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「人間を人間にする信仰」

「人間を人間にする信仰」
2010年10月3日
テキスト マタイによる福音書 第10章32-33節 
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

キリスト教信仰の素晴らしさとは、何でしょうか。数えれば、ほとんど切りがないと思います。ただ、今朝与えられた御言葉から、わたしが深く確信させられることを、ひと言で申しますとこうなります。「聖書は、人間を人間にする」、「真の神は、人間をまことの人間にする。」

それなら、「まことの人間」とは何でしょうか。わたしは、それを、人格を持つ、理性を持つ、良心を持つ人間のことだと表現したいと思います。それなら、そもそも「人格」とは、何でしょうか。今朝は、このように申しあげておけば十分かと思います。それは、自分で物事を考え、決断し、行動することができる存在であるということです。

これは慎重に言わなければなりませんが、たとえば、多重人格障害という病気があります。最近は、解離性同一性障害と言われます。自分という人格、自我が、一つに統合されないと言う状態です。一人の人間の中に、二つ以上の人格状態が出てくると、私どもは、その人そのものと出会うことがとても難しくなるだろうと思います。
人格を持つ人間ということは、いついかなる時も、また、誰に対しても、自分を裏切らずに応対する、自分の中に一本貫かれているものを持つように成長すると思います。その成長にともなって自分自身、いわゆる自我というものを確立し、自己同一性を造り上げて行くものだと思います。人格は、確立されればされるほど、自分の考え、心の底で思っていることを、まったく打ち消して他人の言う通りに動かせられることを、まさに苦痛と感じるはずです。その苦痛を感じる場所を、良心と呼びます。良心が麻痺すると、そのとき、人間は、人格を与えられていながら、その人格は破たんをきたしてしまいします。

そして、キリスト教信仰とは、まさに、そのような人間を、救いによって、あるべき人格として建て上げる道、唯一の道なのです。もう一度繰り返しますが、それは、救いによってもたらされるものです。これが鍵です。ただ教育の力によるのではなく、罪の赦しという救いを根拠にして、人間を人間として建て上げて行く道です。今朝の主イエスの御言葉は、まさに、人間を、一本貫かれた人間に、真実の人間に育て、養い、鍛えて下さるまさに福音の力に満ちた言葉、恵みのみ言葉なのです。

少し横道にそれますが、日本の教会は、この点で、実は、失敗を重ねて来ました。教会とは、一種の精神主義、精神的な修行の場のように考えた人が少なくなかったのです。つまり、説教を聴くのは、自分の人格を高める道、精神修練、精神生活を豊かにする方法だと、説教の目的をはき違えて聴いた先輩たちも少なくなかったのです。こうして、キリスト教を卒業してしまったり、教会の交わりに失望して教会を形成する会員、奉仕者にならずに離れて行く人が少なくないのです。それが、日本の、とくにプロテスタントの弱点でした。

もし、よいお話しを聞くためだけに集った人は、結局、主イエスの教えを理解することはできません。何故なら、主イエスは、御自身の御言葉に服従することを要求なさるからです。確かに、自慢話をしたり、高慢な思いで人を見下したりするのは、品性とか人格の課題でしょう。しかし、その克服の道にキリスト教を用いようとするなら、それは、違う、また、できないと思います。

さて、そのようなすばらしい力を発揮する御言葉を改めて聴きましょう。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

確かに現代に日本に生きる私どもは、主イエスのことや教会のこと、自分がキリスト者であって、日曜日は教会に通っていることを、普段の生活の中で語ることは、照れくささを覚えたり、面倒くさい思いも持つこともあるかもしれません。確かに、初対面であれば、緊張するかもしれません。しかし、むしろ、「ああ、そうですか。」と、あっさり聞き流されて行くということの方が多いかと思います。勇気を振り絞って、キリスト者だと語らなければならないということは、ほとんどないかと思います。

しかし、主イエスが宣言された今朝の御言葉は、迫害のまん中で、キリスト者はどうすべきか、それを励まし導く御言葉なのです。その場が固まるとかしらけるどころの話ではありません。まさに、命がかかっている状況です。そしてまさにそのようなとき、主イエスは、言わば大上段から、私どもの関係を、否定するのか、肯定するのかを問われているのです。

ここで主イエスが宣言なさったことは、明明白白です。誰がどのように解釈しても、間違えようがありません。主イエスとの関係を、迫害者たちの前で肯定する人は、主イエスも同じように天の父なる神の前で、肯定して下さる。逆に、否定するなら、主イエスも否定なさるということです。

さて、ここで、「仲間であると言い表す者」と訳されている御言葉は、口語訳聖書では、「受けいれる者」新改訳聖書では、「認める者」となっています。原文は、ホモロゲイン:「言いあらわす」という意味です。この言葉を分解するとこうなります。ホモ、これは、同じという意味です。ロゲイン、それは、言いあらわすという意味です。つまり、「同じことを言う」となります。この御言葉は、教会の歴史においてすぐに、極めて重要な用語として用いられてまいります。

