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「神の前に悔い改める人の幸い」

「神の前に悔い改める人の幸い」
2010年11月24日
テキスト マタイによる福音書 第11章20-19節 

【それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
また、カファルナウム、お前は、
天にまで上げられるとでも思っているのか。
陰府にまで落とされるのだ。
お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」】

本日の説教題には、「幸い」という言葉があります。しかし、今、朗読しました主イエス・キリストの説教の中には、幸いという言葉は、一つもありません。私は今、皆さまの眼の前に、主イエスの御顔が鮮やかに浮かびあがる事を願いつつ、主イエスの説教を朗読いたしました。いったい、どのような表情をなさったのでしょうか。ここには、主イエスの実に厳しい叱責の言葉が、それだけが語られています。大変険しいお顔つきで、叱っておられたに違いないとわたしは思います。同時に、その叱られるお姿の中には、同時に悲しみが込められていたと思います。そのみ声は、呻かれるようなお声であったであろうと思います。

私どもは、主イエスの山上の説教を学びました。とりわけ、八福の教えにおいて、繰り返して、「あなたがたは幸いである!」という宣言がなされたことを思います。「あなたがたは幸いである。心の貧しい人たち。」「あなたがたは幸いである。悲しむ人たち。」幸せな人々よというギリシャ語は、マカリオイです。なるほど音声だけからでも、何か心地よい感じがいたします。ところが、今朝、与えられている御言葉においては、正反対です。「あなたがたは不幸だ!」「あなたがたは不幸せだ!」と断言されるのです。ギリシャ語では、「ウーアイ!」です。なるほどとこの音感、響きを聴くだけでも、呻いているのだと伝わって来ます。ウーアイとは、呻きの言葉だとも言われています。「災いだ」と訳すこともできます。主イエスは、今、声を挙げて、「あなたがたは災いだ、不幸だ」と、呻いておられるのです。一体それほどまでに、主イエスを苦しませているもの、その出来事とは何なのでしょうか。

さて、ここで、マタイによる福音書は、「それから」と記します。主イエスが、神の御言葉を群衆に語り、驚くべき奇跡を行われました。ところが、人々は、主イエスの求めに応答しませんでした。まさに、「笛吹けど踊らず」という状況でした。

この状況を受けてマタイは今、「それから」と続けるのです。主イエスは、今、人々を前に、叱り始められます。これまで、マタイによる福音書を読んで参りまして、叱られる主イエスについては記されていなかったように思います。ただ一度、第8章26節で「風と海を叱られた」という、嵐を鎮められた主イエスの力あるみ業において、読みましたが、それは自然界に向かってでした。その意味では、人々を叱られるということは、珍しいと言っても良と思います。しかし、それだけに、私どもは、ここで、きわめて厳しく叱責なさった主イエスに、きちんと向き合わなければならないと思います。しっかりとここでの主イエスの御心を悟らなければなりません。

主イエスは今、ウーアイと呻きながら、叱責されます。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。」このコラジンもベトサイダもガリラヤ湖の北にある町です。そして、この後に出て参りますカファルナウムもまた、ガリラヤ湖畔の町です。特に、私どもの心に留めるべきは、カファルナウムです。主イエスが山の上での説教を終えられて戻られたのは、他ならないこのカファルナウムの町でした。第9章1節には、こうあります。「イエスは舟に乗って、湖を渡り、自分の町に帰って来られた。」その自分の町こそ、カファルナウムです。そこにはまた、ペトロの家もあったはずです。主イエスは、まさに、この町を伝道の拠点になさっていらっしゃいました。そして、コラジンもベトサイダもその隣町に他なりません。ナザレで生まれ育ったイエスさまは、伝道の働きをこの町で始められ、この町を根城になさったのです。そして、その町で、ありとあらゆる病気や患いを癒されたのです。(9:35)洗礼者ヨハネの弟子たちに、主イエスご自身が、ご自身の力ある業、奇跡の行いをこのように要約なさいました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
まさに、奇跡です。しかも一度や二度だけの奇跡ではありません。さらに言えば、死んだ人すら生き返らせていただいたのです。あの指導者の娘の蘇生の出来事は、この町で起こったのです。

しかし、主イエスは、その町の人々が、それでもなお、本当の意味で、まことの意味での神へと立ち返ることがない現実を見たのです。神へと立ち返ることを、悔い改めると言います。これほどまでのことが目の前で起こっているのにもかかわらず、悔い改めない人々が多数派なのです。だからこそ、主イエスは、厳しく、激しく叱られるのです。そして、不幸だ、なんという不幸な町、人々かと呻いておられるのです。

