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「クリスマス、安息への招き」

「クリスマス、安息への招き」
2010年12月19日(降誕祭主日)
テキスト マタイによる福音書 第11章25-30節 
【そのとき、イエスはこう言われた。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」】

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」今朝、降誕祭主日礼拝式に与えられた御言葉は、主イエスの大変有名な招きの言葉です。おそらく、教会が外の看板に掲げている御言葉として、最も多い聖句ではないかと思います。

わたしが生まれ育った地域の小学生たちは6年生の修学旅行先として、毎年、日光の東照宮にまいりました。東照宮は、徳川家康を神として祭る神社です。わたしはお土産として、家康の遺訓を記した置き物を買って来て、机の上に飾っていました。その一節にこうあります。「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。」深い意味はよく分かりませんでしたが、なんとなく大人びた感じもして、しかし小学生なりに、これからの人生には大変なこと、つらいことが待ち受けているのだろうという予感もあったので、自分を励ますために買い求めたのかもしれません。

確かに、家康は、まさに日本を統一して、盤石とも言えるような政権を構築して、強大な権力を獲得した人でありながら、死ぬまで重荷から解き放たれることはなかったのです。家康は、豊臣秀吉を倒して権力を獲得しましたが、もともと秀吉こそは、日本はおろか韓半島にまで侵略の手を伸ばし、まさにすべてのものを自由にできるものだと考え、一代で、栄華を極めた人でした。家康はしかし、その秀吉の晩年がどんなに、不安と恐れに縛られていたかをも見ていました。秀吉の晩年に生まれた嫡子の秀頼は幼く、我が子を遺して先立つ不安に彼は、おののいたのです。その狂おしいばかりの不安の中で死んで行くことになります。それはまた、そのまま家康の人生でもあったはずです。東照宮のように生きている間に自分を祭る神社を建立したのは、死後の幕府の安定への不安のあらわれ、死後の世界まで栄華を持ち運ぶことができない現実に、抗おうとした家康のあがきではないかと思います。

要するに、どんな人の人生にも大小、軽重の差はあっても、ひとしく重荷があるということです。重荷を背負って遠い道を歩かなければならないのです。自分のこと、家族のこと、健康のこと、経済のこと、将来の問題を数えれば切りがありません。

そしてそれは、大人のことだけではありません。子どもたちもまた、重荷を背負っています。むしろ、大人たちは忘れがちかもしれませんが、思春期を生きている中高生たちの重荷こそ、大人よりさらに重く、苦しく、ときに痛ましいほどのものだと思います。

さて、主イエスは、ここで、声をあげて、目の前にいる人々に向かって、弟子たちに向かって、呼びかけます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」私どもを休ませて下さる、安息を与えて下さると約束して、お招きになられました。しかし、たとえば、教会のこの看板を見て、「ああそうなのか、教会に、このイエスのところに行けば、休息させてもらえる、安心することができるのか。それなら、ぜひ、休ませてもらおう」こう喜んで教会に来た方がいたとしましょう。ところが、聖書を読んで見ると、この御言葉の次に、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」と続くことを発見します。そうなれば、「なんだ、せっかく重荷を下ろせると思ったのに、あたらしい重荷を背負わせられるなんて、まっぴらごめんだ。」こんなふうに考えて、がっかりして、教会を去るということも、あり得るかもしれません。

そうなれば、この御言葉は、何かの宗教、どこかの宗教のように、人々を勧誘するキャッチフレーズとは異質であることに気づかれるのではないでしょうか。つまり、主イエスはここで、たとい、いわゆるキリスト教という宗教を信じても、それで、人間が生きる上で、重荷を背負うというあり方から解放されるということはあり得ないという現実を語っておられるわけです。

そもそも「くびき」とは、農耕器具のことです。牛や馬などの首にかける木のことです。それで、台車を引っ張らせて、地を耕させるわけです。ときには、二頭で引っ張らせることもあったようです。そうすると、二頭は同じ方向を向いて、歩調を合わせて歩きはじめることができるのです。また、そこから、辞書を引きますと、「自由を束縛するもの」とも出て参ります。「くびきを解かれる」と言うふうに使われるのだろうと思います。つまり、くびきのイメージは、不自由であり、重荷であり、そこにはどこか奴隷のようなニュアンスがあると思います。

