「安息日の主」
2010年12月26日
テキスト マタイによる福音書 第12章1-8節
【そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」 】
ある安息日のことです。安息日とは、今朝もご一緒に唱えました十戒の第4戒にありますあの掟のことです。「安息日を覚えてこれを聖とせよ」聖とするということは、この神が与えて下さった恵みの掟を感謝をもって従うことです。安息日という日に相応しく行動することです。それなら安息日にふさわしいあり方とは何でしょうか。安息日を安息日とするとはいかなることでしょうか。それは、神を神とすること。神を礼拝することです。その一日を、神にのみ捧げ、神を中心にして過ごすことです。それが、安息日の掟です。神の民であるユダヤの人々にとって、決定的に大切な意味と重みを持っていました。彼らは、まことに厳格にこれを守りました。正確に申しますと、厳格ということではなく、行き過ぎたほどのこの掟を拡大解釈していました。それは、次のテキストにも記されています。詳しくはそのときにあらためて学びます。
さて、事件はそのようなに厳格に、いへ、行き過ぎて強調したファリサイ派の人々のなかで起こります。「ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。」主イエスはここで批判されます。正確に申しますと、弟子たちが批判されます。いずれにしろ彼らの批判は、主イエスに向かうものでした。彼らはこう理解しています。「主イエスの弟子たちが、麦の穂を摘む行為、それは、立派な労働である。収穫して、手で脱穀して、食べる。これは安息日の規定を犯したことになる。」確かに、それは、当時の考えからすれば、常識的な批判なのです。今、常識と申しましたが、これは、とても大切なことです。
丁寧に読むとすぐわかると思いますが、主イエスごじしんは、彼らの批判そのものは、受け入れていらっしゃいます。主イエスは、「安息日など、ないがしろにしてもよいのだ」などとは、決して仰いません。
ここでも極めて大切なおさらいをしておきたいと思います。マタイによる福音書をひも解く際に鍵になる御言葉、それは、第5章17節です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」主イエスは、誰よりも安息日を守られるお方です。誰よりも律法を生きることに情熱を込められ、これを完全に、完璧に守られたのは、他ならないイエスさま御自身です。したがって、イエスさまは、律法を捨て去るお方などではありません。律法を完成なさるお方です。つまり、誰よりも律法を大切になさいました。その上に、成し遂げることにおいて完璧なお方なのです。
さて、もとに戻ります。主イエスは、彼らの批判に対して、このように旧約聖書に記された事実を思い起させて、反論なさいます。「イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。」
これは、旧約聖書サムエル記上21章に出て参ります。詳しくは、家で読んでいただくか、また祈祷会のときに読めたらと思います。若きダビデはサウル王に追われて逃げていました。その時、神殿に立ち寄りました。彼らは、飢えていたからです。ところが、あいにくパンがありませんでした。ただし、祭司以外は食べてはならないと律法に記されている聖別されたパンだけはありました。そして、祭司は、その聖別された、神に供えたパンを彼らに差し出したのです。ダビデは、祭司から罪に問われませんでした。また、神からの裁きをも受けませんでした。何故でしょうか。それは、神殿のパンを管理する祭司その人が許可して、みずからダビデに与えたからです。
次に、主イエスは、こう反論なさいます。「安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない」安息日には、人々は仕事を休まねばなりません。ただ神のみを礼拝する日と定められているからです。しかし、祭司は、神殿で神礼拝の奉仕、働きを担います。もしも、祭司じしんも休んでしまっては、礼拝は成り立ちません。ですから、祭司が安息日の休みの掟を破っても罪にはならないことは当たり前のことです。
さて、ここで主イエスは、高らかにこのように宣言なさいます。「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」これまでマタイによる福音書を学んで参りまして、これ以上に、イエスが神であり、主であることを主張なさった宣言は、ありません。
神殿とは、神を礼拝する場所のことです。「わたしは、神殿よりも偉大である」と言う主張は、つまり、ご自身こそが、礼拝されるべき存在、礼拝を受けるべき存在、つまり、神に他ならないという宣言に他なりません。
そこにいらっしゃるのは、単なる祭司ではありません。祭司以上のお方が、そこにいらっしゃるのです。つまり、神御自身が、そこにおられ、安息日のお働きをなさっていらっしゃるのです。そうであれば、このお方が何をどのようにふるまおうとも、働こうとも、誰も後ろ指を指すことなどできないはずです。
