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「新しい、恵みの時は、始まっている」

「新しい、恵みの時は、始まっている」
2010年11月7日
テキスト マタイによる福音書 第11章2-6節 
【ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。
『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』
イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』】

今朝、私どもの礼拝式のために与えられた個所は、決して単に2000年前の小さな出来事、エピソードの紹介ということに留まりません。いへ、これはこの当時でさへ、小さな事件ではありません。何よりも現代の世界、今の日本の社会に対してこそ、極めて重要なメッセージです。

私は、キリスト教伝道の使命にとって、今この時代がどのような時代なのかを告げることこそ、絶対的な使命だと言っても言い過ぎではないと思います。今がどのような時代なのかを知ることこそ、ひとりの人間にとってはもとより、人類にとって、大切な情報はないからです。実に、福音の伝道とは、新しい時代が始まっていることを告げることに他なりません。

その新しい時代の到来、始まり、その新しさをまさにくっきりと鮮やかにユダヤの社会に描きだすために神に選ばれ、立てられたのが、今朝の言わば主人公になる洗礼者ヨハネに他なりません。

今朝は、読みませんでしたが、主イエスは、ヨハネについてこう紹介しておられます。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」これは、ものすごい言葉であります。おそらく当時のユダヤ人にとっても、今のユダヤ教の信者の方々にとっても、これは、まったく受け入れにくい、あるいは、決して受け入れられないことだろうと思います。何故なら、旧約聖書には、優れた信仰者、預言者、王、祭司たちが数多く登場し、その活躍が記されているからです。何と言っても旧約聖書におけるスーパーヒーローはイスラエルをエジプトから脱出させたモーセです。いったい、あの英雄モーセと主イエスが紹介された洗礼者ヨハネととを比べることができるでしょうか。ですから、主イエスが、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」と言う紹介は、それを聞いた人々には、躓きになったのではないかと思うのです。

しかし、落ち着いて考えてみましょう。もし、これまでの旧約聖書の登場人物と洗礼者ヨハネとを比べて、まさに彼独自のもの、そのユニークさがあるとすれば、いったいどこに、何にあるのでしょうか。それは、ただ一つではないでしょうか。目の前にいるメシア、救い主ご本人を自ら直接に指差すことができたということに尽きます。こればかりは、これまでのどの預言者たちも、どんなに憧れても、できなかったことです。まさにこの事実にこそ、ヨハネに与えられた特権、特別の地位、立場があります。その意味において、まさに、人間の中で最も偉大な人間とならせていただきたのです。

このことは裏を返せば、主イエスご自身の偉大さを明らかにする、紹介となっていることにも気づきます。つまり、ご自身こそ、旧約聖書の証しているメシアに他ならならない、キリストに他ならないという宣言をしていらっしゃるのです。

いずれにしろ、ヨハネは、古い時代からあたらしい時代に転換する折り返し点、まさにその点そのものに立っているわけです。古い時代から新しい時代へと移行する、時代と時代との結合点のまさにその点に立っているのです。

さて、そのような彼は、何を語ってきたのでしょうか。第3章2節にあります。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」です。そして、この説教は、まったくそのまま主イエスの説教であることにすぐに気がつきます。第4章17節にこうあります。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた。』と言って、宣べ伝え始められた。」つまり、語った言葉そのものとしては、ヨハネと主イエスとの間には、まったく違いはありません。

ところが今、洗礼者ヨハネと主イエスとの間には、余りにも巨大な隔たりがあることが明らかにされるのです。具体的に言えば、「天の国」の理解、「神の国」の理解、福音の理解には、越えられないほどの溝ができているのです。

さて、そもそも、洗礼者ヨハネとはどのような人であったのでしょうか。ルカによる福音書によれば、父親はザカリヤ、エルサレム神殿に仕える祭司でした。母はエリサベトと言って、なんと主イエスの母マリアの親類に当たる人でした。何よりも、生まれる前から天使によって、やがて王さまの前を先導して歩く露払いのように、キリストのために道を備え、イスラエルをキリストへと向かわせ、整えるために働く人となることが予告されていました。

