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「どんな大人になりたい?」 ファミリークリスマス

「どんな大人になりたい?」
2010年12月12日 ファミリークリスマス礼拝式
「子どもカテキズム」問い一
テキスト マタイによる福音書 第11章25-27節 
そのとき、イエスはこう言われた。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」

今日は、ファミリー礼拝として捧げています。皆さんは、どのような大人になりたいでしょうか。ある情報会社が、子どもたちに、「大人になったらどんな仕事に就きたいのか」というアンケートを毎年、とっています。今年のトップファイブの第一位はスポーツ選手、そしてパティシエ、保育士、看護師と続いて公務員が5位だということです。

さてしかし、わたしが皆さまに質問したいのは、「あなたは、将来、どのような職業につきたいですか」ではありません。「あなたは、どんな大人、どのような人間になりたいのですか」ということです。この説教に「どんな大人になりたい?」という題をつけました。もしかすると、今日の説教は、子どものための説教なのだなと思われた方も少なくないと思います。しかし、違います。もちろん、子どもたち、中学生、高校生そして大学生たちにも聴いてほしいです。しかし、そのような若い人たちだけの課題では、ありません。

あらためて問います。「あなたは、どんな大人、どのような人間になりたいのですか」そんなことは、考えたことがないと思う人も少なくないかもしれません。けれども実は、とても大切なことです。どんな職業に就くのかということよりも、もっと大切なこと、実は、人間にとっても最も大切なことなのです。「どんな大人になるのか」ということは、それは、言い換えれば、「どんな人間になるのか」ということです。

「人生は出会いで決まる」という有名な言葉があります。人は、誰と出会うか、誰と親しくなるか、誰を友だちにするか、それによって、決定的な影響を受けるということです。これは、自分のことを考えても、本当のことだと思います。何よりも、人は、自分以外の誰かと出会わなければ、生まれてくることはもちろん、今日まで生きてくることも、決してできなかったはずです。誰かと友だちになること、親しくなること、つまり、かかわること、かかわってもらうこと、育ててもらうことがなければ生きることができないのです。改めて、お父さん、お母さんに感謝することが大切だなと思いませんか。また、家族や兄妹、そして友だちが大切だと思います。このことが、ちゃんと分かってくると、人間は、一人ぼっちでいるままなら、決して、本来の人間、ふさわしい人になることはできないということが分かるだろうと思います。人は、出会いの中で自分自身を育てて行くわけです。自分担って行くわけです。

「人間」を、漢字で書くと「人と人との間」と書きます。人間とは、ひとりぼっちで存在するのではなくて、わたしとあなた、人と人とが向き合ってこそいきるものなのだということが示されているのだろうと思います。そもそも、「人」という漢字は、人がお互いに支え合って立っている姿を現しているのだと言われています。
キリスト教の思想に大きな影響を与えたラテン語で人間のことを、「ペルソナ」と言います。もともとは、「仮面」、顔につける仮面という意味があるのだそうです。英語の「パーソン」「人格・人間」のもとになった言葉です。そして、このペルソナと言う名詞は、もともとは、「ペルソナーレ」、響き合うという動詞から派生したのだそうです。つまり、人はお互いに顔と顔とを向き合わせ、心と心とを響きあわせてこそ生きられるということなのだろうと思います。

つまり、アジアの漢字の文化もヨーロッパ言語の文化も、人間とは、お互いに向き合い、心を響き合わせる関係において、人となるのだということを明らかにしているのだということです。言わば、全人類共通の知恵であり、理解なのです。人は、誰かと心を通わせ合い、その人と心と心で対話することが必要不可欠なのだというわけです。

さて、来週は降誕祭、クリスマスの礼拝式をここで捧げます。今朝も、待降節の第3主日、クリスマスを祝う準備の最後の週です。そもそも、クリスマスとは、何ですか。それは、天の神さま、私たちの天の父なる神さまが、地上に生きる私たちのところに降りてきて、わたしたちの立っているこの地上にいっしょに立たれたということです。天にいらっしゃった独り子の神さまが、人となってお生まれ下さって、イエスさまとなってくださって、私たちの真ん中に宿られた、住まわれた出来事のお祝いです。