「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」いったい、これまでマタイによる福音書を学んで参りまして、これ以上に、イエスが神であり、主であることを主張なさった宣言があったでしょうか。私どもは今朝、さらに、じっくりと、この主イエスの御言葉を味わってみたいと思います。「わたしは、神殿よりも偉大である」という御言葉には、言わば、事柄の本質、つまり神礼拝の本質、神さまを礼拝するとはどのようなことであるのかが明らかにされていると思います。つまり、神殿とは、神を礼拝するための施設に過ぎないということです。したがって、神さまがそこにご臨在したまわなかったのなら、何の意味もないのだということです。これは至極当然のことではないでしょうか。
たとえば、正月三が日、大勢の人々が神社に詣でるのでしょう。しかし、その社をどのように美しく整えてみせてもそこに天地の主なる神、創造者なる神は不在です。そこに神はおりません。そうであれば、そこに神を参拝しても、本当は、空虚なハズです。
しかしここでは、神社のことを云々する必要はありません。むしろ、私どもキリスト教、教会の問題に集中したいと思います。ときどき、結婚式場が、かってに○○教会などと名乗っています。そして、多くが英国教会をモデルにした礼拝堂、チャペルを造ります。その意味では、うらやましいような設備です。しかし、もとより、私どもはそれを教会とは呼びません。
私どもは、かつて1994年4月から2003年3月まで、実に9年間、ビルの一室で礼拝を捧げました。そこで困難な開拓の時代を共に闘った仲間たちのお陰で、この礼拝堂はあります。何とかして、ビルや一般家屋ではなく、教会堂を献堂して、地域の人々に証しを立てたい。来やすくしたいと、会堂建築に立ちあがったのです。今ここにいらっしゃる、多くの仲間たちは、彼らの労苦、奉仕によって、ここで洗礼を受けることが許されたのだ言っても、わたしは言い過ぎではないと思います。
余談になりますが、それだけに、ここで救われた兄妹たちは、さらに、獲得すべき約束の地があるのではないでしょうか。主に捧げるべき奉仕があるでしょう。何よりも、会堂の返済を急がなければならないでしょう。あのとき、あの礼拝室で、信仰のない人々からは、不審な目で見られながらも、私どもは、あの部屋で、神を礼拝し、主イエス・キリストとの交わりを頂き、魂の安息を、救いに与り続けたのです。私どもは、そこで、たとい、どんなに立派な会堂があり、どんなに多くの人々が押し寄せるようにそこに集っても、安息日の主御自身がご不在でいらっしゃったら何の意味もないのだと信じ、そしてここには、主がおられるのだと確信して、その時代を歩んだのです。
私どもの教会は、まさにそこにこだわり続けてまいりました。つまり、まことの教会を立てることです。教会堂のことではありません。本物の、まことの神の教会の形成です。そのためのまさに生命線とは、何でしょうか。それこそ、主イエス・キリストのご臨在です。父と子と聖霊の三位一体の神が共におられる、それこそが礼拝の生命なのです。どんなに、感情が高ぶり、心に喜びや感動が与えられたとしても、それをもってまことの礼拝と断定できません。
エホバの証人たち、いや、他の自称キリスト教会もたくさんあるでしょう。そこにキリストのご臨在が証されるかどうか、主キリストが確かにご臨在なさる根拠を問うのです。そこにキリストの教会の2000年間の戦いの歴史があります。何よりも、正統な教会であるかどうかが問われるのです。ニカヤ信条の言葉で言えば、「使徒よりの、唯一の聖なる公同の教会」がそこに存在しているのかどうか、その教会の交わりのなかに、地上の教会がしっかりと結びついているのかどうか、それこそが問われるし、何にもまして、問うべきなのです。私どもの開拓時期、まさに、それだけに集中するような思いで、ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する慰めの教会を形成させて下さいと祈ったのです。礼拝を捧げ続け、学び続け、そして熱心に伝道したのです。
今、ここに、「神殿よりも偉大なお方」主イエス・キリストが共にいて下さいます。小さな交わり、伝道所ですが、ここにキリストがご臨在してくださったので、私どもは、キリストと交わり、罪が赦され続け、神のいのち、聖霊の交わりの内に、歩み続けることが許されました。今年一年、この主イエスが私どもと共にいて下さいました。その主イエスによって、導かれ、ここで魂の安息を受けながら、それぞれの人生の重荷を担うことが許されました。そのことを心から感謝しましょう。
ここで、マタイによる福音書は、主イエスのこの御言葉を伝えます。そこには、マタイ個人にとっても極めて重要な主イエスの御言葉を記しています。
「もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。」既に、お気づきの方もいらっしゃるかもしれません。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』と言う旧約聖書ホセア書第6章6節からの引用は、ここが初めてではありません。既に、主イエスが、収税所で働いている著者に他ならないマタイと出会い、彼にむかって「わたしに従って来なさい」と弟子となることへと招かれた、あのときにも同じ御言葉が語られています。
主イエスは、第9章で、マタイをご覧になられました。マタイに、「わたしに従って来なさい」と招かれた時も、まわりにいたファリサイ派の人々は、騒然としました。主イエスに対して強烈なバッシングを始めたのです。正確に言えば、あの時は、主イエス御自身に対してではなく、弟子たちに言いました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人たちと一緒に食事をするのか。」つまり「あなたたちの先生は、いったい何を考え、何をたくらんでいるのか。罪人たちの仲間に加わるだなんて。そのような行為は、神さまの掟をないがしろにすることだ。神さまの御心に敵対することにだ、この社会の体制そのものを覆すことを意味する。」このような厳しい批判を弟子たちに浴びせかけたのです。
これに対して、主イエスは、このように反論し、弁明しました。それは、旧約聖書のホセア書第6章6節に記された神の御言葉の実践に他ならないというのです。もとの言葉はこうです。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。」こうして、主イエスは、マタイたち、つまり徴税人や罪人、当時、反社会的なところで生きている人々の仲間になられ、彼らを御自身のところに招き寄せられたのです。そのようにして、彼らにも神の救いを与えて下さったのです。
ここでもまた、決して誤解されてはなりませんが、主イエスは、焼きつくすささげ物をもってする礼拝を否定なさっているのではありません。神礼拝は、神の規定に基づいて厳密に捧げられるべきなのです。旧約聖書レビ記は、礼拝の規定書です。どのように神を礼拝することが、神の御心にかなうのか、それは、人間が勝手に決めるべきではなく、神の御言葉に従うこと以外ではあり得ないのです。ここでも、主イエスは、決して旧約聖書を否定なさったわけではありません。
主イエスは、ファリサイ派の人々に、こう呼びかけられました。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」どれほど形式的に完璧に、間違いなく神礼拝を司ったとしても、信仰がなければ、空虚なのです。そこでは、神の不在という神の側のことではなく、それと切り離して考えることはできませんが、神を信じる私どもの側に比重がかかります。信仰の不在です。まことの信仰がないところで、神を拝んでも意味がないということです。そしてそのまことの信仰とは、形式を整えることは言わば、最低限の心がけであり、何よりも神が求めていらっしゃるのは、憐みなのです。つまり、神を礼拝する者は、神のお心を自分自身も頂いて礼拝することが相応しいのです。そこでただちに明らかになる真理は、神は憐みの神でいらっしゃるということです。
その憐れみは、激しいものです。今年、覚えて下さった聖書の言葉があるでしょうか。スプランクニゾマイです。神が憐れむという言葉です。それは、内臓をえぐられるような激しい痛みを伴う心の動きを表現する言葉なのです。そのように、神のはらわたを痛めて私どもをかわいそうにと憐れんで下さる愛、それが神の愛です。私どもは、今年もまた、その一日一日、一瞬一瞬、この憐れみの神、神の憐れみによって支えられ、守られ、導かれ、養われたのです。そうであれば、その神を愛する者は、そのような神に相応しい心を準備しなければなりません。それが、礼拝に相応しい私どもの姿勢です。信仰の姿勢、心です。
神社では、清めの水が、その甕が準備されています。本来、神社に詣でる人は、身を清めなければならないとされているのだろうと思います。初詣客は、多いので、忘れがちになってしまうのでしょうが、本来は、そのような準備が求められているはずです。
それなら、天地の造り主なる神、私どもの父なる神を礼拝するには、どのような準備が必要でしょうか。私どもはどのような準備をして、どのような資格を得て、ここに臨在なさる生ける神に近づいているのでしょうか。
そうすると、何かそわそわし始める方もいらっしゃるかもしれません。「そんなことは、考えてもみなかった。なるほど、教会に来る準備か。自分は何もしていない。これでよいのか。」そんなことをお考えになられた方はいらっしゃるでしょうか。
実は、昨日、大変うれしいことがありました。ある方が、小さなお子様とご一緒に、教会に来られました。牧師室にわたしはおりましたから、対応させて頂きました。25日はクリスマスでしたから、教会でなにか催しがあるかもしれないとお考えになってのことです。会話の中で、「教会に来るために何か準備が必要ですか」と尋ねられました。わたしは、「何もいりません。そのままお越し下さい。聖書や賛美歌は教会にありますから。」こうお答えしました。誰にでもそのようにお話しします。その通りだからです。だからもしかすると、求道中の方は、礼拝の準備のこと、資格のことを考えたことがないかもしれません。
