過去の投稿2010年10月11日

10月10日

☆   「これは、あなたがたのために流されたわたしの血、契約の血である。」主イエスの御言葉を告げる司式者は、まさに、主イエスの代理です。聖餐の礼典において起こっている出来事は、まさに、聖霊の主導の御業です。これが、信仰者、教会の確信です。かつては、配餐も、わたしが担って参りました。キリストの代理と言うのであれば、皆さまの席に、配餐する奉仕者こそ、主イエスの代理行為です。長老がいない教会であれば、牧師(宣教教師)が担うことは当然と考えたからですが、会員が増え、配餐に時間がかかるというまさに、現実的な課題もあり、同時に、二人の男性委員が、将来の長老を目指すということからも、委員の配餐奉仕が始まりました。

★  私どもの教会は、もとより、式文を整えて、司ることを基本としております。しかし、しばしば、その日の説教に即応して、式辞を語ることがあります。これは、ルター派や聖公会など、リタージ(式次第)を重んじるリタージカルな教会では考えられないことです。しかし、改革派教会は、リタージを重んじますが、それを絶対化しません。もとより、司式者がその日の気分で、式次第を変更することは、あり得ませんが・・・。
☆  先週の「式辞」において、聖餐に与ると言う事こそ、「主イエスの仲間であると言い表す」(=ホモロゲイン・マタイによる福音書第10章32節)最高の行為だと申しました。主イエスは、私どもにこのいのちの食卓、御自身のもてなしへと私どもを招いて下さるその行為において、「あなたは、あなたたちはわたしの仲間なのですよ」と宣言してくださいます。この一方的な、主イエスの愛の選び、救いの恵みに「ホモ・ロゲイン」(=同意する。同じことを告白する)する信仰的応答の極みが、聖餐にあずかることです。したがって、聖餐を受ける人は、信仰を告白した人でなければならないことも、明らかになるはずです。信仰を告白するとは、主イエスの御言葉に応答することですから、洗礼を受けること、そうして、教会員に加えられることが求められます。聖餐の礼典を祝うことは、まさに私どもの至上の信仰告白であり、賛美(「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。」コリントの信徒への手紙?第10章16節)であり、感謝(「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き」コリントの信徒への手紙?第11章23節)なのです。

☆  主イエスは、「人々の前で」告白しなさい、と励まし、命じられます。聖餐の礼典は、神の家族と共に、御前で祝います。それに対して、福音伝道、福音の証は、まさに、教会の外に向かって、なされます。伝道によって、神の国の到来を告げ、その中心的な現れである教会へと人々を招き入れる「証」に励みましょう。

★  秋、「浦上四番崩れ」「長崎のキリシタン」他を読み終え、今、「特命全権大使米欧回覧実記」(岩波文庫1~5)を読み始めています。浦上のキリシタンは、一匹、二匹と数えられ、キリシタン全村民(3000人余)が日本各地に配流され、恐るべき拷問の末、562名が殺されました。(1000人が改宗を表明しますが、帰村後、ほとんどが、悔い改めて信仰へと復帰します。)彼らはそれを「旅」(信仰の旅、天国への旅程)と呼んだそうです。一方で、まさに同じ時、近代日本の体制を決定的に定めることとなる、岩倉具視ら明治政府要人たち(100名余)の米欧視察旅行が敢行されます。今の100億円余の莫大な経費をかけ、1年9カ月の旅を続けます。日本研究、日本を神学する(信仰の眼で認識する)ための、大切な営みです。「預言者(説教者)」の眼力が深められることを祈りつつ。

☆  先週、朝の祈祷会で、「慰めの共同体」を学びました。「~先生方がいらっしゃらないと教会が何とも淋しいねと、皆で話していました。~」休暇から戻ってすぐに一人の仲間からメールを頂きました。神と人からのコンフォート、それが、私どもを奮い立たせます。天国への喜びの旅を、皆で励み、祈り、進み行きましょう。