先週から、主の日の朝の祈祷会を、求道者の学びのときともして、ニカヤ信条を学び始めました。私どもの教会の洗礼入会式でも当然、行うのは、試問会です。そこで、何を問うのでしょうか。その基本は、世々の教会の信仰の告白にあなたは同意しますかということです。これが、私どもが洗礼を授けられるとき、決定的に重要なこととして問われるのです。洗礼志願者に問われる本質的なこととは、自分の信じる思いの強さ、あるいは、自分の熱意、自分の信仰に対する思い入れの何かが問われることではないということです。むしろ、決定的なこと、本質的なこととは、歴史的な教会、世界の教会が、聖書の要約、聖書の教えとして信じ認めてきた「教え」に同意するかどうかです。私どもは、今朝も「唯一のバプテスマ(つまり洗礼)を信じ認む」と告白致しました。「信じ認む」を、「同意する」と訳すこともあります。信仰告白とは自分でつくりだすものではなく、すでにある信仰の宣言文に同意すること、受け入れること、ここに、キリスト教信仰の確実性があります。しかし、丁寧に申しますと、その同意こそ、その人の単なる知的な同意ではなく、その人の全存在をもって同意するということを意味しているわけです。まさに、いついかなるときにも、同意することが求められているわけです。

さてしかし、落ち着いて考えて見ますと、そのようなことは、2世紀や3世紀のことだったら分かります。20世紀や21世紀の教会であれば、なおさらよく分かることだと思います。何故なら、すでに2世紀の後半には、ローマの教会には、現在のニカヤ信条の原型になるような信条が生まれ初めていたからです。今や、私どもは、ウェストミンスター信仰告白のような、素晴らしい重厚な信仰規準を受け継いでいるのです。世々の教会は、教会が制定した信条に同意した人だけに、洗礼を施し、教会員に加えてまいりました。

しかし、主イエスの時代は当然ですが、使徒たちの時代にも、そのような整った信仰告白はありませんでした。初代の教会に人たちにとって、自分たちがそのような信条というものを制定するようになるなど夢にも思わなかったはずです。しかしまさにその時代に、マタイによる福音書は、主イエスのこの宣言を書き留めたのです。
「迫害者たちの面前でホモロゲインする人は、わたしも天の父なる神の面前で、御前で、ホモロゲインするのだよ。反対に、そうしない人は、わたしもまたそうしないのだ」いったい、そこで同意するということは、いかなることを意味するのでしょうか。いったい、何に、同意し、信じ、認めるというのでしょうか。

新共同訳聖書は、ホモロゲインを、かなり踏み込んで、それを、イエスさまを「仲間であると認める」と訳しました。そもそも、イエスさまは、私どもの仲間なのでしょうか。神の御子、独り子なる神でありながら、人となられた聖なるイエスさま、極みまでの愛と真実に溢れる主イエスは、罪にどろまみれになって汚れ果て、徹底的に自己中心で、愛に生きることのできない私どもの仲間でいらっしゃるのでしょうか。もし、それが、できるとしたら、それは、どうしてなのでしょうか。

そこで、ただちに明らかになることがあります。それは、この聖なる神の御子イエスさま御自身の方から進んで私どもの仲間になってくださったという決定的事実です。それは、イエスさま御自身が、わたしに向かって、私どもに向かって、「わたしはあなたの仲間だ、わたしはあなたを愛している。わたしは、そのために、あなたの罪を償い、わたしの父の前に立つことのできる神の子にした。」この主イエスのこの宣言、メッセージが背後にあるからです。イエスさまの方から、「あなたの仲間になるよ」と手を差し出して頂かなければ、こちらから触れることはできないのです。我々が勝手に、「わたしはイエスさまの仲間です」だなどと、自惚れることなど許されません。

考え違いをしてはなりません。信仰とは、私どもの主体的な判断や選択で、どうにでもできるというようなものではないのです。「今は、自分の立場や生活があるから信者になることは難しい。でも、現役を離れたら、信じようと考えている。」そんなふうに、人間が自分勝手に、自分の都合で信じたり、信じなかったりできるような、そんな人間がつくりだした偽りの、死んだ宗教ではないのです。私どもの信じる、礼拝する主、主なる神は生きておられます。だから、畏れ敬い、このお方の前に真実が問われるのです。生きていらっしゃる神だからこそ、私どもとの間に人格関係が生じるのです。