そうであれば、私どもが、ここで主イエスにとっての自由とは何か、神さまが考えていらっしゃる人間にとっての自由とは何かをじっくりと考えなければなりません。

主イエスは、私どもがなぜ、疲れ、倒れてしまうのか、何故、不自由な思いの中で、閉塞感を抱くのか、その理由をご存知です。誰よりもご存じなのです。それこそが、「わたしの軛」と語られるくびきの問題です。主イエスが描き出されたこのイメージは、人間が安息して生きるため、人生を全うするためには、いかに、くびきから解放されることができるのかというイメージではありません。そうではなく、どんなくびきを負うのかということなのです。もっとはっきり申しますと、この「くびき」によって私どもが何と、あるいはどんな相手と繋がれるべきなのかということです。つまり、これまでくびきによって繋がれていたその相手を変えてしまうことなのです。 

さてここで、私どもは、主イエスのここでの呼びかけの中で、まことに、くどいくらいにくり返される一つの言葉に注目したいと思います。わたしは今、もともと主イエスが語られたであろう言葉の順序に即して言いなおしてみたいと思います。「わたしのもとに来なさい。あなたがた、疲れた者、重荷を負う者たち。そうすれば、このわたしが休ませてあげよう。わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。わたしは柔和で謙遜な者だから、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」いかがでしょうか。ここで、何度も、語られたのは、「わたし」です。数えてみると7回にもなります。7と言うのは、完全数です。わたしは、著者マタイじしんのあるメッセージが込められているのかもしれないと思います。つまり、このお方こそ、神であり、救い主であり、人間のありとあらゆる問題解決、そして人間の究極的な問題の解決、つまり罪の赦し、救いはこのイエスさまにのみあるというものです。

それは確定できないかもしれませんが、いずれにしろ、大切なことは、主イエスごじしんがここで、まさに身を乗り出し、自分で自分を指差すかのようにして、「このわたしのところに来なさい!」と招かれているそのお姿に目を凝らしたいのです。またまた、横道にそれるかもしれませんが、このことは、本来、前に学んだ、あの洗礼者ヨハネこそすべきことだったはずです。つまり、洗礼者ヨハネは、主イエスの紹介者として奉仕すべきなのです。ところが、彼は、イエスさまに躓いて、イエスさまを紹介する働きを担い通すことができなくなっています。だからこそ、今まさにイエスさま御自身が、誰にも分かるように、「このわたしのところに来なさい!」とお招きになられるのです。

そうです。イエスさまは、今、声を挙げて、他の誰の所にでもなく、このわたし、目の前にいるこのわたしのところに来なさいと招いておられます。わたしは、この御言葉は、もはや主イエスのご命令ではないかとすら思います。「来ても来なくても、あなたの自由なのですよ。」というのではありません。主イエスは、労し、重荷を負っている者として、目の前にいる人々をご覧になっていらっしゃるのです。

確かに、秀吉のような人は、天下を取ったとき、自分を神であるかのようにふるまって、このイエスさまの招きを拒否しました。「そんな重荷など、足軽だったときならそう思っていたが、今の俺は違う」こう考えたかもしれません。あるいは、「今も下々の者たちは、疲れ果てている。しかし、もはや、自分にはあり得ない」そう考えたかもしれません。

それなら、現代の多くの人々は、いかがでしょうか。多くの人々は、こんなふうに思われるかもしれません。「イエスのところに行くと言っても、今はいないではないか。」「イエスのところに行くのは良いけれども、キリスト教とかキリスト教会に行くなら、かえって面倒なルールを押しつけられるかもしれない。お金もかかるだろうし、いろんな拘束があるだろうし、何よりもわざわざ貴重な日曜日を、とられたくない。」こんなふうに考える人々は少なくないと思います。

しかし主イエスは、私どもよりも私ども自身を深く知っていて下さっています。私どもの真実を、正しく知っていて下さるのです。むしろ、我々は、じぶん自身のことを正しく知っていません。気づいていないのです。主イエスは私どものために、私どものあるがままを見抜いていてくださいます。それは、マタイによる福音書第9章36節に記されています。主イエスのお心をこのように描き出しました。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

いったい何故、私どもは重荷を負って苦しみ、疲れ果ててしまうでしょうか。それは、くびきを共にするべき相手を間違えてしまっているからです。

羊とは本来、どこにいるべきなのでしょうか。もっと言えば、誰と共にいるべきなのでしょうか。羊は、青い草原で、草を食んで生きる動物です。そこには、狼がいてはなりません。したがって、檻の中に囲われるべきです。その囲いこそ、彼らの救いです。囲いの中に生きているとき、彼らは自由なのです。羊は、狼から自分たちを守ってくれる羊飼いとともに生きるべき存在なのです。羊飼いと離れて生きれないはずなのです。

