「主イエスのふところに飛び込む人の幸い」
2010年12月5日
テキスト マタイによる福音書 第11章25-27節
【そのとき、イエスはこう言われた。
「天地の主である父よ、
あなたをほめたたえます。
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、
幼子のような者にお示しになりました。
そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
すべてのことは、父からわたしに任せられています。
父のほかに子を知る者はなく、
子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。】
今朝、お読みした主イエスの御言葉は、主イエスの祈りです。私どもは、山上の説教において、先ほどもご一緒に祈りました、主の祈りをお教え下さいました。イエスさまがどのように祈られるのか、私どもの模範とすべき祈り、祈りの原型とすべき祈りを教えて頂きました。しかし、今朝は、私どもに教えるために祈りではなく、主イエスの言わば、いつも祈り、普段の祈りがここで切り取られ、私どもに示されています。
そもそも、祈りとは、まさにプライベートなものであります。神とわたしとの間に、誰も入れないほど、入って欲しくないような、そのようなかかわりが、祈りの本質にあるはずです。隠れたところで、まさに神さまと二人きりになる、そこに祈りの世界の本質があります。ですから、人の前で祈る時には、自分のプライバシー、プライベートな部分はカットされて、共同の祈りとして整え直して、捧げることになる、それが、教会の祈りの生活の基本かと思います。
さて、今朝は、この主イエスが祈られた祈りの言葉を通して、福音の真理を学びたいと思います。最初に、主イエスの祈りの言葉の中に、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して」とあります。いったいこれは、どのような意味なのでしょうか。これまでの主イエスの御業を振り返る時、私どもは、ただちにご自身の教えを誰かには隠し、誰かには明らかにするという仕方を決してお取りになられていないことに気づけるはずです。主イエスは、ご自身の説教、「悔い改めなさい。天国は近づいた」と誰にでも、分け隔てなく語られたのです。決して、こそこそと語ったり、奇跡を行ったりしたわけではありません。まさに、公然と語られ、誰の前でもはばかることなく語られました。
それなら何故、隠されていないのにもかかわらず、「隠された」と表現なさるのでしょうか。それは、救いは、徹底的に神の御業なのだという聖書の信仰を明らかにするためです。うっかりすると、私どもは、誰でもちゃんと筋道たてて神の御言葉を学べば、信じることができると考えがちではないでしょうか。しかし、現実は、そうではありません。確かに、学べば分かります。キリスト教信仰、三位一体の神、イエス・キリストがどのようなお方であり、その教えの特質などこれらを理解していただくことは、そう難しいことではないと思います。しかし、頭で理解することは、信仰そのものではまったくありません。信じるとは、御言葉を行うことに他なりません。実際に、イエスさまのことが頭では分かっているつもりなのに、実際には、従って新しい人生を始める人はどれほど少ないかを、私どもは嫌というほど知らされています。
ですから、先週の祈祷会でも学びました。私どもは自分が救われたこと、信仰が与えられたことに驚かざるを得ないのです。そして、感謝せざるを得ないのです。父なる神が、このわたしに御自身を明らかに示してくださったからです。わたしが、特別に優れていたからではありません。今、ここにいる一人、ひとり、まだ、洗礼を受けていない方ももちろん、すべてが、神の選び、神さまに選ばれ、導かれ、手をひかれて、ここにいるのです。その有難さを思わずにおれません。
同時に、私どもの救い、信仰においても、主権者はひとり神のみ、父なる神にのみあることが、ここでもはっきりと示されているはずです。信仰は、神からの賜物であって、私どもの側でつくりだしてみせたり、決定してみせたり、権利を主張したり、神にまさって、すぐれた知恵など持ち合わせていないのです。
さて、さらに深く学んでまいりましょう。主イエスは、「知恵ある者や賢い者には隠して」と仰います。これは、文字通り受け止めるべきではないはずです。これは、鋭い皮肉です。厳しい批判です。自分のことを知恵ある者、賢い者と考えている人のことを、批判する言葉です。具体的には、ファリサイ派の人々、そして律法学者たちを指しています。彼らは、神を信じ、誰よりも熱心にその教えをわきまえ、守っていると自負しています。そして、自分たちこそは、神の知恵を受け、神から賢さという賜物を受けているとうぬぼれていたのです。それに比例して、彼らは、一般の人々、世間の人々をいよいよ見下していました。イエスさまの弟子たちなどは、まさに、宗教的教養、神学的教養にかけた人々であり、軽んじられて当然だと考えたいたわけです。