ここで、「ティルスやシドン」という町について言及されています。それは、地中海沿岸にある町、異邦人の町です。何よりも、旧約聖書において、預言者たちアモスやイザヤ、エレミヤもエゼキエルも、この町でなされた悪徳、悪い行いを糾弾しました。たとえば、アモス書第1章9節にこうあります。「主はこう言われる。「ティルスの三つの罪、四つの罪の故に、わたしは決して赦さない。」主イエスは、こう仰います。「お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。」

今、目の前でなされた力ある業があの悪徳の町として名高い異邦人の町でなされたら、その住民は、「粗布」をまとう、このあらぬのとは、喪服のことです。さらに灰をかぶるとは、悔い改めというきわめて精神的なことを、目に見える形であらわす行為でした。最後の審判においては、主イエスが愛し、根城になさって働かれた、その意味で栄光に輝くようなカファルナウムより、裁き、罰は軽いと断罪されました。

カファルナウムの人々は、自分たちの町でイエスさまがなさった驚くべき神の御業を誇ります。ところが、そのような自分勝手な思いあがり、自惚れを断罪なさいます。「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」目もさめるような厳しい叱責であります。極め付きは、最後の言葉です。「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

ソドムと言えば、旧約聖書を知らない人でも、耳にすることもあるほど有名な町ではないかと思います。ソドムとゴモラの町は、特に性的な意味で不道徳が横行していました。「ソドムとゴモラのような」と言えば、新宿歌舞伎町とか夜の町とか歓楽街を指す、悪い意味での枕言葉になっているかと思います。創世記第19章に記されています。神は、御使いを遣わしてその行状をご覧になられます。アブラハムは、神と正面から向き合って、有名な、やりとりをします。

まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」

アブラハムは、50人から始めて、おかしな言い方ですが、神さまに向かって、値切るのです。交渉します。50人に5人足らなければどうですか。40人なら、30人なら、20人なら、そしてなんと、最後には、10人ならと食い下がります。主なる神は、こう約束されます。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」

しかし、聖書は、告げています。この町は、神への不信仰と堕落の故に、神に壊滅的に滅ぼされたのです。現実的には、火山の大噴火によって、生き埋めになってしまったのでしょう。つまり、そこに、神を信じる正しい人がたったの10人もいなかったと聖書は告げているのです。

主イエスは、誰もが知るこの極めて有名な裁きの物語をここに挙げられました。ひとえに、ティルスやシドン、カファルナウムに、悔い改めるようにと求めためです。主イエスは、ソドムの町で、主イエスが力ある業を行ったのなら、彼らは神の御前に自分たちの不信仰と不従順の故に、社会生活も家庭生活も個人の生活も、すべて道徳的に頽廃してしまったことを認めて、悔い改めたはずだと語られました。主イエスがその町でなさったことは、神の国の到来を見せるにそれほどまでに、十二分に力あるお働きだったのです。

ここで、あらためて私どもは、いったい主イエスが何のために、数多くの奇跡を行われたのか、その理由を弁えさせられるはずです。ひと言でいえば、人々を悔い改めさせることです。悔い改めに導くために、奇跡がなされたのです。そこでも、主イエスの説教の要約を思い起こします。もう、皆さまはそらんじることができるかと思います。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」第4章17節です。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これこそ、主イエスの説教の要約なのです。そして、同時に、その主イエスがなされた数多くのみ業の目的、目標なのです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

それは、ここに天国が始まっていること、天国の主、王であられるイエスさま、約束されたメシア、キリストが地上に来ていることの証拠なのです。したがって、この天国へと招き入れるメシアが来られたのだから、人々は、悔い改めてこの天国へと入れさせていただくことができるのですし、入らなければならないのです。

ここでもいささかくどくなるかもしれませんが、日本語の「悔い改める」という言葉、そのニュアンスは、反省するということであろうかと思います。しかし、聖書の悔い改めとは、直訳すれば、「方向転換する」となります。人生の方向転換です。人生の目的の転換です。ここでは、もうはっきりしているのです。目的地への転換です。天国を目的地に据える、これこそ、聖書が言う、主イエスが言う、悔い改めなのであります。

