と言い換えても良いでしょう。不安と心配、それは、恐れから来ます。将来への恐れです。これから、どうなるのか、その明日が分からない私どもは、常に、恐れのただ中に生きている、そう言いきっても言い過ぎではありません。それは、キリスト者であっても未信者であっても、この恐れ、この不安からまったく逃れている人はいないはずです。
さて、私どもは先週、主イエス・キリストを信じ、従う者、伝道する者とは、狼の群れの中に派遣されることなのだと学びました。愛する弟子たちが、やがて、地方法院や会堂、つまりユダヤ社会の権力者から迫害され、そればかりか、総督や王、つまり、ローマ帝国の権力者たちから迫害され、さらには、実に、家族の中からも反対者が起こって、迫害が起こることを予告されました。
しかしそこで、私どもがまったく戦いに無力の羊であっても決して負けることがないと学びました。それは、十字架で私どもの犠牲となってほふられた子羊、そして復活された子羊が共に闘って下さるから、共に歩んで下さるからです。また、まことの羊飼いでいらっしゃる主イエス・キリスト御自身が私どもを守って下さるから、私どもは負けることはないのだと学んだのです。そのようにして、主イエスが切々と、か弱い羊たちの将来を案じて、励まし続けて下さる愛の御言葉に心を打たれたのです。
さて、今朝の御言葉は、その続きです。キリスト者になったからこそ迫害を受けるのであれば、もしかすると、これまで以上に恐れに取り囲まれる、恐れ縛りつけられてしまうことになるのではないか。そんな、まさに不安、心配、恐れを感じてしまう弟子たちも出たかもしれません。何よりも、この福音書を読んでいるマタイの教会、マタイの共同体にとって、今まさに、それを経験し始めているのです。恐れに縛られる、恐れに取りつかれる、そのような危機にひんしていたかもしれません。
だからこそ、主イエスは、ここでもう一度、今朝の説教を語られるのです。その第一声は、「恐れるな!」です。誰を恐れるなというのかと言えば、人々です。先週は、狼、狼の群れと表現されました。自分より、強い力を持つのです。しかし、そのような人々を恐れるな、と主イエスはここでは、お命じになられるのです。
さて、主イエスは、ここで「恐れるな!」と、三回、お命じになられます。同時に、恐れる必要がない理由を三つ数えて下さいます。ですから、今朝は、この三つの理由を学びたいのです。
さてしかし、御言葉そのものを聴く前に、なおしばらく、我々の状況を振り返ってみたいと思います。ここまでのお話しの中で、もしかすると、この恐れ、心配というのは、迫害にさらされるキリスト者に特有のもの、キリスト者だからこそ、そうでない人々より、こんなつらい目に遭うのではないかと誤解なさる方がいらっしゃるかもしれません。しかし、最初に申しあげました。それは、まさに誤解です。
いったい、主イエスを知らない方々は、恐れに囚われていないのでしょうか。まったく違います。伝道説教や主題説教であれば、それを掘り下げて語ることが大切ですが、今朝は、さらっと触れるにとどめるだけで、十分だと思います。
まず、迫害する人々のことを考えて見ましょう。彼らは、恐れを感じないで生活しているのでしょうか。まったく、違います。恐れに縛られているからこそ、反対に、攻撃として迫害となって現れるのです。キリスト者の存在が、彼らの恐怖となるからです。それは、自分たちの地位、立場がキリスト者の信仰の真理によって、崩されることその危険性を察知しているからです。それこそ、まさに彼らの恐れなのです。
あるいは、さまざまな宗教のことを考えてもよいと思います。たとえば、日本の神道です。神道は、そもそも、いわゆる自然界のさまざまな吉凶、災いをどのように鎮めることができるのか、どうしたら、災いからわが身を守れるのか、そこから出発しています。神々を正しく御祭りしないと、人間に災いをもたらすからです。天変地異、地震、かみなり、そのような古代の人々にとって、自然は美しくめでるものであるより、恐怖の対象でした。そこで、どうしたら、この自然の脅威、猛威から自分たちの村、共同体を守ることができるのか、それが、そもそもの始まりです。
その意味では、日本人に今なお大きな影響を与えているのは、宗教ではありませんが、占いがあります。それは、まさに、明日への不安から必要とされたのです。
もしかすると、我々は、政治的な権力、経済的な力、はては暴力によって、人を動すことができる人々なら、生活の不安などなく、やりたい放題で、安心した暮らしを営んでいる、そんなふうに思う人もいるかもしれません。それは、すべて誤解です。幻影です。
先週の信徒研修会で、岩崎先生が、余談として、やくざはなぜ、暴力を使うのかと、元やくざから教えてもらったことがあると語られました。それは、黙らせるためだというのです。そうだと思います。しかし、そのやくざじしんもまた、さまざまな恐怖にしばられているわけです。そこから逃げるために、暴力をふるうわけです。彼ら自身も受けている暴力の恐怖のストレスは、麻薬やなにかに向かって行くのではないでしょうか。
