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「真実に生きるための逆説」

「真実に生きるための逆説」
2010年10月10日
テキスト マタイによる福音書 第10章34-39節 
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

今日の説教の題に、「逆説」という言葉を初めて用いました。実は、これは、とても難しい言葉なのだと思います。もしかすると、この言葉の意味を説明するだけでも、今日の説教の時間が必要となるかもしれないと思うほどです。しかし、あえて、用いました。ここでの逆説の意味は、最初は、常識的には受け入れられないと思える教えが、よく考えてみると、実は、真理であるということです。たとえば、諺に、「急がば回れ」があります。これも、一種の逆説でしょう。主イエスが、ここで、語られた説教とは、そのような意味での逆説、逆説的な表現なのだと思います。

それなら、何故、主イエスは、そのようないささか、回りくどい、わかりにくい仕方で、真理を語られるのでしょうか。

皆さまは、今朝の主イエスの御言葉をどのように聴かれたでしょうか。聖書に慣れ親しんでいるキリスト者も、たじろぐ思いを持つのではないでしょうか。衝撃を与えられるかもしれません。反対に、もし万一、それこそ逆説的になりますが、聖書に慣れてしまった故に、衝撃を感じないとすれば、それこそ、神の御言葉を聴きそこなっているのではないかと思います。その人は、既に神の御言葉と遠く離れたところに立っている。いや、立っているのではなく、既に倒れているということになるのではないかと思います。主イエスは、キリスト者が、そのような恐るべき危険、滅びへと転落させられかねない罠に陥りやすい私どものために、あえて、このような表現方法をとられたのではないか、わたしはそのように思います。

さて、主イエスはこのように語り始められます。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」いかがでしょうか、私どもは、「イエスさま、まことにそのとおりです。」こう、言えるでしょうか。

先週、一人の未信者の聖書の学者が著した「一神教の誕生」という書物を読みました。わたしは、もしも、その大学教授が「イエスがこの地上に来た目的は、平和を造るためではなかった。戦争をもたらすため、互いを敵対させるためだった。」とこのように、皆さんの前で、言ったとしたら、きっと、ただちに議論を始めると思うのです。
そもそも、聖書66巻の内容とは、神が、御自身の平和に人間を与らせようとする、神から人間への救いの出来事の壮大な物語なのだ、神が御自身の平和を人間に与えようとする救いの歴史なのだと告げるでしょう。あるいは、既にマタイによる福音書の山上の説教で学んだ御言葉を挙げてもよいかもしれません。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」さらに、その直後のこの御言葉もよいかもしれません。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」さらに、主イエスが、十字架につけられる前夜、剣をもって主イエスを捕縛しに来たローマの兵隊たちに、弟子のペトロは、剣で切りつけて抵抗したとき、主イエスは、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と仰って、ペトロをとどめたことを、挙げてもよいでしょう。主イエスは、まったく暴力をふるうことをせず、むしろ、彼らの暴力はそのまま受けながら、しかも、彼らのために、彼らの救いのために、祈られました。主イエスのご生涯は、平和を造りだすためのものに他なりません。

しかし、正真正銘、この御言葉は、主イエスが語られたものです。ですから私どもは戸惑う、衝撃を受けざるを得ないのです。そればかりか、さらに、御自身がこの地上に来たご目的とその結果について、このように宣言なさいます。「人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」常識的に言えば、まさに、とんでもないことを仰っているわけです。まさに、衝撃的な発言です。

私どもは、毎週、ここで、皆さんと十戒を唱えて神を賛美し、感謝しています。今朝も、声をそろえて第5戒を唱えました。「あなたの父と母を敬へ」この御言葉は、特別に大切だと言っても良いのです。なぜなら、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。」このような約束が伴っているのからです。父母を敬う、目上の人を敬う、これが、神の民の掟の基本、人間が生きるための土台とされているのです。キリスト教信仰の言わば、基本、土台なのです。