ところが、主イエスは、何よりも父なる神は、「幼子のような者」にこそ真理を、奥義を明らかにされます。新約聖書の中で、この主イエスが語られた御言葉は、実は、極めて重要です。第18章1節を学ぶときに、丁寧に学びたいと思いますが、こうあります。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」
子どもとは、幼子のことです。心を入れ替えなければ、幼子になれないのです。自分を低くしなければ天国に入れないというのです。決定的に重要なことです。もし、「知恵ある者や賢い者」に留まっていれば、私どもは救われないのです。天国に入れないのです。
幼子とは、自分を低くする人のことを意味しています。それならいったい、そのような人は、どこにいるのでしょうか、あるいは誰をイメージしたら分かりやすいのでしょうか。それこそは、まさにイエスさまにおいてこそその姿を見ることができるはずです。何故なら、このイエスさまは、神の御子であるにもかかわらず、徹底してへりくだられ、謙遜になられて、父なる神に従順に従い抜かれました。いついかなる時も、神を求め、天の父を求め、頼り、委ねて生きられたのです。そこに、幼子である大人の模範を見ることができるのです。
その意味で、来週、学ぶ予定ですが、主イエスがご自身を「柔和で謙遜な者」と自己紹介なさったのは、まさに、まったくその通りであると言わざるを得ないのです。何故なら、イエスさまは、神の御子でいらっしゃるにもかかわらず、その御子の力を行使することを、一切、父なる神に委ねていらっしゃるからです。主イエスは、徹底して、父なる神のご目的、この地上に神の国が到来していること、その御国を拡大するために、奉仕なさるのです。父なる神に従う思い、意図の中で、その力を行使なさるのです。また、それを、受け入れるのは、神のみ、父なる神のみなのです。
このことから、私どもキリスト者は、主イエスの謙遜から学ぶべきであります。キリスト者の謙遜とは、何かがここで鮮やかに示されています。それは、父なる神に従順であるということです。それが、謙遜なのです。私どもは、聖書に教えられていながらも、どうかするとこの謙遜を、一般の考えと同様に、人との関係において考えがちです。しかし、主イエスが身を持ってお示しくださり、お教え下さった謙遜とは、神への服従です。
さらに、「知恵ある者や賢い者には隠して」御言葉に込められた真理を、考察致しましょう。このことは、神の言葉の真理そのものにかかわることではありませんが、一般の学問、特に心理学において、常識とされていることがあります。それは、人間は、自分の興味と関心にしか、自分自身の切羽詰まった必要のことしか知ろうとしないという傾向性があります。これは、一つの有名な実験ですが、一つの映像を見させられます。そこに登場するのは、6名の男女で、三名ずつ一つの色のバスケットボールをパスし合うのです。この画像を見せる前に、白なら白のボールが何回パスされたのか、数えて下さいとコメントが入ります。そうして、一生懸命、指定された色のボールに目を注ぎます。そして、その後に、「あなたはゴリラに気づきましたか?」というテロップが入ります。そう言われた後に、早送りで画面が戻って行くと、黒いきぐるみのゴリラがこの6名の人たちの中に割り込んで、踊っているのです。ところが、大抵の人は、ボールが何回パスされていたのかに集中している人には、ゴリラが見えないのです。
主イエスは、救いの真理、天国の真理を「隠された」と仰いました。かつてのわたしは、このように考えておりました。「そんなのはおかしいではないか。そもそも、すべての人が救われるようにすべきではないか。神が隠したのだというのだから、その責任は神にこそあるのではないか。」しかしまさに、そのように考えるわたしの考えこそ、この世の知恵、常識に基づくものに他ならないことは、主イエスに救われて初めて分かったのです。いへ、正直に申しますと、ただちに分かったというよりは、聖書を読み進め、信仰生活の深まりと共にだんだんと理解できるようになったのです。人間の知恵や経験をもとにして神についてあれこれ議論することこそ間違いであって、聖書に教えられ、導かれ、規定されつつ神さまについて思いを巡らすこと、自分の考えや経験に照らして神についてアレコレ議論することは、まったく見当違いなのです。
自分の知恵に頼っているときには、神の現実が目のまえでなされているのですが、目に映らないのです。気づけないのです。関心が、神になく、自分自身にだけあるからです。わたしは、主イエスが、「隠されている」と仰せになられたことの中に、神が隠されたということと同時に、気づこうとしない罪、自分自身の知恵や経験に頼ろうとする人間側の責任を思うのです。