最初にこの御言葉を聴いた、12弟子たちは、まさに、自分で主イエスを選んだのではなく、主イエスに選ばれたのです。自ら進みでて、主イエスの弟子になったのではなく、主イエスが彼らに近づき進みでて、かれらを弟子になさったのです。この主イエスの愛と真実、それによって与えられる救いの恵み、この主の愛と選びにホモロゲインする、同意する、認める、そのとき、まさに、主イエスも天の父なる神の前で、私どもを認めて下さるのです。それ以外に、神さまも私どもを認めようがありません。

ここにこそ、人格的な真実があります。人格的な関係が神との間に成立するのです。たとえば、天国に入るために、言わば、切符のように目に見える何かはありません。切符なら、もしかすると電子のデータを改ざんしたり、あるいは、改札口にある機械にしかけを施して、通過できることもあるかもしれません。大きな駅であれば、何台もその機械が設置されていますが、故障中のゲートがあったりします。

しかし、天国に入るには、永遠の魂の救いを得るためには、主イエスとの関係、人格の関係が決定的になります。この主イエスと向き合うことがなければ、天国には入れません。もし、このイエスさまを無視して、天国に入ろうとすれば、不法入国でしょう。天上では、まさに不可能です。

イエスさまをわたしの、私どもの唯一の救い主として、わたしのために命を十字架にお捨て下さったほどまでに、この罪人を愛して下さった主イエスを否定するなら、拒否するなら、まさに、神であっても、いへ、ロボットやマシーンではない生ける神、人格をお持ちの真の神であられるからこそ、その人を天に入れることは、できないのです。

テモテの第二の手紙第二章で、使徒パウロは、年若い弟子のテモテにこう書き送って、彼を激励し、慰めました。「次の言葉は真実です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、/キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、/キリストと共に支配するようになる。キリストを否むなら、/キリストもわたしたちを否まれる。わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を/否むことができないからである。」

私どもは誠実、真実でなくとも、キリストは常に真実でいらっしゃるということを語る文脈で、イエスさまがキリストであることを否定すれば、キリスト御自身もまた、その人を否定するということです。これが、キリストの真実なのです。

こうして、人間は実に神の前に立つことを知るとき、主イエスを知れば知るほど、真実の人間へと、自由の人格が完成されて行く、教会の言葉で言えば聖化されて行くのです。自分が分裂せず、一つに統合され、筋が通る人格として完成されて行くのです。さらに、掘り下げる課題は、祈祷会に託します。

さて、いったい、この主イエスの御言葉を最初に聴いたマタイ自身、そして、自ら主イエスの御言葉を書き留めるマタイじしんは、どのような思いでこの福音書に書き記したのでしょうか。

つまり、マタイは当事者ですから言うまでもありませんが、彼と共に生きる信仰共同体、マタイの教会の会員たちも、すでによく知っている事実があります。それは、マタイ先生じしんも、誰より、12弟子の指導者を自負したはずのペトロも、殺されようとする主イエスの前で、主イエスをホモロゲインしなかったということです。
マタイはこう記しました。第26章です。主イエスが最高法院に引き渡されて審判されているとき、ペトロは、そっと後をついて行きます。しかし、中庭で働いていた女中にやまわりにいた人々にこう言われます。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」そのとき、ペトロは呪いの言葉さへ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。三度も、主イエスの仲間ではないと、言いあらわして、彼は、外に出て号泣したと言われています。

ところが、それにも関らず、ご復活された主イエスは、この弟子たちを知らないとは、仰せにならず、彼らの弱さ、信仰に生きるということがどのようなことかを、あらためて指導し、お教え下さいます。自分に頼らないこと。自分が徹底的に信仰の真理を悟る知恵もなく、信仰の服従に生きる力もないことを、悟らせ、認めさせて下さるのです。そして、それらは、ただ上から与えられること、聖霊の力、聖霊なる神だけが、信仰を与え、信仰に生きる力を与えることができることを、まさに身をもって弁えさせて下さったのです。

そして、その後のことは、使徒言行録に記された通り、まるで別人であるかのように、主の復活の証人、あかし人として、全世界へと、旅立ち、神の国の福音、主イエスの福音を、屋根の上で言い広めて行くのです。

私どもは今一度、主イエスが、地獄で滅ぼされるべき罪人である者が、イエスさまの十字架の贖いの故に、魂の救いを得て、永遠の命を得ているこの救いの事実を、心の底から感謝したい。それなくして、信仰の戦いは始まりようもないのです。パウロは、若いテモテに命じます。主イエス・キリストのことを思い起こしなさい。主イエスからひとときも目を離すなという意味です。それは、昔のイエスさま、地上を歩まれたイエスさまのことだけではなく、今、共に生きて下さる主イエス、今、迫害のただ中で共に戦って下さる、いへ、このお方こそが戦っていてくださることを忘れるなということです。

さて、現代を生きるべく召された私ども、しかも日本にあって教会をたてあげるためにここに呼び集められた私どもです。この御言葉を、どのように、今の私どもに当てはめるべきか、今朝はそこまで、説教者として、踏み込まなければならないと思わされています。