さて、すこし丁寧に考えて見ましょう。実は、息子や娘を捨て、父や母を捨てて生きるということは、決して新しい教えではありません。それこそ仏教の教えです。「出家」です。自分の生まれ育った家を捨てるという思想です。インドの王子であった釈迦、後に悟りを開いて釈尊と呼ばれたゴータマシッダルタには妻がおり、子どもたちがおりました。ところが、彼は、ある日、自分の王宮を家庭もろとも捨ててしまったのです。そして、彼のもとに集まった人々にも、自分と同じように出家すること、家を出ることを呼びかけたのです。人間は、人でも物でも、ありとあらゆるものに執着してはならない。それらは、すべてかりそめのもの、真実なものではないのだと説きました。そして、その執着する心を「煩悩」と呼んで、その煩悩から解放されて生きなさい、悟りなさいと、呼びかけたわけです。こうして、出家者の群が起こりました。それをサンガと申します。こうして、仏教教団が組織されたのでした

さてそれなら、主イエスは、釈尊と同じことをお説きになられたのでしょうか。違います。まったく違います。そもそも、釈迦にとって父も母も、妻も子らも、すべては、かりそめのものでした。つまり本来、自分にとって捨ててしかるべきものと考えたのです。人間的な情愛、人情が強くなりすぎれば、悟りの妨げになると認識したのです。

ところが、主イエスは、人間的な情愛に満ち満ちていらっしゃいます。たとえば、一つだけ例をあげましょう。ヨハネによる福音書第19章によれば、イエスさまは、十字架の上で、残される母マリアのことを案じ、心を配られたエピソードが記されています。弟子のヨハネに、「見なさい。この人は、あなたの母です。」そう仰って、母マリアを託されました。

まさに、逆説的表現ですが、キリスト教信仰とは、徹底的に人間的なのです。人間を、人間性を重んじるのです。先週の説教題を思いだして下さい。「人間を人間にする道」です。キリスト教信仰とは、徹頭徹尾、人間を健やかな、人間らしく育てる道へと歩ましめるものなのです。その意味では、キリスト教とは、徹底的に人間中心の教えなのです。

ただし、そこでこそ丁寧に言わなければなりません。とりわけ、一般の社会のなかで、そのように言うと、ただちに誤解されるかもしれません。キリスト者であっても、びっくりされ、誤解する方もいらっしゃるかもしれません。

聖書において明らかにされた真の神は、人間を創造し、これにいのちの息を吹きいれて、今、いのちを与えていてくださる生けるまことの神です。この神は、常に、その御顔を私どもに向けていてくださいます。とりわけ主の日の礼拝式、今このときこそ、天の父なる神は、神の子たちである私どもに御顔を向け、その暖かないのちの光、愛の光を注いでいて下さいます。その意味で、神こそが、人間に関心を注ぎ、愛を注いで、いついかなるときも見守り、顧みていて下さるのです。真実の意味で、人間を中心にしていてくださるのです。

ところが人間は、反対に、人間じしんを重んじません。人間は人間を真実に愛することができません。人間どうし、愛し合うことに破たんしてしまっています。それは、何も国家の戦争のことを持ちだす必要はありません。むしろ、もっとも近い人間関係について、思い巡らせば十分です。そこにおいてすでに、私どもは、真実に愛し合う関係を築くことができていません。愛の関係が破れています。いったい、どれだけの多くの夫婦が、親子が、兄弟がお互いの間に真実の愛の関係、心から信頼し、尊敬し、愛する交わりをつくることに失敗していることでしょうか。

血のつながった肉親、親のことを許せない、愛せない。最初は、愛していたはずの妻を、夫を受け入れられない。自分が産んだはずの息子、娘を受け入れられない。愛せない。いわんや肉親ではない舅のこと、姑のことはなおさらかもしれません。私どもは、人間お互いを正しく愛することに、失敗を重ねている現実があります。

