過去の投稿2010年12月26日

12月26日

★  今年最後の主の日を捧げることができました。ここまで恵みの内に導いてくださった父と子と聖霊の三位一体の神に、感謝を捧げます。また、神の家族としてお互いに祈り合いつつ、ここまで導いていただいたことを感謝致します。牧師の働きを支え、共に奉仕に励んで下さいました皆さまに感謝致します。祈りをもって、お支え下さいました事を心から感謝申し上げます!

☆  先週の降誕祭の愛餐会も、豊かな食事と何よりも主にある豊かな交わりの時を過ごすことが出来ました事を感謝致します。皆さんが、互いに配慮しあい、楽しい、主にある交わりを築いている姿を見ながら、とてもうれしく思いました。今年は、洗礼入会者の歓迎のときとはならなかったことだけは、残念でしたが、志願者の兄弟のスピーチは、大きな慰めでした。「この学びを、自分だけ受けるのはもったいない。家族に、会社の仲間に・・・!」皆さまのとりなしの祈りにもいよいよ力が加えられたかと思います。又、反省をも迫られた方もいるかもしれません・・・。牧師とは、聖徒を教会人(キリスト者・聖徒)として訓練し、建て上げる奉仕者です。

★  今年は、「個人伝道」の学びを致しました。その「成果」は、すぐには出ません。今年も新来者は、少ない状況が続いています。しかも多くは、特定の会員の関係者・・・です。もとより、「賜物」が与えられていることを思います。ただし、伝道もその他の奉仕も、ただ「賜物」の「せい」にすることは、正しくありません。つまり、自分がやりたい、得意だから、とか、反対にやりたくない、苦手だからという理由で奉仕を選択することは、基本的には、不健全です。その教会を建てるとき、誰も担う人がいなければ、誰かがするしかないのです。何よりも神からの使命なのです。教会に誘っても、何度も断られる。そのような、経験をしていないキリスト者は、おそらくいないはずです。そこで、しばしば、口をつぐんでしまいます。また、「自分は人を誘ったり、導けるような立派な、模範的なキリスト者になれていない・・・」ということも、耳にすることがあります。しかし、いつになったら、立派になれるのでしょうか。私どもは、あるがまま、そのままで、御言葉に命じられていることを実践すること以外にありません。何度失敗し、倒れても、そこで、訓練される以外にありません。

☆  今年の待降節の諸集会に、伝道新聞からの新来者はゼロでした。2万部の配布に対して・・・。これしきのことで名古屋伝道に、めげることは許されません。私どもの課題は、今年「個人伝道」の学びをしたのですから、私ども自身に求めるべきでしょう。燭火礼拝式、会員の友人がお二人(お子さんを含めれば3名)来会して下さったことは、大きな喜びです。何よりも、○○姉のご主人さまの出席も特筆すべき感謝です。家族の救いのために、祈りを重ねて参りましょう。

★   今年は、15周年記念誌を発行することができました。そこに明らかにされている教会の姿は、また、 愛餐会の交わりの姿にも映し出されていました。亀のような歩みかもしれません。しかし、着実に聖霊の力、恵み、愛が注がれていることを見ることができます。この歩みを、少し加速したいとも思いますが。

☆  来年の会員総会では、委員選挙を投票で行うことが決議されています。委員会は、現委員全員を推薦しています。ただし、それに拘束されることはありません。用紙に5名連記で投票して頂きます。  長老主義政治にとって会員が直接的に教会政治にかかわるのは、選挙のみです。(ちなみに伝道所においては、会員が【教会政治=教会統治】にかかわることができないのです!その意味で、長老主義教会である私どもの教会が、伝道所の時代が長く続けば、それだけ、伝道所のクセがついて、しまうことをも恐れます。教会を主体的に担う長老、執事の役員が育つことがなければ、聖書的な堅固で健やかな教会の姿に近づいて行くことは困難になります。)そして、そのような教会になるためには、現住陪餐会員が、誰が長老、執事に相応しいのかを「霊的に(=信仰的に)判断」する能力を養う必要があります。そのために、接虚する会員じしんが、長老とは、執事とはどのような職務を担うのかを、知る必要があります。もっとも恐ろしい教会の過ちは、人間的な思惑で役員を立てることです。もとより、委員の選挙は、役員の選挙ではありません。しかし、今回の選挙によって、「本番」のよき練習となるでしょう。なお、委員会は次点者の方には、将来の執事候補者になって頂くことを期待致しております。

★  毎年、12月最後の主日には、来年度の奉仕申告表をお配りしています。どうぞ、よくお祈り下さい。子どもの教会の教師(協力者・補助者)が特に求められています。特に、契約の親の皆さんはよく祈って、志願して下さい!また、月定献金のためにもお祈り下さい。十一献金ができるなら、おそらく私どもはもっと早く自給できていたはずです。強いられてではなく、主にある自由のもとに・・・。