冒頭で、キリスト教とは、人間を人間とするまことの救いの道、教えなのだと申しました。それは、自分を偽らないということです。自分の心、良心を曲げないで生きるということです。それを、主イエスがしてくださるのです。今朝の御言葉はどの軸、柱、核になる激しくも優しい御言葉です。

主イエスを迫害者の面前で、告白するそのような大胆な人間、キリスト者たちが、歴史の中に登場したからこそ、今や、基本的人権の尊重とか人格の尊厳という考えが、世界の普遍的価値と言われるようになりました。基本的人権とは、すべての人間に生まれたときから与えられ、どんな国家も法律も、これを犯してはならないという、世界の普遍的価値観とされています。

ただし現実には、この世界の中で、まだまだ、それは達成されているとは言えません。この国もまた、つい先日も、政府の首脳が「我々は、中国とは違う民主主義国家、法治国家なのだ」と申しました。しかし、現実には、まだまだ未熟でしかありません。まだ60年足らずの歴史しかもっていないのです。

今から140年前、世界の歴史、キリスト教史の中でも、類例がないほどの大迫害、大弾圧が起こりました。それは、明治の新しい政府が行ったものです。浦上という小さな村に住むキリシタン全員、幼子も高齢者もすべて3000人以上がその村を追放され、全国各地に流され、言うも恐ろしい拷問の果てに、562名が殺されました。しかし、彼らの信仰の戦いは、無駄になってしまったわけではありません。この浦上のキリシタン迫害が、この日本に、少なくとも、先進諸国と同じように憲法によって統治しなければならない、最低限の信教の自由を確保しなければならないと言う方向へと導く、少なくない力となったとわたしは考えています。その後、いよいよ本格的に始まる私どものプロテスタントの伝道は、彼らの信仰の戦い、彼らの証によって、キリスト教は邪宗ではないこと、また禁制つまり法律違反ではないという御触れを取り下げる力になったことによって、進められたことも記憶しておかなければならないはずです。また日本の政府は、それ以降、キリシタン弾圧が、世界を敵に回すことになることをしっかり記憶させられることとなったと思います。

さて、いずれにしろ、私どもに与えられた課題は、今なお圧倒的に多くの日本人は、神の御前に立つその厳しさを知らないまま、暮らしている事実です。そこにこそ不幸があります。神を畏れることを知らず、神の前に立つことを知らない人々は、結局、人間を恐れ、周りの人々の雰囲気にのみ込まれ、社会の空気に流され、自分自身を真実に確立する道を進み行くことができず、時代の流れ、時代の価値観のなかで右往左往します。

私どもキリスト者と教会は、あの戦前戦中、まさに、神の前に立つ人格や良心を鍛えることに失敗して、神とこの国に生きる人々、東アジア諸国の人々に罪を犯したのです。

もしこの国に生きるキリスト者、私どもが、主イエスの御言葉に素直に従い、信仰に生きる戦いを継続するなら、それこそが、この社会を少しづつ変革して行く根源的な力になることを、すでに2000年の人類史は、はっきりと証言しているはずであります。

今このとき、ひとりひとりが、遣わされたその場で、家庭で、職場で、学校で、主イエスの仲間とされた者、罪を赦され、神の子とされた者であることを証することによって、担われてまいります。教会全体で、時が良くても悪くても、私どもはイエスさまの仲間とされたこと、救われたこと、そして、私どもは、それ以上に価値あるものがないこと、魂の救い以上に尊いものはないことを、私どもも主イエスの仲間であると宣言してまいりましょう。そこに私どもの戦いと使命があります。そのとき、私どもの教会は、いよいよ使命に生きる教会になり、いよいよ熱心に主の日を守り、諸集会で共に祈り、教理を学んで身につける必要性に目覚めて行くはずです。こうして、私どもの教会は、キリストだけを主と告白する慰めの共同体として、父なる神の前に建て上げられてまいります。

祈祷
私どもから父よと呼ばれることを恥とはなさらない父なる御神、私どもから、わたしの仲間、救い主と呼ばれることを恥となさらない主イエス・キリストよ。そればかりか、それをあなたの最善の、最高の喜びとしてくださる、驚くべき恵みとご愛を心から感謝致します。主の御名を心から讃美致します。どうぞ、私どもに与えられた救いがどれほど、あなたの御前で価値あるものであるのか、私ども自身に言葉では表せないほど貴重、宝物であるかをいよいよ弁えさせて下さい。それだけではなく、この救いに生き抜く戦いが、あなたを知らない人々、あなたを拒絶する人々のためにも、どれほど、大切な宝となるのか、そのことをも深く悟らせ、日々の信仰の戦いに、いよいよ上からの、あなたからの力を注いで、導いて下さい。アーメン。