次に、「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」主イエスはここで、「知恵ある者や賢い者には隠」すことこそ、神の御心に適うことだと強調なさいました。わたしは、この御言葉を読みながら、すぐに使徒パウロのコリントの信徒への手紙Ⅰ第1章18節以下を思い起こしました。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」
パウロは、ここでこの世の知恵が、神の前にはまったく愚かなものであり、通用しないことを高らかに宣言しました。この世の知恵を、積み重ねて行くこと、深めて行くことでは、決して天国に入れないことを、鮮やかに示されました。天国は、この世の競争主義社会のように、戦い抜いて、競り抜いて自分の力や賢さで獲得できないことが鮮やかに示されたのです。むしろ、そのようなこの世の行き方、あり方とは真逆であることを明らかになさることこそ、神の御心なのです。この世の知恵に頼る人には、神は真理を隠されるのです。人間側から言えば、この世の知恵に頼る人には、神の福音の真理は理解できないのです。そもそも、価値をみいださないし、大切に思わないのです。
さて次に、何よりも、主イエスの祈りの全体から学びましょう。主イエスは先ず、神をこのようにお呼びします。「天地の主である父よ。」これは、一回の説教で語ることなど、決してできません。現在、祈祷会ではニカヤ信条を学び始めています。この個所は、再来週、取り扱います。それでも30分の学び一回では到底、扱えません。ニカヤ信条の父なる神への告白にこうあります。「天と地と目に見えるもの見えざるものの創造者にして、すべての主権を持ちたもう唯一の父なる神を信ず。」この告白は、主イエスがここで祈られた祈り、神への呼びかけそのものです。父なる神こそが、世界の主なのです。あるじなのです。ところが、私どもは、それを認めません。逆に、世界のあるじとは、人間にほかならない、つきつめて言えば、自分じしんにほかならないかのように思いあがるのです。しかし、教会とキリスト者は真実の意味で、神のみが主権者でいらっしゃることを忘れてはならないのです。すべての主権を持たれるお方、主なるお方は主イエス・キリストの父なる神のみなのです。また、その意味で、イエス・キリストこそ、主なのです。この真理が、貫かれるなら、私ども人間の知恵で、神のお心、ご計画、知恵をアレコレ議論することは、的外れもはなはだしいことに気づけるはずです。
さて次に、この祈りの中で、主イエスが、神を父とお呼びするお姿を見れば、もはや決定的に、イエスさまが神の独り子でいらっしゃることが明らかになると思います。主イエスは、この祈りの中で、私どもに、ご自身と神との関係を鮮明に示されました。
「すべてのことは、父からわたしに任せられています。」この祈りの言葉の中に、まさに主イエスが誰であるかが、鮮明にされています。マタイによる福音書の中では、極めて珍しい、例外的とすら言えるほどの決定的な自己紹介です。つまり、私どもの教会の名称になったあの第16章18節、使徒ペトロが、イエスさまに向かって、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と告白した言葉の源にある主イエスの自己紹介です。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく」つまりは、ご自身は、父なる神と等しい存在である、つまり、生ける神の御子なのだという宣言がここで公にされたのです。
しかもそれは、主イエスの祈りの言葉のなかで、私どもに聴きとれるという仕方、方法になっています。ここにこそ、私どもが悟るべき奥義があります。今朝、与えられている御言葉は、主イエスの説教ではありません。これは、祈りです。先ほど私は、主イエスは、公然と語られたのであって、こそこそ隠れて語られたのではないことを確認いたしました。しかし、主イエスは、ここではっきり「隠されました」と語られています。
私どもは、この礼拝式の中で、まさに祈りを捧げています。この礼拝式全体が、祈りそのものなのです。一つ一つのプログラムがすべて祈りを構成しているのです。言わば、主の日の礼拝式は大きな祈りです。共同体全体でささげる大きな祈りなのです。この大きな祈りの中のプログラムとしても祈り、祈祷があります。牧会祈祷そして、献金感謝の祈祷です。祈りは、まさに神に向かって捧げられるものですが、同時に、それを主にある仲間たち、キリスト者兄弟姉妹が共に聴いています。その事を忘れて祈ることは、ふさわしい祈りではないのです。献金感謝の祈りもまた、祈る個人の思いだけを祈るのではなく、教会を代表しているわけです。そして、それは、信頼の祈りでもあります。神への信頼は言うまでもありません。しかし、それだけではなく、同時に、一緒に祈っている仲間、祈りを聴いてくれている仲間たちへの信頼があるはずです。したがって、自分は教会員皆の前で、滔々と、流れるようには祈れない。だから、献金の奉仕は当てないでほしいというように逃げることは、名古屋岩の上教会では基本的にできません。かっこうを付ける必要など、さらさらありません。その意味では、共に祈ることができるということは、すでにそこに、神の家族であるというお互いの安心感、信頼感があるということでしょう。