しかし、そのような彼は今、牢屋の中にいます。読者は、何故、牢屋にいるのか、この時点では分かりません。マタイによる福音書は、第14章で初めてその理由を明らかにします。それは、彼が、時の領主ヘロデをが、神の正義に基づいて批判したからです。ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しました。ヨハネは、それは、神の律法を破ることになると糾弾しました。しかし、結局、彼は、首をはねられてしまいます。
その意味で今、洗礼者ヨハネは、殺されるかもしれないとの危機感、切迫した思いの中にいたのだと思います。どれほど厳しい状況のなかにいたことでしょうか。しかし、何よりも、苦しかったことは、ただ牢屋に閉じ込められていたことではなかったはずです。それを明らかにする言葉がこれです。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』」

いったい、彼の生涯、彼の人生の使命、目的とは、何だったのでしょうか。それは、神の預言者として神の御心を告げるためのものに他なりません。つまり、「悔い改めよ。天の国は近づいた」これこそ、彼のユダヤの人々へのメッセージでした。大いなる確信と勇気をもって、自分の信じる説教を語り続けたのです。そして、悔い改めのための洗礼を施したのです。しかも、多くのユダヤ人が、彼の説教に心を打たれ、洗礼を受けに来ました。その中には、主イエス御自身もいらっしゃいました。つまり、大きな反響、反応が起こり、預言者冥利につきるような、一種、成功を収めたと言えるかもしれません。

ところが今、なんともやりきれない、あまりにも悲しすぎることが、よりによって獄中で起こってしまったのです。マタイは告げます。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。』彼は、今、獄中で、まさに殺されようとする人生の最後の時を迎えているのに、疑いが心に湧き始めているのです。迷いが生じているです。自分がその人生をかけて、まさにいのちをかけて、もっとも大切なこととしてきたその働きが、もしかすると無駄だったのではないか。いや、そもそも、間違っていたのではないかという、あまりにも恐ろしい疑いが生じているのです。

これまで、彼の働きの中心は、イエスさまに向かってあなたこそ、来るべき方、つまりキリスト、メシアであると言ったのです。人々に向かって、あのイエスさまこそ、メシア、キリストでいらっしゃると指差したのです。
そして、主イエスの弟子たちの中には、かつての洗礼者ヨハネの弟子たちもいたのです。ところが今、彼に迷いが生じています。これは、ヨハネの弟子たちにとっても、衝撃的なことであったはずです。

弟子たちは、どんな権威にも、どんな立場に人にも決しておもねらないで、真理を真理として語りぬき、正義を正義として語り抜く、洗礼者ヨハネを心から尊敬していたと思います。だからこそ獄中にあっても、ヨハネから離れないのです。実に、すばらしいことです。ところが今、自分たちの先生じしんが、大いなる疑い、迷いの中にはまり込んでいるのです。

今朝、私どもは、彼自身が経験した苦しみ、この迷い、この疑いの原因を突き止めなければなりません。なぜなら、私どももまた、そのような決定的な大失敗を犯す危険性があるからです。私どもは今、キリストの教会の中で、聖書を読み、説教を聴いています。つまり、ここで、真理を目の前にしている、はずです。真理なるキリストをここで仰ぎ見ている、はずです。しかし、もし、洗礼者ヨハネのように、自分のイメージ、自分の考え、自分の理想、自分の体験をもとに、キリスト・イエスを知ろう、信じようとするなら、私どもも同じ根本的な間違いを犯す可能性があるのです。

さて、彼は、そもそも何故、今頃になって、イエスさまがキリストではないのではないか、メシアではなかったのではないかと疑い、迷い始めてしまったのでしょうか。それは、彼が抱いていたメシア理解、キリスト像に問題があります。そもそも、ヨハネにとってのメシア、救い主とはどのような人を予想していたのでしょうか。ヨハネのメシア像は、キリストのイメージとはどのようなものだったのでしょうか。

少々長くなりますが、やはり、マタイによる福音書第3章を読み直す必要があるかと思います。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。~斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