主イエスさまが「深く憐れまれた」と、翻訳されたもとの言葉の意味は、はらわたがちぎれるほどの深い痛みです。つまり、それほどまでに激しい愛と言う意味です。そのような御自身の存在の深みをえぐるような痛みを伴う激しい同情、愛が私どもに注がれているのです。その愛は、口先だけのものではありませんでした。まさに十字架の上で、ご自身のいのちを犠牲にしてくださり、ご自身の肉体を裂かれ、御血を流すことによって、出来事となりました。

主イエスがここで「来なさい!」と叫ばれたことは、羊飼いから離れ、檻から彷徨い出て、疲れ果て、行き倒れて、今まさに狼の餌食になろうとするそのような痛ましいご自身の羊を呼ぶ、羊飼いの切実な、痛ましいまでの叫びです。

先週、朝のテレビで、嘘のような出来事を知りました。ひとりのご婦人が、自宅マンションのトイレに10日間も閉じ込められてしまったというものです。廊下の壁に立てかけてあったコタツが、はずみでトイレのドアに倒れ込んで、ちょうど廊下を完全にふさいで、ドアを開けないようにしてしまったのです。どんなに不安で恐ろしかったことでしょう。彼女は、そのとき、喉もかれるほど、「誰か助けて!」と叫び続けたと言います。

主イエスは今、「来なさい!」と叫んでおられます。本当は、我々の方から、「わたしを助けて!」と叫び求めるべきなのです。ところが、我々はそうしませんでした。いへ、助けてもらうべき相手を間違えたのです。「誰か!」と言って、自分の目先の問題を解決し、満たしてくれるものなら、何でもよいというように、異なる助け、間違ったくびきを求めてしまったのです。しかし、それは、この世のくびきを負うことでしかないのです。いよいよ、重荷を増すだけなのです。

だからこそ、そのような私どもに向かって、主イエスの方から、「来なさい。このわたしのところに来なさい。」と呼んで下さるのです。それは、昔の、その時だけのことでは決してありません。今この時も、主イエスは、「わたしのところに来なさい」と叫んでおられます。助けてあげたいからです。そして、助けとは、主イエスが共にいて下さるということなのです。

主イエスは、こう自己紹介なさいます。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

主イエスとつながること、主イエスとくっつくことです。それは、担いやすいのです。羊に重荷を課すような羊飼いはいません。主イエスを信じるとき、そのとき、重しを与えられます。この重しこそ、実は、私どもにとって生命線なのです。重しがないと、どうなるのでしょうか。風に飛ばされます。時代の嵐に吹き飛ばされて行くのです。根なし草のようにです。根がない存在こそ、実は、不自由なのです。人生の重荷、究極の敵である死を前に、恐れおののいて、罪を犯します。

結局わたしどもの問題とは、何と、どんな相手とくびきを共にしているのかということです。それは、この世です。神を無視し、拒絶する世界のことです。

最初のクリスマスにおいて、世界の問題、人間の自己中心の罪が見事に暴露させられてしまいました。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」この世界は、そもそも神に造られ、神の支配する、神の場所です。ところが、世界は、つまり人々は、神の御子がご自分の場所、地上にお生まれになられたとき、その居場所を、わずかな空間ですら開けようとしなかったのです。世界の関心、人間の関心とは、どうやったら自分の力、自分の願い、自分の計画を実現できるかということに、それだけに集中していたのです。それが自己中心の罪、神を拒絶する、反抗する罪です。この世の罪という、くびきで繋がれているなら、わたしどもは打ちひしがれ、倒れて行くしかありません。なぜなら、それは、人間本来のあり方ではないからです。居場所でもないからです。神と共に生きる。神がいたもうそのところにこそ、生きる場所があり、そこにのみ安息の場所があるのです。

私どもにはまことの生きる場所が必要です。そのときこそ、安らぎを得られるのです。それが、主イエス・キリスト御自身のみもとに他なりません。端的に申しますと、キリストの体なる教会なのです。主イエスと共に生きること、それこそが、私どもにとってのまことの重荷なのです。その重荷がなければ、根なし草。不自由になるのは当然なのです。

主イエスは、柔和で謙遜と自己紹介なさいました。普通、我々の世界では、冗談ならいざ知らず、そんなふうに自分の事を言う人はおりません。何故でしょうか。本当の意味では、柔和でも謙遜でもないからだとわたしは思います。しかし、主イエスは、事実ですから仰います。そして、それ以上に、そう仰る御心は、私どもが実に多くの場合、騙されてしまいやすいからです。