さて、それなら、その理由はどこにあるのでしょうか。いったい何故、人間は、人間どうし、愛することができず、憎しみ合い、敵対してしまうのでしょうか。ここに、人間の悲劇、悲惨があります。(逆説:パラドクスがあるのです。)私どもは、誰でも、心の底に、本当の自分とは何だろうという問いをひそめています。人を蹴落として、勝ち上がって行く人生ではなく、本当に人に愛され、人を愛する生活こそ、人間らしい生活なのではないかという問いをひそめています。幸せになりたい、愛と信頼、喜びと平安に満ちて暮らしたいとあこがれを持っています。ところが、実際にしていることは、それを自分で壊してしまう行動です。実に惨めな、罪深い、自己中心な生き方へと、落ちて行くのです。

聖書は、告げます。人間が人間らしい、真実の、健やかな人間になれないのは、神を神としないからだと言うのです。人間が人間となる真理の道、いのちの道を踏み外しているからだと言うのです。聖書は、神を神として崇め、従わないこと、それを罪と表現します。これこそが、私どもの最大の課題、問題なのです。罪に縛りつけられている限りは、私どもは、真実の人間の幸いに生きることができないのです。

聖書は告げます。人間が、真実に人間らしく生きるために、絶対に必要なこと、欠かすことができない根本がある。それこそが、私どもの創造者、言わばまことの親なる神を信じることだと言うのです。ここで、信じるとは、神がただ存在していると認識しているなどということとは違います。聖書はそのような認識を信仰とは認めません。信じるとは、神を礼拝すること。神を人生の中心に置くこと。第一にすることなのです。

今朝も共に声をそろえて唱えた十戒のまさに第一戒はこうです。「あなたはわたしの他になにものをも神としてはならない。」神のみを神とせよ。この掟こそ、人生の最初であり最後なのです。人間の生きる主な目的なのです。

主イエスは、山上の説教で、「神の国とその義を第一にしなさい」と呼びかけられました。これもまた、新しい掟ではなく、旧約聖書いらい、神御自身が語り続けてくださった愛の招きに他なりません。それを真実に徹底しようという招きなのです。
 
神が、私どもに徹底的に神を中心にしなさいとお命じ下さる理由は、私どもが、人間らしく、健やかに、幸いに生きる道は、それ以外のどこにもあり得ないからです。私どもは、徹底的に、神を神としてよいのですし、すべきなのです。そんなことをしたら、自分の家庭は、もっとひどくなる、大変になる、争いが起こる、もめごとが増える、確かに、それは、避けられません。しかし、それを越えて行く以外には、私どものいのち、魂の救い、永遠のいのちはおろか、地上における幸いもまた、真実には、成り立たないからです。主イエスこそ、父なる神こそ、自分が自分の人生を心配する以上に、わたしどもが自分の家庭を、家族に心を配るよりはるかに徹底して、重んじておられるからです。心を配っていて下さるからです。

毎日のように新聞を賑わすのは、母親や父親が自分の産んだ子を、自分の利得、損得のために捨てる、虐待する事件です。私どもは、それを、決して他人事と言い切ることはできません。あるいは、反対に、息子や娘が、親を捨ててしまうということ、殺すということもあります。息子や娘を、自分の全てであるかのように関心を注いで、結局は、息子や娘の成長をかえって疎外することになってしまうという問題が潜んでいるかもしれません。そこにも、真実の愛をもって、家族に向き合うことに失敗してしまうわたしどもの姿があると思うのです。主イエスが、ここで語られたことは、このような人間の罪によって破壊された、人間関係、家族関係を、いへ、そればかりか企業や社会における人間どうしの関係を、根本から救う道なのです。

主イエスは、ここで、父母を重んじ、愛し、息子や娘を愛し重んじることが、神を愛することにまさってはならないと、我々が作りだす「いびつな人間関係」のただ中に割り込んで来て下さるのです。そのまん中に入って下さるのです。そうやって、私どもを過ちから、罪の状況から救いだしてくださるのです。こうして、まことの家庭の幸いへ、人間社会と立ち返らせ、築き直して下さるのです。