彼の理解していたメシア、救い主とは、ひと言でいえば、正義の審判者です。「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」お方です。つまり、彼は、神の正義と裁きを語ったのです。神の前にその律法を生きる人、そのような民は、まさに良い木の良い実とされます。神の尊い麦として、神の倉、神の宝物倉に収獲されるのです。しかし反対に、よい実を結ばない木は、もみ殻のように神の怒りの火によって焼き払われて、一瞬で灰にされるのです。これが、ヨハネのメシア像、彼のキリスト理解、彼にとっての救い主だったのです。

さて、それならいかがでしょうか。私どもは、これまでマタイによる福音書に記された主イエスの説教とお働きと、ヨハネが描き出したキリストのイメージとピタリと重ね合わせることができるでしょうか。それは、できないと思います。あまりにも大きなズレがあるわけです。だから、彼は、迷い、疑い始めているのです。

そこで、主イエスは、遣わされてきたヨハネの弟子たちを、愛の眼差しで見つめて、心を込めてお答になられます。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。』

この御言葉は、まさに主イエスがなさった御業そのものに違いありません。しかしまた同時に、実は、イザヤ書第35章5節以下の中に、こう記されているのです。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」預言者イザヤの予告は、そっくりそのまま、主イエスが実行なさっていらっしゃることが分かります。ですから、ヨハネは今こそ、疑いや迷いを乗り越えなければならないのです。このイザヤの預言をも、受け止めて、このイエスさまこそ、約束のメシア、キリストだとの確信に生きる、生き抜く必要があるのです。

付け加えて申しますと、マタイは、2節で、マタイによる福音書では、決定的に大切な第16章18節を先取りするように、まことに珍しい表現をここでしているのです。つまり、主イエスのことを、キリストと言い換えているのであります。つまり、マタイによる福音書は、ここで、ヨハネの疑いに対して、すでに、イエスさまはキリストでいらっしゃるという宣言をしているわけです。

主イエスは、最後にこのように語られました。「わたしにつまずかない人は幸いである。』これはもしかすると、何だか非常に冷たい印象を与えてしまうかもしれません。しかし、決して、誤解してはならないはずです。主イエスのご本心、そのお心をもって、これを解釈すれば、こうなるはずです。「ヨハネに伝えてほしい。わたしに躓かないで欲しい。わたしこそ、あなたが信じるべきメシア、あなたが紹介していたメシアなのだ。しかし、あなたの持つ先入観を捨てなさい。あなたの予想するメシア像を修正しなさい。そして、神のメシアに他ならないこの私を、神の言葉に根ざしたメシアとして改めて受け入れ直しなさい。

確かに、主イエスは、ヨハネが信じていた約束されたメシア、神のキリストに他なりません。ところが、主イエスは彼が考えていたようには、イスラエルの民を裁かれないのです。

今朝、あらためて全聖書の要約と言われるヨハネによる福音書の有名な第3章を聴きましょう。16節から19節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」

ここでヨハネによる福音書は、神が御子イエスをこの世に派遣されたのは、世を裁くためではなく、世を救うためだと言うのです。また、主イエス御自身も第12章でこう宣言しておられます。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」

主イエスは、この世を、つまり私どもひとり一人を救うために来られたのです。そして、その救いとは、神の正しい審判を完全に実現するために他なりません。確かにヨハネが証した通り、「差し迫った神の怒り」があります。それは、神の言葉に背く者に対するまさにおそるべき神の怒りです。火によって投げ捨てられるほどの、斧によってバッサリと切り捨てられるほどの神の怒りがあります。

しかし、父なる御神がなさったことは、この怒りを御自身の御子に向けられたのです。火に投げ入れ、斧で切り倒されたのは、他ならない神のひとり子イエス・キリストでした。神の正しい審判は主イエス・キリストのあの十字架において、貫かれたのです。徹底して、まさに容赦なく、神の正義は、主イエスのいのちを要求されたのです。

洗礼者ヨハネは、今こそ、真理につまづいてはなりません。自分のイメージにとらわれていてはなりません。彼は今牢屋の中で、自分が抱いてきたメシア像を修正することによって、まことのメシアを知り、真実のイエスさまで出会うべきなのです。

