過去の投稿2010年10月1日

基本は、「一本釣り」

先日、中部中会教師会の折、ひとりの教師から「一本釣り」という言葉を伺いました。
それは、牧師として、ひとりの求道者を主イエスへとお導きすることです。
個人伝道の意味です。
この表現。実は、日本キリスト改革派教会では、ほとんど聞きません。
しかし、わたしはむしろ、このようなところに、牧師の課題、あるいは牧師養成教育の課題があらわにされているように、かなり昔から、考えていました。しかし、わたしが言ってもどうだろうと・・・、「遠慮」がありました。
私どもの教会では、昨年から今年、「個人伝道」について教会員と、ほとんど初めてになりますが、実践的な学びをいたしました。
しかし、もしかすると、牧師じしんも、この実践的な学びが必要なのかもしれません。
少なくとも、神学校での初歩的訓練の中で、必須のことと思います。
「改革派中部」という中部中会の機関紙の巻頭への寄稿として、下記、したためました。
牧師が一本釣りをするというとき、間違ってならないことは、そこに、「教会に生きる牧師」「教会職務制度の中で機能する牧師」ということをわきまえることです。説教の課題と切り離された個人伝道、一本釣りは、少なくとも日本キリスト改革派教会の教師たちの理解ではないでしょう。また、そのような奉仕がなしえる教会の(霊的な)実力が必要です。その意味で、牧師ひとりのパフォーマンスに依拠する教会は、未成熟です。
しかし、それをわきまえながらも、「一本釣り」から逃げたり、あきらめたりするなら、教会の明日を切り拓くなどということは、絵に描いた餅になると思います。
今日も、明日も、主よ、一人の魂の救いのために、わたしを用いてくださいと、素朴ではありますが、召命の基本に立ち続けて励んでまいりたいと思います。

巻頭言
「伝道力の回復・教会の言葉に生きよう」
何と言っても、昨年の50周年記念信徒大会の目玉は、各個教会・伝道所の兄妹が、壇上で神とお互いの前に告白した「教会の言葉」であったのではないかと思い返しています。
「記念宣言」は、「中会の各個教会伝道所は、  教勢の停滞と伝道の困窮のただ中にあります。」と現状認識を示し、「伝道力の回復に努めます。」と告白しました。そのために、恵みの手段である説教と聖礼典に集中した告白が展開されて行きます。
「説教と聖礼典」によって立つ宣言の教会像は、教会形成の基本中の基本です。しかし、この二つは、もう一つの恵みの手段である「祈り」、しかも、熱心で不断の祈りなしには、豊かな実を結べないことを忘れることはできません。加えて、この二つがまさに「伝道力」となるためにもまた祈りが、とりわけ「祈祷会」の祝福が必須と思います。
そして何よりも(!)、伝道者ひとり一人が、他の何をさしおいても、「一人の魂を神に捧げるために召されている」という召命の根本事に立ち続け、深めることこそ伝道力回復の根幹となるはずです。
伝道の意欲みなぎる「教会の言葉」に、今日も果敢に取り組んでいらっしゃるそれぞれのお姿に思いを馳せ、共に伝道に励みたいと思います。
名古屋岩の上伝道所 宣教教師 相馬伸郎