申しあげたいことは、すべての人間が、例外なく、生きる、生きて行く恐れを覚えながら、暮らしているとう当たり前の事実についてです。その現実を見ないことによって、あるいは、先送りすることによって、恐怖から逃れながら暮らしている人々が圧倒的に多いのです。
さて、それなら、キリスト者は、私どもに固有の恐れとどう取り組むのでしょうか。まさか、私どもは、この現実を見て見ぬふりをする、あるいは、主と御言葉に従わないことによって、この迫害と戦いから逃れるのでしょうか。そうであれば、それは、未信者の人々と変わらない、この世の恐れに縛られる世界に戻るだけです。何の解決にも救いにもなりません。
いよいよ、主イエスから、恐れる必要がない、その三つの理由を聴きましょう。第一は、これです。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。」
この御言葉はいささか理解しにくいかもしれません。主イエスは、ここで、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」と仰います。つまり、神が語られた御言葉は、その人の内に押しとどめることはできないからだということです。聖書の学者によれば、この言葉は、当時の「諺」であるのだそうです。ルカによる福音書においても、この諺が主イエスの説教の中で、取り上げられています。しかし、そこでは、人間の内面の思いすら、神には知られている。隠せない。そして、そればかりか周りの人たちにも知られて行くという意味に用いられています。この真実は、教会でも社会でも、おそらく共通のことなのかと思います。
さてしかしです。マタイによる福音書において主イエスがここでこの諺を用いられたのは、実は、そのような意味ではないのです。主イエスは、ここで御自身が暗闇で語られたこと、それをどんどん、言いなさい。なぜなら、その御言葉は、隠せないものだからだと言うのです。主イエスが、弟子たちにこっそり耳打ちした御言葉は、屋根の上で言い広めなければならないと仰るのです。なぜなら、御言葉そのものにそのような力が備わっているからだと仰るのです。つまり、主イエスは、ここで神の言葉の力を証していらっしゃるのです。
今朝、やはり、わたし自身のことを語らせていただきます。わたしが伝道者としての召しを受けた御言葉、召命の御言葉は、決定的には、ヨハネによる福音書第21章の「わたしの羊を養いなさい」「わたしの小羊を飼いなさい」と三度、ペトロに語られた御言葉でした。しかし、実は、もう一つ、自分の中で召命を客観的に確信させられた御言葉があります。それは、エレミヤ書第20章9節でした。「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」
わたしは、大学4年生のとき、心の内に牧師への召命を、考え始めていたのです。しかし、牧師にはなりたくないと、思ったのでした。しかし、結局、神の言葉を語りたくなる自分、黙っていられない自分に気づいていました。そして、この御言葉に出会ったのです。「主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」
人が、神の言葉を聴いたなら、その言葉は、その力によって、その人の外へと向かうのです。向かってしまうのです。それほどの力を持つのです。エレミヤは、自分では、語りたくないと正直に言います。しかし、彼の心は、主の言葉に捕えられてしまっているのです。
キリスト教の歴史、それは、先週も申しましたが、殉教者たちを抜きにして語ることはできません。しかし、彼らが何故、殉教できたのかと言えば、神の言葉の力に負けたからです。主御自身がそこで彼らの弱さに勝利なさるのです。彼らは、羊です。羊のままなのです。しかし、そのような弱い彼らの中で、子羊なるイエスさまが、羊飼いなる主イエスさま御自身が、父なる神の霊、聖霊なる御神ご自身が、働かれるのです。神が御自身を彼らを通して語られる、証される、公になさるのです。そこに神秘があります。したがって、彼らは単なる英雄とは違います。英雄は、その誇り、光栄、賞賛をその人に帰せられます。偉大さは、英雄自身のものです。しかし、キリスト者が伝道し、証をすることは、彼らの力というより、神の言葉の力にあるからです。そこではただ神だけが賛美され、賞賛され、その栄光は神にのみ帰せられるのです。実に、私どもは、それほどの力を、今、この耳から受けているのです。だから、恐れることはない、主イエスは、語られます。主の勝利宣言なのです。