旧約聖書から新約聖書まで、そのすべてを通して、聖書が切々と語り続け、示し続けている真理があります。それは、「人間は、人間どうしだけでは生きることはできませんよ。」という真理です。「人間が本当の人間になるためには、人間へと成長してゆくためには、人間との出会いだけでは間に合いませんよ。」「人間が、本当の人間になるためには、本当の大人になるためには、神さまとの出会いが絶対に必要なのですよ。あなたの顔を神さまへと向かわせ、神さまの御顔と向き合うことがなかったら、人は、本来の人になることはできないのですよ。」ということです。

何故なら、わたしたちはもともと、神さまに造られているからです。言い換えれば、神さまの御顔に向き合うようにと造られているからです。旧約聖書創世記の第2章にこう記されています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」つまり、人は、神さまと向かい合うとき、いのちを与えられる生き物だということです。それこそが、人間の人間らしさ、人間を他の動物との違いなのです。

天のお父さまは、その最初から、私たち人間に語りかけてくださいました。私たちが神さまを、天を仰ぎ見るようにと呼びかけ続けて下さいました。つまり、「わたしとお話しをしなさい。わたしと対話しなさい。わたしと向き合いなさい。」ということです。ところが、人間は、眼をそらしました。いつも下ばかり向いてしまう者になってしまったのです。それを聖書は罪と呼びます。

人間は、下を向くか、せいぜい、横にだけ目を向けるようになってしまったのです。こうして、人間は自分がそもそもどんな動物なのか、どんな生き物なのか、人間はどこへ向かって生きて行くべきか、どんな人間にならなければならないのか、忘れてしまいました。まったく分からなくなってしまいました。

それは、昔話ではありません。みんなで、「僕は、間違っていないよね。わたしはいけてるよね。大丈夫だよね。皆が、すごい、すばらしいと思っている方に進んでいっているよね。」みんな、きょろきょろと周りを見渡しながら、人々に調子を合せながら生きているのです。こうして、結局、疲れて、自分の居場所がどこなのかも分からなくなってしまったのです。けれども、2000年前、そんな下ばかりを向いて、横ばかりをきょろきょろ確かめるしかしない間違った生き方をしていた私たちを、愛の神さまは、お見捨てになられませんでした。神さまを見上げようとしない私たちのところにまで、降りて来られたのです。そして、誰よりも小さくなって、弱くなって、貧しくなって下さったのです。それが、イエスさまです。わたしたちの主イエス・キリストさまです。クリスマスとは、神さまが私たちにまっすぐに向き合って下さることを明らかにして下さった日、出来事なのです。

ということは、神さまが私たちに気づかせようとしておられることは何でしょうか。それは、私たちが本当の大人になるためには、あるべき人間になるためには、このイエスさまに向き合って、イエスさまとお話しすることだと言う真理です。イエスさまと出会うこと、これこそ、わたしたち人間が本当の、すばらしい大人になって行くための道なのです。そして、そこにわたしたちの本当の居場所もあるのです。イエスさまといっしょにいること、それこそが、わたしたちの居るべき場所なのです。人間は、イエスさまによって、イエスさまとお話しすることによって、イエスさまを信じることによって、本当の自分に出会い、自分が育つのです。すばらしい大人になる道なのです。

今朝、イエスさまのお祈りを読みました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」
今、お話ししたことが分かる人、信じることが出来る人、それがここでイエスさまが仰った「幼子のような者」の意味です。子どもということです。子どもって、何歳までのことでしょうか。これは、年齢では区切れません。ただ、もとの言葉の意味からは、10歳以下です。しかし最も大切なことは、そこには赤ちゃんも含まれているということです。赤ちゃんに、イエスさまのお話しがわかるはずがありません。誰の言葉も分からないはずです。でも、赤ちゃんは、知っています。わたしたちよりよく知っていることがあるのだろうと思います。何故なら、それを知らない赤ちゃんは上手に生きれないだろうと思うからです。それは、自分はひとりでは生きていけないという真理です。だからこそ、赤ちゃんは、御腹がすいたら泣いて教えるのです。「誰か、おっぱいを飲ませて」と叫ぶのです。