ところが、群衆は、天国へ入ろうともしません。悔い改めないのです。確かに、奇跡を行うイエスさまの後に大勢の群衆がついて来ました。まさに第9章の35節以下で学んだように、主イエスは、飼う者のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている彼らの姿をご覧になられました。そして、深く憐れまれたのです。まだ覚えていらっしゃる方もいるかもしれません。ギリシャ語のスプランクゾマイ、はらわたを痛めるような、はらわたがちぎれるような痛みを伴う激しい感情で愛されたのです。本当に、主イエスは、この群衆を愛しておられるのですし、今もそれは変わらないはずです。

しかし、群衆は、そのような主イエスのご愛を悟りません。お心を知ろうとしません。彼らは、奇跡を行って見せてくれる自分たちにとってまさに好都合な救世主の登場を喜んだのです。厳しい言い方をすれば、楽しんだのです。この人が、自分たちの社会にあらわれてくれたおかげで、自分たちの生活も、自分たちの不安も、自分たちのあれこれの不足も、この方が満たして下さるはずだと期待する、期待したのです。もとより、群衆は、主イエスを嫌っていません。違います。群衆は、主イエスを歓迎しています。嫌ったのは、指導者たちだけでした。人々は喜んでいるのです。

しかし、主イエスは、そのような群衆を、評価なさいません。何故でしょうか。それは、彼らが主イエスを利用したいだけだからです。彼らは、神の御前に悔い改め、あの洗礼者ヨハネのように真実に悔い改め、天国に入ることをこそ、目標にして生きるべきなのにもかかわらず、目指しているのは、言わば現世利益です。イエスさまを信じたら、ついて行けば、悪いことはない。自分の人生から困難や試練、不足や悲しみはどんどん少なくなって行く、自分たちは、このイエスさまのおかげで豊かなものとなる。そのように、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町の人々を見抜かれたのです。

このことは今朝、キリスト者にこそ、深く問いかけられているはずです。教会に生きているなら、私どもはキリストの力ある業、その奇跡を体験しているはずです。少なくとも名古屋岩の上教会で数年、教会生活を続けた方なら、言い逃れられないはずです。豊かな聖霊のお働きをそこかしこに見ることができるはずです。ところが、です。ところが、それにもかかわらず、真実に悔い改めようとしないことが起こる、起こりえます。神を畏れないことが、起こるのです。それは、くどくどと説明する必要はないはずです。今、カファルナウムの人々の心の動きを、私どもは自分と重ねることができるはずだからです。教会に献身しようとしない。教会に深く仕えようとしないなら、そのように、適度な距離感?、おかしな表現ですが、自分の生活に支障がでないような、自分の経済や家庭や、計画に支障にならない程度に・・・、そのような思いがなお、こびりついているなら、私どもこそ、悔い改めを求められます。主イエスがここで、どれほどの深い思いで叱り始められたのか。今朝、私どもが仰ぎ見る主イエスのお姿は、このお姿であります。

さて、しかし、私どもは叱られる主イエスの御顔をどのように仰ぎ見るのでしょうか。そのみ声をどのように聴きとれるのでしょうか。私は、ここでも、いへ、ここでこそ、あのスプランクゾマイを思い起さなければならないと確信します。主イエスが、叱っておられる。それは、単に感情的に叱っておられるのでしょうか。決して違います。自分の怒りを発散させておられるのでは断じてありません。主イエスは、叱ることによって、「悔い改めよ。天国に入れ」と招いておられるのです。ご自身がはらわたを痛めるような激しい愛をもって、叱っておられるのです。

「もうあなたがたはダメだ。もう、見捨てる。もう、あなたがたの町を出て行く。勝手にしなさい。神の裁きを受けるその時を待っていよ。」そんな思いは微塵もありません。その正反対です。神の怒りと裁きを受けてはならない。そのままだったら、確実にそうなるけれども、そうなってはならないのだ。だから、悔い改めて、自分の生きる方向を変えて、神のために生きなさい。神を利用するのではない。真実な人間の生き方、神の栄光のために生きて行きなさいと、激しく、険しく、叱って下さるのです。

この主イエスのお叱り、そこにこそ、真実の愛があるのです。わたしは牧師として、あらためて思います。正直に申し上げますと、「ああ、もう、この兄妹に、言ってもダメだ」そのような事を思わないことがないわけではありません。きちんと説教で語っている。個人的にも指導した。牧師の責任は果たしているはずだ。そう思うのです。そうなると、もう、人間関係を悪くしてまで、何か、言うこともないではないか。もう、仕方がないではないか。それは、主イエスのこのお叱りの道とは、ずれて行きます。愛がないから、真実に、叱らない。叱れない。これは、我々の親子の関係にも、浸透しています。教師も、生徒をしからない。大人も子どもたちを叱らない。叱らなくてもよいような子になっているからではないように思います。そこに、真実な、深い愛のかかわりが失われているのではないでしょうか。