もしも、日曜日、つまり教会の生活、信仰生活を、月曜日から土曜日までの生活より重んじて生きる人は、決して、神の前で、神との正しい関係を生きることができなくなります。心も魂も健康な人間となりえないのです。もしも、日曜日より、家庭や仕事を大切にするなら、その人は、自分が何のために結婚したのか、家庭が与えられているのか、仕事が与えられているのか、その意味と目標を見失ってしまうのです。家庭や子どもの奴隷、仕事の奴隷になってしまうのです。神は、十戒の第四戒で、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とお命じになられました。この掟も又、私どもの人生を、会社で働くことを目標とする、現代社会の常識から救いだして下さる、掟なのです。日曜日を大切にするからこそ、月曜日からの毎日が、豊かになるのです。そこにも、言わば、逆説があるわけです。

私どもの教会には、家族でひとりここに来て、礼拝を捧げる仲間も少なくありません。その方々は、既に、主イエスが「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。」との御言葉の意味を、分かっているのではないかと思うのです。何故なら、事実として、現実に経験しているからです。解説はいらないのです。主イエスに従うことは、そのような事実を味わうのだと、もう経験しておられると思います。朝とお昼の準備をしなければならないでしょう。教会に行くことに協力してくれない家族もいます。
 
 ここで恐縮ですが、わたし自身のことを申し上げさせて頂きます。わたしもまた、家族ばかりか親類のなかで、初めてのキリスト者です。洗礼や信仰生活の賛成者、理解者はひとりもいません。洗礼を受けたのは大学生でしたから、家族の世話をしなければならない責任はありませんでしたが、それでも、「深入りするな」とか、日曜日はたいてい夕方まで教会におりましたから、家に帰ると、「家のことをなんにも手伝わないで、教会で何を教えてもらってきたのか」と、何度、情けない思いをもったことでしょうか。何より、神学校に行く決意を表明したとき、ついに、母親は激怒しました。何としても、それをやめさせようと、さまざまな工作がなされたのです。一つひとつ語る暇もその必要もないでしょう。もし、あのとき、私が神からの召命を後回しにしたら、わたしは、母は今も救われず、わたしの家族は救われていなかったのではないかと振り返るのです。主に従うことで、主のご計画が実現することを、少しずつ教えられてまいりました。

 主イエスは、「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」自分の十字架、それは、ひとり一人別々、固有のものです。主イエスに従うからこそ、家族の課題、仕事の課題、もろもろの問題が生じて来ます。けれども、実に、主イエスを信じるからこそ、担わせられる十字架こそ、私どもの救いの道、私どもを信仰へと歩ましめる道に繋がるのです。これこそ、信仰の事実なのです。数え切れないキリスト者たちが既にそれを証しているはずです。

主イエスのこの御言葉を聴きながら、あらためて先週の説教を思い起こします。主イエスは、罪人でしかない私どもに近寄り、あなたはわたしの友です。あなたはわたしの仲間です。あなたは、わたしの弟子ですと、私どもに一方的に宣言してくださいました。私どもは、この主のご愛に、アーメンと同意した者です。わたしも感謝をもって、「イエスさま、わたしはもったいないことですが、あなたの仲間です」とそう答えさせていただきました。

そうであれば、ここでも、私どもはもともと、主の仲間、主の弟子であるふさわしさを持ち合わせていないことに気づきます。しかし、それにもかかわらず、わたしどもを主の弟子たるにふさわしい者と、見なして下さったのです。「ふさわしくない」とは、実に厳しい言葉です。しかし、ふさわしくないものを、御自身が十字架について、いのちの犠牲を支払って、罪を赦して、ふさわしさを備えて下さったこと、これが出発点とされていることを、忘れて、ここでの主イエスの御言葉を聴くことはできません。

そうであれば、ここでのふさわしさとは、弟子の条件とされているのではなく、私どもへの信頼なのです。私どもを信じる主イエスからの激励に他なりません。この激励は同時に、もし、この激励に奮い立たされることがなければ、まことに、主の弟子であり続けることにおいて、いつか、破たんが起こる、その可能性を見つめていらっしゃる主イエスの、まさに燃え上がるような私どもへの愛に裏付けられている、真剣な、まさに、深刻な激励であります。