しかし、その一方で、主イエスは、あらためてこう命じられます。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」そして、私どもは、先週、この御言葉を聴きとったばかりです。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしの下に来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」主イエスは、他のどの場所でもなく、誰のところでもなく、「わたし」と、「このわたし」と、短いこの文章の中で7回も私と繰り返しておられます。まさに、身を乗り出して自己紹介なさいました。主イエスのみもとに行くことこそ、そして、この主イエスに学ぶことこそ、まことの礼拝となるのです。そして、そこにこそ、そこにのみ、まことの安息があるということです。そして、このお方から学ぶのです。憐みを学ぶのです。神の愛を知るのです。自分を愛して下さる、はらわたを痛めて憐れんで下さる神のお心を知り、憐れんでいただくのです。それが、神礼拝にふさわしい私どものあり方、心の姿勢、準備です。
そしてそれは、教会に来て、イエス・キリストのところに来なければ、なしえません。ですから、そのままで来て頂けるのです。そのままで、あるがままで、このお方のところに近づけるのです。そして、この主イエスを知り、学び、こうして自分の罪を知り、罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じて、救われるのです。神の子とされるのです。
著者であるマタイの言わばこだわりがここにあるとわたしは思います。マタイは、徴税人だったのです。後ろ指を指されながら生きてきたのです。けれども、このお方が一方的に近づいて来て下さり、わたしに従いなさいと招いて下さったのです。何の準備もしないで、あるがまま、そのまま、どろだらけのままで、主の弟子としていただけたのです。何故でしょうか。主イエスが憐れみの主だからです。
だから、私どももまた、ここで安息できるのです。寛げるのです。寛ぎとは、自分を解放してあげられる場所、状態のことです。寛ぎと言うと、何か、温泉に行くこととか、高級な旅館で過ごすことを連想するかもしれません。しかしまことの寛ぎとはそういうことではありません。これは、何も自分が体験できないから、決してひがんで言うわけではありません。決して否定することはありません。むしろ誰でも、機会があれば、心も体も寛がせたいし、寛がせた方がよいに決まっています。心の健康にとって、どれほど、大切かとも思います。
けれども、まことの寛ぎ、安息とは違います。まことの寛ぎ、安息とは、神の御前に安心していられる、寛げるということです。つまり、私どもが今ここで体験していることは、まさに奇跡のようなこと、いへ、奇跡に他なりません。いったいどうして、罪深い私どもが、この聖なる神の御前に安心していられるのでしょうか。それは、私どもの罪が赦されているからに他なりません。罪人があるがままで、神に近づけるのは、礼拝を捧げることができるのは、私どもの罪が一方的に赦されているからです。ここに、私どもの特権があり、奇跡があるのです。
私どもは死んだ後、各々が地上でした行為の責任を問われます。神の審判を誰ひとりの例外なく、受けます。しかし、私どもは今、ここで、すでに神の審判を先取りしています。ここで、主の日のたびごとに、安息日のたびごとに、私どもは神の御前に悔い改めをなし、そして、説教によって、第一主日には、あるいは先週のように特別の祝いの日には、聖餐の礼典によって罪の赦しを確かなものとされます。これこそが、人間が生きている間に、経験すべきまことの寛ぎなのです。本物の安息なのです。
それは他ならない神御自身の救いの御業のおかげです。父なる神さまが一方的に、私どもを憐れみ、私どもに御自身の御前に立てるようにと、神さまの子どもとならせようとしてくださったからです。それこそが、神の独り子イエス・キリストが、人間となって、私どもの罪を背負い、この罪の責任、神の前に受けなければならない罪の支払う報酬としての刑罰を、つまり死を、代わりに受けて下さったあのみ業、十字架と復活のおかげです。神に感謝そして栄光あれ。
祈祷
神殿より偉大なる主イエス・キリストとその父なる御神、あなたは、聖霊によって、私どもの捧げたこの小さな礼拝堂にもご臨在下さいます。私どもは今、御子キリスト・イエスのもとに招かれ、罪の重荷、この世の重荷をおろして安んじています。今年、この神の平和、イエスさまにある寛ぎの中で、生かされて参りました日々を心から感謝致します。どうぞ、新しい年も又、いへ、これまで以上に、魂に、あなたの安息を深く経験させて下さい。どうぞ、そのために、志を立て、安息日を聖とし、それをいよいよ深めるための祈祷会、諸集会、そして教会の奉仕に生きることができますように。アーメン。