わたしは、その泣き声を聴きながら、こんなことを思います。これこそ、私たち大人、人間が忘れてしまった根本的なことだということです。本当は、誰でも、思いっきり泣き叫んでよいのだし、泣き叫ばなければならないはずのことです。ところが、どんどん、それをしなくなるのです。何が言いたいのかというと、人間は、赤ちゃんがミルクを求めるように、本当は、神さまを求めなければならない、神さまを知らなければならないということです。

「神さま、助けて。神さま、与えて下さい。」神さま、神さまと求める。神さまが共にいてくださらないと生きていけるはずがないと、当たり前のこととして信じる。だから、叫ぶ。これが、イエスさまが教えて下さった幼子のような者の姿、あり方なのです。

もしもそばに赤ちゃんがいて、泣いていたら、お母さんを呼びに行くでしょう。お母さんに抱っこされたら、きっと泣きやむでしょう。幸せそうな笑顔に戻ることでしょう。実はその姿にこそ、私たちが本当の自分、本当の大人、本当の人間になる原点、原型があるのです。つまり、わたしたちの本当の親、神さまは本当の親なのです。わたしたちにまことの神さまがどなたであり、どのようなおかたでいらっしゃるのかを教えて下さったのは、クリスマスの主、イエスさまです。イエスさまは、地上に降りて来られた神の御子です。そして、その御子は、いつも父なる神さまと一緒でした。いつも、神さまとともに生きられたのです。天のお父さまと語りあい、向き合って、歩まれました。実に、イエスさまこそは、幼子のモデルそのもの、幼子の模範になられたお方なのです。

イエスさまは、こう仰います。「クリスマスのすばらしい救いの出来事もまた、幼子にしか分からないのだ」ここには、大人も子どもも一緒に礼拝しています。ここで主イエスが仰った「幼子のような者」というのは、単に、年齢のことを意味しているのではありません。幼子とは、「イエスさまは、わたしに向き合っていて下さる。わたしを見つめて、愛していて下さるのだ。そして、わたしにとってこの神さま、このイエスさまが絶対に必要なのだ。イエスさまなしには、神さまに喜ばれる、本来の人、あるべき人間になれないのだ」そう、認めている人のことです。この事実が分かり、認められる人は誰でも幼子なのです。そしてそのためには、自分という鎧を脱がなければなりません。自分は、分かっている。少なくとも、ここにいる子どもたちよりは、自分の方がはるかに人生経験も豊かであって、知恵もあって、まさに大人なのだと、そこに留まるとき、私たち大人は、悪い大人でしかなくなっているのです。

どんな大人になりたいですか。ひとり一人に聴く時間はありません。けれども、聖書を読むなら、その答えはすでにはっきりと出ていることに気づくことができます。「どんな大人になるべきか、人間の生きる意味は何か、人生の目的とは何か」という問いへの明確な答えです。それは、このイエスさまと出会うことによって実現いたします。イエスさまを信じることによって始まるのです。信じるということは、どういうことかと言うと、イエスさまと向かい合って、自分の心を開いて、自分の心の底から話しかけることです。そして、イエスさまの御言葉を心の底で聴きとることです。

そうすると、信じるということは、ただ一回のことではないことが分かります。一度、出会ったことがあるというのではありません。毎日、出会うことです。毎日、イエスさまに向き合うことです。それをお祈り、あるいは礼拝と言います。言葉を換えると、イエスさまと交わるということです。主イエス・キリストとの交わりです。ですから、それは一回限りのことではありません。洗礼を受けて終わるものではなく、始まるものです。そして、その交わり、その絆、その対話は、どんどんと深めて行くべきものなのです。それが、本当の大人です。そして、神さまの前には、それが幼子なのです。