そして真実のキリスト・イエスを知るということは、同時に、今やまったく新しい時代がこのイエスにおいて始まったのだと理解する、認識することです。この驚くべき新しい時代、救いのとき、メシアのときが、イエスにおいて始まったことを信じること、これこそ、私どもキリスト教のメッセージなのです。新約聖書は、あの十字架のイエスさまと、そのご復活によって、すべて信じる者の罪が赦され、神の怒りからまぬかれることができる唯一の方法、唯一の道なのだと告げています。驚くべき福音のメッセージです。

洗礼者ヨハネが、「悔い改めなさい」と呼びかけたとき、その本当の意味と目標は、神が与えて下さった救い主イエスさまを信じなさい。受け入れなさいという意味であるべきでした。「天の国は近づいた」という知らせは、恐ろしい情報などではなく、むしろその正反対なのです。つまり、「救いが近づいた、いや、もうあなたのところに来ている、だから、生きる方向を転換してイエスさまを信じなさい。そうすれば、御言葉からかけ離れた罪を犯して生きてきたあなたでさへ、救われる。神の恵みの支配の中に生きることができる」このような喜びに溢れて告げるべきメッセージ、その内容なのです。

最後に、蛇足になるかもしれませんが、しかしこれは極めて大切なことですから、マタイによる福音書第5章17節を改めて思い出しましょう。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
ある人は、旧約の神は怒りの神で、新約の神は赦しの神だと言います。決して、そうではありません。神が時代の中でご自身のご本質、御性質を変化させたり、成長するなどということはありません。神は、すでに旧約の時から、人間の罪、心の頑なさをご存じでした。そして、罪を犯す者は、神を神と重んじ、認めないで、自分の勝手な考えで、信仰の道を歩んでいるつもりになるイスラエルを、なんども裁き、懲らしめ、罰しなさいました。それは、まさに、神の正義を啓示し、その裁きによって警告を発し、神の民を恵みの世界へと確保なさろうとする御心によるものです。

しかし、その神御自身は、やがては、全人類の罪の支払う報酬を、人間たちにとらせるのではなく、御子に取らせる方法をちゃんと備えておられたのです。そして今、神のときが満ちて、その父なる神の救いが御子において実現します。その時代が始まったのです。ですから今ヨハネは、この新しい時代が始まったことをきちんと認識しなければならないのです。そうでなければ、まさに、自分のしてきたことが、空しくなってしまうのです。主イエスは、このヨハネをも愛していらっしゃいます。だからこそ、牢獄のヨハネのために、愛を込めて、御言葉を伝言なさるのです。

私どもは、今が救いのときであることを知らされました。主イエス・キリストをただ信じるだけで、一切の罪が赦され、新しくされて、神の怒りを過ぎ越すことができる驚くべき時代が始まっていることを知らされ、この福音を信じて救われ、このように神を礼拝する特権に生かされています。この上ない幸いを与えられています。
ただしそれは、正義の審判がなくなったことを意味するのではありません。その審判の恐ろしさは、まことに想像を絶するほどのものなのです。ご自身の御子を十字架であのように裁かれたほどのものだからです。そして、最後の審判、この世の終わりにおいては、まさに、このイエス・キリストとどのようなかかわりで生きたかによって、究極の審判が下されるのです。

私どもは今、ヨハネが考えていたようにではなく、主イエスのように「悔い改めよ、天の国は近づいた」と、明るくしかも真剣に伝道したいと思います。その真剣さにおいては、まさにあのヨハネこそ、模範です。自分のいのちをかけてでも、すべての人々に神に向き合うようにと迫ったように、神を神とすることを求める、そのような真剣な伝道であるべきです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、独り子キリスト・イエスを十字架において裁くことによって、あなたの正義と罪への怒りとを貫かれました。そのようにして、信じる私どもには、赦しだけを与え、あなたの聖なる愛を貫き、確立されました。どうぞ、あなたの正義と愛の中で、私どもを立ち上がらせて下さい。私どもの信仰と生活において、罪の赦しの福音を安っぽいものにしてしまうことがありませんように。私どもに聖霊を豊かに注ぎ、真実の福音の恵みの重さを証させて下さい。誰でも主イエスを信じれば、救われるという驚くべき新しい恵みの時代、救いの時代が始まっていることを、喜ばしく宣べ伝えることが出来ますように。アーメン。