最後に、ある仲間のことをご紹介したいと思います。まだビルで礼拝式を捧げ、伝道し、教会形成に励んでいた時代のことです。ひとりの最高齢者の姉妹が、まさに忠実に、主日礼拝式に出席されました。わたし自身、開拓の厳しい状況の中で、どれほど支えられたことか分かりません。彼女は、熱心な仏教徒でした。ご主人とはお寺で出会って、結婚なさったほどです。実は、わたしにとっての義理の御祖母さんになります。仏教を本当に信じている人は、やはり当然なのでしょうが、毎日、御祖父さん御祖母さんは、勤行をなさるのです。御経を唱えるわけです。しかし、そこに、キリスト者が嫁いで来たわけです。舅、姑との関係は、キリスト者だから、すべて問題なく、上手にできるということはありません。しかし、その姉妹も又、いつか、主の救いがなされるようにと祈られたわけです。その祈りは、思いもよらない方法で、実現し、お二人とも洗礼を受けて、キリスト者になられました。何故、そんな話をするのでしょうか。あるキリスト教の反対者が、「ほら、キリスト教の教えは、親や家族を粗末にするものだ、けしからん」などという人は今ではよほどのことかと思いますが、そうではないことを証したいからです。主イエスのこの御言葉を受け入れ、生きることによって、キリスト者は、家庭を大切にし、父や母、息子や娘と、真実の関係を結ぶ道へと、導かれるということの証なのです。

皆様も、同じだと思います。私どもは、今、教会設立を目指しています。一人ひとりが、祈祷会への出席、学び会への出席など、自分の為ではなく、教会形成のため、主のために励まなければなりません。実は、そのような神の御言葉に従う歩みによってのみ、実は、自分の家族や親戚までも、主の恵みにあずかって行くことになるからです。

確かに、主イエスを第一にする人には、家族の反対が起こるでしょう。無理解にぶち当たります。確かに、夫に、妻に迷惑を掛けているという遠慮があるかもしれません。子どもたちは、日曜日にも、勉強や部活など様々な事情があるでしょう。しかし、もしも、愛する息子や娘に、神を第一、教会を第一にすることこそ、まことの人間の幸いなのだと、私どもが告げ、それを証しすることを怠れば、彼らは、どうなるのでしょうか。

もしも、私どもが、自分の知恵をもとにして、家庭の中でうまくやって行こうと考えて、キリスト者の務めを出来る限り果たさないようにと、自分でブレーキをかけるなら、どうなるのでしょうか。最後には、ついに、自分のいのち、永遠のいのち、魂の救いそのものすら、失ってしまう危険性があります。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」これは、事実が語られたのです。教会が経験してきた厳しい現実、事実なのです。

家族の反対があり、無関心がある、ときに、教会に行くことを阻もうとさへするかもしれません。しかし、彼らの救いのためにこそ、私どもは神を愛し、神に従うのです。その信仰の戦いが十字架です。しかしこの十字架を担うとき、私どもは、隣人を愛することへと、自分の力を越えて、神の愛の力によって、導かれつつ真実に父や母を、息子や娘を愛し、人間らしい健やかな関係を築けるようになるのです。

祈祷
 主イエスよ、あなたは、あなたにふさわしくない私どもを友と呼んでくださいました。仲間としてくださり、弟子として下さいました。どうぞ、あなたの深いご愛、限りなく深い叡智をもって、私どもが肉親や自分の仕事や、この世のものを第一にして、私どもの救いを自分で捨て去り、無駄にする罪、危険から、救い出して下さいます。どうぞ、あなたに従うことによって生じる戦い、十字架を担うことこそ、救いの道、地上にあって真実に生き、幸福に生きる道であることを、絶えず、思い起させて下さい。そして、十字架を担って従い続ける者として下さい。アーメン。