過去の投稿2010年10月17日

10月17日

★  先週は、連合婦人会の集いが恵みの内に終わりました。聖恵会(かつての表記:聖恵授産所)の理事長、施設長の川崎俊和長老のすばらしい講演を伺いました。今年の連合婦人会の主題は、「教会のディアコニアを考える」です。当番教会が年間主題を考えるわけですが、私どもは、数年来、「教会のディアコニア」を考え続けています。説教において、日本キリスト改革派教会の「政治規準」を引用しました。日本キリスト改革派教会にとって、教会のディアコニアの働きは、たとい、執事がおらずとも、伝道所委員か長老がそれを担うと、明言しているのです。私どもの教会理解の基礎として、ディアコニアの実践が教会の存在の根幹にかかわることという認識が、明瞭にされているわけです。(説教原稿をお読みください。)

☆  この働きを興された、忠海教会の故、井原牧夫牧師こそ、そのような教会理解に立った方でした。地域のディアコニアに生きることが、教会の存在(活動の本質)にとって必須の要件であると確信されていました。私どもは、  現在の社会福祉法人たる聖恵会(聖恵授産所)にばかり目が行きがちです。しかし、今回、わたしは、改めて、聖恵授産所が立ちあげられた経緯が、教会(固有)のディアコニアから産み出されたことを認識させられました。今頃になって、私どもの教会の目標、モデルたるべき歩みをそこに見出した思いです。

★  私どもは、なお、教会のディアコニアについて分かち合える証を持ち合わせていません。(ハート・ステーションは、今は、開店休業状況です)しかし、私どもは、「行って同じようにしなさい」との主イエスからの迫りを真剣に考えなければならないことを、痛切に思います。わたしの心の中には、「若い兄弟姉妹に・・・」との思いがあります。しかし、現住陪餐会員全員で、今日の時代における岩の上伝道所の使命、ビジョンについて語りあいたいと思います。

☆  創設した井原牧師は、御自身が筋ジストロフィーの障がいを与えられていました。しかし、その障がいを、信仰者として、積極的に受け止められました。父君も、牧師であられ、遺伝にもよる障がいがわが子に現れたとき、「あなたには、それを乗り越える信仰をも伝えておいた」と告げられたとのこと!!。 主イエスの御言葉、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(?コリントの信徒への手紙第12章9節)が、生涯を支え、障がいを積極的に生きる力となったこと。改めて、私どもは、我が子に残せる最善、至上の遺産、宝とは、信仰(救いの恵み)以外にないことを、本当に思わされます。

☆  川崎長老は、井原牧師の薫陶を深く受けられた方と思います。忠海教会と聖恵会と共に、歩んで来られました。実は、このことも、わたしの大きな励みになりました。長老は、自分が教会に育てられ、聖恵会「しか知らない」ことを誇らしい思いで証されました。それは、自分の「召し」を確信しておられるからです。ご自分が、忠海教会で救われ、「会員であることの意味」を知って(=信仰的認識、理解)、しかも、これを「志にかえ」られているのです。100余年の教会の歴史に、自分の奉仕の歩み(人生)を重ね、自覚的に組み込まれています。わたし自身、皆さんにしばしば説いて来た事は、まさに、そのことでした。「何故、この教会にいるのか・・・。」それを、問うことなしには、「教会人」(教会員)としての確かな歩みはおぼつかないと思います。川崎長老は、また、「教会に奉仕をしに行く、自分の居場所としての奉仕を探す、つくる」という主旨のことも語られました。ここにも、教会の長老職の一つの模範を見る思いで、大変、励まされました。

★   このような会員がひとり、増えて行くこと。これこそ!わたしの祈りです。確かに、受洗後、日が浅ければ、  自分のことで精いっぱい、教会「全体」は見えないでしょう。しかし、何年後とは言えませんが、教会に主体的、積極的に生きることによって、つまり、自分の十字架を負うことによって、教会人、人間として成長させられて行きます。

☆  朝の祈祷会で、ひとりの仲間が個人的に、「平和ではなく、剣を・・・」という先週の説教について質問をして下さいました。実に、大切なことです。説教は聴いて、行う(従う)ことがなければ、まことの礼拝、まことの説教聴聞になりません。であれば、納得(理解)できないことは、そのまま、無視しておいてよいはずがありません!(この点もまた、先週の「善きサマリア人」の説教で言及しています)

★  33人の尊い生命が、一人の犠牲者も出さず全員、救出されました!世界中の関心と国境を越えた技術、キリスト者の祈りもまた注がれたと思います。人一人が、入れる穴を掘削して、一人ひとりを引き上げる。  暗黒の世界から、家族のもとへ。これは、私どもの救い(罪の赦し、天国)になぞらえることもできるでしょう。そのままでいれば、死ぬ(=滅びる)ばかりの身。しかし、上(=外)から、いのちの光が射し込みました。  救い主キリスト・イエスが、降りてきて下さいました。私どもは、神の独り子の犠牲の死、贖罪の死のおかげで、本来居るべき場所、神の家族のもとへと救出されました。今朝も、礼拝式で真心からの感謝と讃美を!!