次に、第二の理由です。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」今朝の説教の題を「神を畏れる者に恐れなし」と致しました。それは、この御言葉のメッセージの一つの要約です。キリストの弟子たちの体を殺すのは、ユダヤの権力でありローマ帝国の権力です。権力者たちは、確かに、キリスト者の体、肉体の生命を殺すことができ、実行しました。
私どもの教会は、今年度前半、「いのち」をめぐって、聖書から学ぶときを集中して持ちました。一つは、祈祷会で、日本キリスト改革派教会創立0周年記念宣言の「終末の希望について」の死の問題について学びました。もう一つは、これは伝道の集会として、柏木先生をお招きして「いのちに寄り添う」という講演を伺ったことは、記憶に新しいと思います。
そこで、わたしどもは、三つのギリシャ語を学びました。新約聖書が、いのちを表現するため、三つの言葉が用いられているからです。一つは、ビオス、肉体の生命です。二つ目は、プシュケーで、ここで主が語られた「魂」がそれにあたります。三番目が、ゾーエーでした。永遠のいのち。神との交わり、神の命につながって生きるいのち、まことのいのちのことです。そして、この永遠のいのち、神の命が宿る場所こそは、魂です。
確かに、権力者は、肉体の生命、ビオスを奪うことができます。このビオスは、肉体、ギリシャ語ではソーマですが、この肉体にやどるビオスを殺しても、魂は殺せない事は明らかです。魂は、神があたえてくださるご自身のいのち、まことのいのち、永遠のいのちを宿しているからです。
横道にそれますが、自死者、自ら命を絶った方々も、確かに肉体の生命を絶つことはできますが、神との交わり、そのいのちを自ら絶つことはできません。ここにこそ、自死者への希望があると、わたしは確信します。それを、完全に奪う、殺すことができるのは、神のみなのです。わたしどもの父なる御神だけがそれをなさるのです。
ここで主は地獄に言及されます。少し前に、ひとりの仲間から、「先生本当に、地獄はあるのでしょうか」と質問を受けました。これは、わたしどもの教会の教え、信仰告白に明確にされていることですから、即座に、「あります」とお答えして、御話を深めました。
ただし、ここで地獄が語られているのは、キリスト者を励ますためであることを、私どもは深く弁えておきたいと思います。おかしなキリスト教的団体が、地獄の恐ろしさについて、スピーカーから大きな音量で流すことがあります。彼らは、それを伝道と言います。それは、あまりにもいびつなやり方です。福音の喜びではなく、恐怖をあおるようにして、人々を主イエスに導こうとすることは、新約聖書からはおよそ出てこない伝道とその方法と言わざるを得ません。
しかし、だからと言って、地獄のことを、キリスト者が無視したり、正しく弁えないまますましてよいはずがありません。主イエスは、ここで未信者を威嚇しておられるのではありません。未信者に、地獄でわたしに滅ぼされたくなかったら、信じなさいと呼びかけているのでは決してありません。主イエスの弟子たちにこそ、神を畏れること、神を畏れかしこむこと、恐れおののくことを命じられたのです。
何故でしょうか。それは明らかなことです。私どもを、ありとあらゆるこの世の恐れから解放するためです。私どもを恐れ、不安、心配から自由にするためです。この神のみを畏れるとき、私どもはこの世のいかなる力、ものをも恐れることから救いだされるのです。地獄で魂を滅ぼすお方を畏れるとき、この神に勝ちうるものは、地上に存在しません。だから、私どもは、平和の中で、リラックスしながら生きるように解放されるのです。
そもそも人間は、恐れがあれば、健康に生きれません。リラックスできなければ、自由になれません。その人本来の持ち味、能力も出せません。居心地が悪い場所、恐れで縮こまってしまう所では、その人も、その共同体も不健康になります。
神が共にいて下さるとき、それを確信することができるとき、私どもはこの地上の恐れから救いだされるのです。神のみが、人間のまことのいのちが宿る魂を滅ぼすことができるのです。逆から言えば、神のみが人間にまことのいのち、永遠のいのちを与え、魂を救うことができるのです。そして、事実私どもは、主イエスの十字架の身代わりの死、贖いの死によって、罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、魂が救われたのです。この救われた魂を、いかなる迫害、拷問によっても、死によっても、わたしどもから奪い取る権威、権力、権能を持つ者は、誰もいないのです。
反対に、この神を畏れない人は、結局、最初に申しましたように、恐れの中に縛られます。彼らの究極の恐れは、死に他なりません。死の恐怖にこそ、縛られているのです。その事実に、自らふたをして、見ないことにしてやり過ごす人が多いのです。