主イエスは、今、ここで何をしておられるのでしょうか。祈っておられます。つまり、その場に居合わせた人々、弟子たちへの信頼があるのです。だからこそ、主イエスは、この祈りの中で、ご自身がどなたであるのか
が、他のどの場面であるよりも、鮮明に証しなさるのです。
その意味で、主イエスが、福音の真理は、彼らに隠されているという表現もまた、よく分かってくるだろうと思います。つまり、救いの真理、御言葉の恵み、その真理、奥義は、主イエスを愛し、主イエスのふところ近くに飛び込んで、その祈りの生活までご一緒させていただくような人でなければ、分からないということです。
先週、伝道新聞が新聞折り込みされました。今週は、ひとりの仲間がラジオ放送「キリストへの時間」で証しの収録がなされます。1月に放送予定です。つまり、信仰を公に語る、キリストを公然と語り、証なさるのです。12万人が聴取していると言われます。ただし、応答する人、つまり、放送を聴いて教会に行って、洗礼を受けたと言う方は、数えるほどです。今も諸教会は、ラジオやインターネット放送で福音を公にしています。しかし、主イエスを信じるためには、やはり、ラジオやパソコンから離れて、教会に来て頂くことが必要です。ここで私どもと一緒になって神の言葉を直に聴いて下さることが必要不可欠なのです。主イエスの真理、福音の真理は、主イエスのふところに飛び込むことが求められるのです。それは、まさに、今日行われている主イエスの祈りの現場に立ち合うようなものなのです。そして、それこそがまさに私どもの主の日の礼拝式に他なりません。
そのような意味において、確かに福音は隠されているのです。福音は大量生産をし、大量消費をする、そして大安売りをするような商品ではありません。神の真心、神御自身の真実に触れることです。
先週、神御自身がその心を引き裂かれたのだと、御言葉を聴きました。私どもを神の怒りと裁きから救いだし、苦しまれたイエスさまと父なる神さまの愛の真理ですから、それほどまでのことを私どもにしてくださったのですから、福音を「粗末」に扱うことはできません。まさに、「神さま、どうかお救い下さい、どうぞ分からせて下さい、何としても信じさせて下さい、心から、従わせて下さいという、へりくだりの思い、志がなければ、天国は隠されるのです。そんな難しいことは抜きにして、誰でもバンバン天国に入らせて欲しい・・・、これは、まさに人間の、自己中心の、傲慢な知恵、まさに神の前に愚かと断罪される知恵でしかありません。
その意味で、今私どもがここで、主イエスの祈りを直に聴く事が出来る幸いをどれほど感謝したらよいのでしょうか。私どもは、この礼拝式において、主イエスのふところに飛び込んでいるのです。そのようにして、主イエスの祈りをも聴くことが許され、主イエスと父なる神との交わりそのものの中に、招かれているのです。驚くべき恵みの御業です。そのようにして、主イエスの父かなる神は、今や、わたしどものお父さんなのです。御子と父との間に、入れさせられている私どもは、正真正銘、神の家族です。
「親子水入らず」という言葉があります。このときの水とは、何でしょうか。「水臭い」という言葉があります。親しいはずなのに、他人行儀なことをすることです。水とは、他人の意味です。親子の間は、まさに、血が通う親しさがあるということでしょう。主イエスは、今ここで、私どもをその親子の会話の真ん中に、親子の絆の真ん中に、お招き下さいました。私どもには少しも隠されていません。この世界に、これにまさる光栄があるでしょうか。この恵みの事実、これこそ、私どもの救いなのです。
このような驚くべき救いの恵みを、御子なる神のイエスさまが、他ならないこの私どもにお示しくださったのです。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」今、主イエスによって救いへと選ばれ、教会へと招かれ、神の真理、福音の真理を教えられている私どもです。このお陰で、私どもは今や、何の違和感もなく、天地の主なる神を、私どものお父さま、わたしのお父さまとお呼びできるのです。ただ、神に心から感謝する以外にありません。
祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの天の父よ。私どものような高慢な者、自己中心な者にもかかわらず、福音の真理をお示しくださいましたことを心から感謝致します。どうぞ、この真理の中に、いつも留まらせてください。イエスさま、あなたと御父の間に、私どもを招き入れて下さいました驚くべき恵みを、心から感謝し、いよいよ、あなたに対する信頼と愛と服従とを富ましめてください。あなたの子、神の子とされた恵みのなかで、毎日を感謝しながら、あなたに喜ばれる知恵をもって生きることができますように。