過去の投稿2010年11月22日

11月21日

★  本日は、園田教会の特別伝道集会の応援のため、大阪に出張致します。園田教会での説教は、「星の王子さま」を用いながら主イエス・キリストを証します。昨年から今年の前半、毎週のように「星の王子さま」のお話しが説教に登場致しました。信仰へ、救いへと導く説教となりますように。

☆ 今年の中部中会信徒神学講座で、「すべての説教が伝道的であるために」という講演を伺いました。これは、まったくの正論です。説教は、神礼拝のためにあります。したがって、真実の礼拝を捧げるためには神を知り、信じることが不可欠です。ただし、この議論は説教の聴衆の中に、未信者がいなければ、成立しません。キリスト再臨の前に、地上に、未信者・非信者の方がいなくなるはずはありません。シカシ、何よりも我々の教会の課題は、主日礼拝式に未信者・非信者が少ないことです。もしそれが、会員の伝道不熱心の理由である場合には、教会として病んでいる状態にあると言わざるを得ないでしょう。説教には、常に、聴衆をして信仰へと誘い、生けるイエス・キリスト、父なる神を仰がせる使命と力があります。聖霊のお働きをお祈り下さい。

★  当伝道所には、四日市教会より、○○長老が応援に来て下さいました。奨励の草稿を読ませて頂いて、大変、感謝致しました。聖霊の力あふれる、霊的な、充実した礼拝式が捧げられますように。

☆  先週の夜の祈祷会で、詩編第122編を読みました。詩人は、6節以下でこう、呼びかけます。
【エルサレムの平和を求めよう。「あなたを愛する人々に平安があるように。 あなたの城壁のうちに平和があるように。あなたの城郭のうちに平安があるように。」  わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。「あなたのうちに平和があるように。」】

   教会形成とは、「神の平和」によって、「神の民の平和」を築き、建て上げて行く、その過程のことです。主イエス・キリストが確立された、神の恵みの支配が教会を統治する過程のことです。このことについては、私どもにとっては、もはや分かり切ったことでしょう。しかし、わたしが申しあげたことは、そこからさらに進み行くべきことです。具体的には、この詩こそ、現代世界の究極の解決のための祈りそのものだということでした。

   神学書以外に、ほとんど読まない浅学の者ですが、9月以降、小説「青い空」(海老沢泰久)を契機にして、関連する書物を読み進み、先週は、なんと「さらば日米同盟!」(天木直人著)、「小沢革命政権で日本を救え}(副島隆彦・佐藤優著)、岩波新書「安保条約の成立」・「集団的自衛権とは何か」、岩波文庫「昭和天皇・マッカーサー会見」(いずれも豊下楢彦著)と(読了していないものもありますが)進みました。昨年、日本にあって選挙(国民の意思)による初の政権交代を経験いたしました。しかし、今、猛烈な勢いで、「巻き返し」が起こっています。その巻き返しとは何でしょうか。自民党のそれではありません。その力は、もはや、ないでしょう。しかし、自民党の背後にある(あった)力、これこそ、戦後の国家体制(戦後レジーム=「国体」)であり、それこそは、私どもの教会が戦ってきたものです。日本国憲法と何よりも改悪される前の教育基本法を改悪(もしくは解釈改憲)する勢力に他なりません。

   今年1月10日の週報の「祈りの課題」から、今週も沖縄米軍基地の辺野古への移転問題を掲げています。それまでは、「憲法改正阻止、新政府のため」の祈りが記されていました。(もとより、「祈祷のしおり」では、国内外の様々な課題を挙げています。)今回、詩編第122編を読みながら、改めて、現代世界の究極的課題が、日本にあっては、「辺野古」の問題にこそ、凝縮あるいは収斂されるのだと気づかされた次第です。
   イスラエルとパレスチナの問題。ここに、世界の脅威、恐れ、不安が結晶化しています。アメリカのテロとの戦争とは、そこに行きつきますし、日本の米軍基地の問題(アメリカ軍の日本占領による天皇制の維持・・・、昭和天皇による日米安保の推進・・・、官僚による日本支配・・・。)にも行きつきます。現代もまた、現代こそ、「エルサレムにまことの平和が実現されること」を希求しています。教会は・・、祈りから始まります。

★   伝道の課題は、「日本人の聖化」を含むと、かつて記しました。また、伝道と教会の究極の課題は、平和の実現にあるのですから、歴史を学ぶことは当然すぎることですが、現実社会への深く、正しい洞察を得ることも又、教会の大きな課題であることを改めて思わされます。天国は襲われているのですから。(マタイ11:12)

☆  ○○兄が逝去され、ひと月が経ちます。「葬式」仏教のように、「故人のために、営みをしなければ…」などということは、まったく空虚です。しかし、天を仰ぎ、天上の礼拝式との交わりを常に意識することは、逝去者を送り出した私どもの、-慎重に表現しなければなりませんが-、「特権」だと思います。