余談になりますが、ギリシャ語の恐れるという言葉は、フォベオマイです。神を畏れるのも、権力者たちを恐れるのも同じ文字が用いられています。これは、日本語、漢字の方が正確に事柄を表現し得ていると思います。神を恐れるとは、畏れかしこむということです。畏怖ということです。畏れて敬うということです。敬うことのない、愛が伴わない畏れではありません。聖書は、まことの愛は、恐れを克服すると言います。ですから、神を怖がっている人は、まだまことの神を知らないとすら言えるのです。
余談の余談かもしれません。私どもは礼拝堂で、一度も膝まづきません。起立することはありますが、多くは座っています。しかし、たとえば、イスラームの礼拝をテレビなどで見ると、彼らの礼拝は、膝まづくどころではなく、突っ伏しています。最近のローマ教会の礼拝も、かつては、膝まづくことがあったのですが、最近は、膝まづく台がない礼拝堂が増えていると伺います。私どもは、礼拝における体の姿勢を、あまり気にしません。しかし、神を畏れかしこむ心の姿勢なくして、真実の礼拝の姿とは言い難いでしょう。
さて、最後の三番目の理由です。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
主イエスはここでは徹底して、私どもを慰めることに集中して下さいます。そこには、威嚇の響きがありません。ここでは、キリストの弟子たち、キリスト者たちが、父なる神にどのように見つめられているのか、その真実が示されます。
「二羽の雀が一アサリオンで売られている」とあります。アサリオンとは、ローマ帝国における最小単位の通貨です。労働者の一日の日当は、1デナリオンだと言われています。アサリオンは、その16分の一なのだそうです。8000円の16分の一は、50円です。市場では、雀が売られていました。当時、雀が貧しい人々の貴重なタンパク源とされたのかもしれません。しかもそれは、二羽セットで50円です。50円玉が最小銅貨でしたから、二羽はセットです。つまり、本当に、安い食材だということです。そんな雀の命でさへも、父なる神は、顧みておられるのだと主イエスは教えて下さいました。そのいのち、その死も、神の許しの中にある、つまりご支配の中にあると、主イエスは、私どもを説得してくださいます。
そして、ただちに、宣言されます。たった一本の髪の毛すら、父なる神のご支配の中にあるということです。お守りの中にあるということです。髪の毛は、体のなかで、大切です。しかし、日に数十本落ちて行くそうです。私どもは何本落ちて、何本生えて、今、何万本あるのか、誰も知りません。自分のことですが、いちいちチェックしていませんし、分かりません。しかし、神は、それを御存じでいらっしゃると主イエスは宣言なさいます。
詳しく語る時間がもはやありません。子どもカテキズムの問い13は、神の摂理を扱います。そこで、こう告白します。「神さまのお許しがなければ、髪の毛一本も落ちることが出来ないほどに、神さまはわたしたちの父として、わたしたちを守ってくださいます。」
何よりも、ここでは、主イエス御自身が、私どもに、私どものいのちがどれほど高価で尊いものであるのか、まさに神ごじしんの宝物であるか、ということが言いあらわされているのです。
主イエスは、ここでも、はらわたを痛ませるような憐れみの心、激しい愛をもって弟子たちを慰め、励まして下さるのです。「だから、弟子たちよ、恐れるな!人間を恐れるな!ただ父なる神だけを畏れなさい。そうすれば、あなた方は、彼らに勝利し、自分じしんに勝利し、信仰の旅を、神の御心にかなってまっとうすることができる。その旅のなかで、神に従い、主の福音を証しすることができる。」
恐れるな!主イエスは、今朝、私どもにも三回命じられました。三回とは、深い意味が込められています。七とか三は、しばしば、聖書では完全数と言われます。三回言う、それは、徹底して言うということです。主イエスは、恐れる必要がない、その理由を三つ、明らかにされました。そして、そのすべてに通じることは、結局、天地創造の神、歴史を支配し、生きとし生ける者の主なる神が、私どもの御父でいたもうこと、そして、その父は、御子イエス・キリストのいのちをかけて、私どものいのちを贖い、私どもを救い、私どもを神の子として下さったこと、そのように神の愛は、完璧であること。神の愛は、完全であること。神の愛は、勝利することです。
祈祷
あなたの御子主イエス・キリスト御自身を私どもにお与え下さり、私どもの魂を御救い下さいました、私どもの天のお父さま。愚かにも、起こり来るさまざまな事に、恐れを抱き、それだけ、愛に生きることができず、不信仰によって御心を軽んじ、使命に生きることができない私どもを憐れんで下さい。どうぞ、恐れるなとの主の約束を伴うご命令を魂の深みで聴きとらせ、平和の内に私どもの地上の旅を進み行かせて下さい。そのようにして、これを知らない多くの人々に、よき証をなすことができるように、私どもを用いて下さい。アメン。