今朝の主イエスの裁きの説教を聴いた私どもはどうすべきでしょうか。もし、ここで悔い改めなければ、私どもはいったい、どうなるのでしょうか。

それと重ね合わせて、このコラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町の人々は、どうなったのかと考えて見たいと思います。実は、主イエスは、このように厳しく叱りながらもなお、このガリラヤ湖畔の町々で語り続けられました。お見捨てにならなかったのです。しかし、やがて、それができなくなりました。何故でしょうか。主イエスが捕えられてしまったからです。十字架で殺されてしまったからです。

ヨエル書の第2章にこのような御言葉があります。「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け。』

イスラエルの人々は、悔い改めを表現する手段を持っていました。断食であり、灰をかぶって祈ることでした。また、ここで言われているように、自分の着ている衣を引き裂いたのです。ところが、ヨエルは、見た目の悔い改めは意味がない。形式的悔い改めは、神に通用しないと厳しく指摘し、批判したのです。「心を引き裂け」とは、精神の大変な苦しみ、痛みを伴うはずです。しかし、悔い改めるとはすぐれて私どもの内面の問題、課題です。その内面、心において痛みが伴うとき、私どもの悔い改めは真実なものとなるのです。

しかし、わたしは、このヨエルの預言の言葉を、本当に、なさったのは、神御自身、つまり、御子なる神イエス・キリストご自身でしかなかったのではないかと思います。

キリスト・イエスさまは、私どものこの不従順、不信仰、悔い改めない罪の刑罰を代わりに受けて下さるのです。滅ぼされるべき私ども、見捨てられるべき私どもをお見捨てにならずに、ご自身が、父なる神からの刑罰を受けられ、お見捨てになられる道を選びとられたのです。主イエスさま、そしてこのお方を私どもに送られた父なる神御自身こそ、心が引き裂かれたのです。その痛みをこらえてくださったからこそ、私どもの罪は、あの町の人々の罪も又、赦される道を切り拓かれたのです。

ご復活された主イエスは、あらためて、弟子たちとの出会いの場所、主イエスの町に赴かれました。この町は、見捨てられていないという証拠です。こうして、あの弟子たちから真実の悔い改めが始まります。こうして、世界に悔い改めの運動が始まり、広がりました。弟子たちも、この町の人々の中からも、「悔い改めよ、天国は近づいた」との招きに真実にあずかって、自分たちも又天国へと人々を招く運動が起こされたのです。キリストの教会が形成されて行ったのです。

今、私どももまた、悔い改めを新しくしたいと願います。長いキリスト者の生活を重ねられた方ほど、どれほど深く悔い改めをしなければと思います。まだ、主イエスを信じていない人が悔い改めたらよいなどとは、決して言えません。あるいは、まだ、洗礼を受けて日の浅い方こそ、深く、徹底的に悔い改めるべきだなどとも言えません。何故なら、神の恵みを私どもこそ、豊かに受けてきたはずだからです。

今朝から待降節が始まります。主イエスのご降誕を待ち望む季節です。そのためもっともふさわしい態度こそ、悔い改めに他なりません。悔い改めの恵みを求めましょう。不従順な信仰の生活。不徹底な教会生活。そのようにして、まさに、主の怒り、主の裁きを受けるべき罪人であることを認め、そのおぞましさ、その審判の恐ろしさに真実に震えおののきましょう。そして、主イエス・キリストの十字架の愛、真実の神の愛に招かれていることの光栄を悟り、いよいよ、神を中心にする人生、自己中心の生活からキリスト中心、教会中心の生活へと進んで参りましょう。日ごとに悔い改める、自分から神へと、この世から天国へと、方向を転換し続ける、まことの信仰の生活へと、進んで参りましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもの罪が支払うべき刑罰を、あなたは御子なる神、私どもの主イエスさまにおいて、支払って下さいました。主イエスは、私どもを極みまで愛し抜いて下さいました。その恵みの中で、私どもの自己中心の罪は砕かれ、頑なな、利己的な心は溶かされます。どうぞ、まことの悔い改めを、先ず、私ども教会から始めさせて下さい。そして、その救いの恵みがどれほどすばらしいものであるかを、この名古屋の町、緑区の人々に証させて下さい。アーメン