私どもの周りには、さまざまな宗教があります。宗教まがいのいかがわしいものがたくさんあります。そして、それらは、自分たちのことを、決して悪い存在だとは、言わないはずです。その人の生活を苦しめたりは決してしない、そのようなそぶりを見せるのだと思います。つまり、柔和で謙遜なポーズを見せるのです。
しかし、どれほど多くの人々が、宗教によって疲弊し、宗教の掟によって、人間性を損なわれてしまうか、それは、少なくないと思います。柔和で謙遜な人に繋がるのでなければ、その人の人生、なによりも永遠はとりかえしがつかないことになってしまいます。

だから、主イエスは、他の誰のところにも行くな、このわたしのところに来なさい。わたしは、あなたがたを休ませあげたいし、休ませてあげることができるのは、このわたし以外にいない。誰もいないということなのです。

私どもは今朝、このイエスに呼ばれて、ここに来れました。教会に来れたのは、ただ、このイエスが、羊であるわたしの名前を、ひとり一人の名前を呼んでくださったからです。「わたしのところに来なさい。」と招いてくださったからです。それなしには、教会に、主イエスのところに来ることはできませんでした。

そして、主イエスのところに来たということは、他ならない、神さまのところに来たということと同じです。主イエス・キリストの父でいらっしゃるゆえにわたしどもにとっても天の父なる神さまのところに来たのです。
それは、先週学んで、この御言葉通りです。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」

子とは神の御子と言う意味です。イエス・キリストのことです。私どもは、教会でイエスさまによって父なる神さまをはっきりと示して頂きました。イエスさまによって、罪を赦して頂き、神さまの子とされました。そして、今、私どもも、主イエスがおっしゃったたまさにその通りに、父なる神を知ることができたのです。今、主イエスによって教えられ、神を父よとお呼びし、父なる神が臨在したもうこの教会に、この礼拝式の場所にいるのです。

つまり、こここそ、私どもの安息の場所なのです。その中心なのです。それは、教会から遣わされて行く所でも同じです。家庭でも職場でも、私どもは安息できる場所を与えられるのです。ここで主イエスと父なる神さまとの聖なる交わりの真ん中に、座っています。それは、教会の帰り道、私どもはやはり一人になって帰って行くということではありません。そこでも、父と御子との聖なる交わりの真ん中にいるのです。

お父さんとお母さんに両手を握られ、二人の愛を一人占めにして喜んで歩いている幼子を見る時、あれこそ、私どもが主イエスによって招かれ、体験させていただく姿だと思います。父なる神と御子なる神のイエスさまとのまん中に、私どもは繋がるのです。しっかりと握られます。私どももまた握り返したいのです。

最後に、特にキリスト者である私どもが弁えたいことがあります。既に、第10章38節を既に学びました。「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」

先週は、ファミリー礼拝を捧げました。おそらく子どもの教会の教師方は、正直に申しますと、楽であったと思います。いつもより、1時間半も遅く、主の日の教会の奉仕が始まるからです。また、分級の準備もいりません。失礼ながら、もしかすると、「ああ、こんな楽な主日があるのだったら・・」と一瞬、誘惑を受けた方もいらっしゃるかもしれません。言うまでもなく教師方は、確かに、大変なご奉仕です。けれども、この奉仕によって、神の御業がなされるのです。教師方は、主イエスの叫び、「わたしのもとに来なさい」を自分だけを救う言葉としては聴きとっていません。地域の子らにも、もとより契約の子らに向かって主イエスが叫んでいらっしゃることを、聴いているはずです。しかも、この奉仕によって、自分自身もまたキリスト者として整えられ、教会形成へと結びあわされて行くことを、体験なさっておられるのだと思います。

主イエスは、はっきりと、くびきを負いなさい、自分の十字架を背負いなさいと招かれます。それ以外に、本当の自分の人生を始めることはできないからです。すでに洗礼を受けた方々は、いよいよ、この安息の真理を体験すべきです。いのちをかけて、主イエスは、招いておられます。

最後の最後に、洗礼を受けていない方々に心からお勧め致します。今既に、ここにいるのは、主イエスのお招き、導きを受けていることに気づいて下さい。自覚的に、主イエスのところに来て下さい。そして、生きておられる主イエス・キリストに繋がって下さい。主イエスとつながるくびき、その目に見える印、それが洗礼です。洗礼を受ける志が速やかに与えられますように。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの天のお父さま、あなたの御子を救い主として、私どもにお与え下さり、私どものまことの自由を安息を、生きる真実の場所を確立してくださいましたことを心から感謝致します。どうぞ、主イエスのくびきを負わせて下さい。はずさないでください。終わりまで、主と共に、主のために、主によって、主と共に歩む人生を全うさせて下さい。神の民の祈りの家に聖霊の支配が豊かにありますように。