今朝、大人も子どもも、イエスさまがここで仰るような幼子にならせていただきましょう。イエスさまが、父なる神さまの御前で、幼子として生きられたこと、それが私たちの模範です。

最後に、確認しましょう。天のお父さまの前に、幼子の模範として生き抜かれたイエスさまは、どのようなご生涯を送られたでしょうか。それは、救い主としてのご生涯、お働きでした。クリスマスにお生まれになられたイエスさまは、実は、私たちを救うために、どうしても十字架で死ななければなりませんでした。それは、十字架で私たちの罪を赦すため、身代わりになって罪の裁きを受けるための死でした。十字架で死なれるためにお生まれになられたのがイエスさまです。

実は、そもそも聖なる神さまに近づいてお話しすることは、汚れている人間、罪深い人間にはできないはずです。聖なる神さまとお話しするためには、私たち自身の心もまた綺麗でなければなりません。しかし、本当はどうでしょうか。私たちの姿は、心の中は、泥だらけになって汚れています。ボロボロの人間です。そんな汚い人間が、神さまに近づくことなど許されていないのです。

しかし今、誰でも、キリストの教会に来て、まことの神さまに出会い、救われることができます。それは、何故でしょうか。それは、神の御子のイエスさまが人間となられ、誰よりも小さな者、弱い者、幼子となられたのは、わたしのあなたの罪を背負って、身代わりになって十字架で神の刑罰を受けて下さったからです。ここに神の愛があります。ここに神の私どもへの究極の愛が明らかに示されたのです。

今、どうぞ、この主イエスを信じましょう。今、主イエスは、聖書を通し、説教を通して語りかけて下さいます。このお方だけが、私どもの心、人間の心のもっとも深いところにある良心の唯一の対話の相手です。私どもの良心が対話できる相手は、ただ神さまだけ、人となられた主イエス・キリストにのみあるのです。イエスさまを信じ、出会い、その絆を深め続けるとき、私たちは、本当の自分を知り、育てられて行きます。本当の大人へと成長できます。人生のさまざまな試練や苦しみ、さまざまなこの世の誘惑にもてあそばれることに打ち勝って、どんどん成長できるのです。

このようにイエスさまを信じて、イエスさまといっしょに、神さまの前に心を低くする人こそ、天の父なる神さまに喜ばれる幼子、イエスさまのような幼子なのです。イエスさまは、その幼子にだけ、永遠のいのちが与えられると約束されました。そして、イエスさまは、わたしたちのことを、天の父なる神さまに、このように喜んで紹介してくださいました。「ここにいるひとりひとりは、神さまの子どもたちです。あなたの子たちです。何故なら、あなたのことを、わたしが教えてあげたからです。彼らの罪を、わたしが十字架で贖ったからです。」なんとすばらしい恵みでしょうか。今朝、あらためて、このイエスさまを信じる信仰を祈り求めましょう。こうして、私たちは、神さまに喜ばれる人間として生きる道、天国へのいのちの道をまっすぐに進み行くことができるのです。

 祈祷
 天の父なる御神、私たちはこれまで、人と比較して、自分の存在を確かめようとして人の目を気にして生きてまいりました。相手に合わせ、世間に負けまいとして生きて参りました。そのようにしてあなたの御前に罪を犯し、まことに惨めな生き方を重ねてまいりました。お赦しください。しかし、主イエスは今、そのような私どもに近づき、語りかけ、わたしを信じなさいとまことの救いへと私どもを招いて下さいました。どうぞ、語りかけ、出会って下さる主イエスの御前で、いよいよ本当の自分の願いを掘り下げ、深めることができるようにして下さい。そのようにして、常に、あなたと共に、あなたの前に生きる喜び、その自由を豊かに味あわせ、神を知り自分自身を深める生涯へと導き続けて下さい。アーメン