★ 先週の朝夕の祈祷会では、○○委員が奉仕されたラジオ放送、キリストへの時間の録音テープを聴きました。父君の病床での信仰生活について、証しがなされました。あらためて、○○兄の在りし日の姿を偲び、また、ご遺族のための慰めを祈りました。しかし、何よりも、「家族伝道に集中する」年間目標に掲げて歩もうとする私どもの教会にとって、まさに、時宜を得た証しでした。
医師から危険な状態であると告げられてから、○○委員は、ご家族を説得されました。そして、洗礼を受けてから実に一年、病床で、私どもの会員の誰よりもよく信仰の戦いを戦って下さり、私どもに天国の希望を証し、信仰に生きる姿を見せてくださり、牧師であるわたし自身の信仰を励まして頂きました。
家族伝道は、祈りに始まり、祈りで終わるでしょう。「わたしは、そんなに信仰がない・・・」などと言ってはなりません。ことは、救いがかかっています。永遠がかかっています。確かに、私どもはかつて洗礼を受けることなく召された兄弟の葬儀をこの礼拝堂で執り行いました。○○です。死別の悲しみは、あまりにも深くありました。そして、洗礼を受けることなく天へ送り出したことへの悲しみもまた深かったのです。しかし、わたし自身は、礼拝には出席を重ねられた義父は、頑なに信仰を告白し、洗礼を受けることから逃げていましたが、父なる神が最後のとき、信仰へと導いて下さり、何よりも私どもの執り成しの祈りを聴いて下さったと信じます。しかし、このことによって、いよいよ、家族伝道の緊急性は身にしみました。
どうぞ、祈りましょう。共に、祈りましょう。先ず、私どもじしんに愛と信仰とが増し加えられるように祈りましょう。そして、何より素朴に信じなければなりません。私どもが家族を愛し、救いを祈っているはるか以上に熱く、切実にそれを祈り、願っていらっしゃるのは、主イエス御自身でいらっしゃるということです。この主の憐れみが、わたしを救って下さったのですし、私どもに関わる、愛する人をお救いくださるのです。
中風の人を担架に乗せて、主イエスのみもとに運んだあの4人の信仰者を思います。(マルコによる福音書第2章)主イエスは、中風の人をご覧になったのではありません。4人の信仰を見て(!)、「子よ、あなたの罪は赦される」と宣言なさったのです。それは、病の癒しではなく、罪の赦しでした。私どもが、最も急がなければならないのは、「罪の赦し」に導くことです。主イエスは、群衆がついてきたとき、彼らを癒されましたが、誰にも言いふらさないように戒められました。病の癒しより、罪の赦しこそ決定的だからです。家族伝道に集中する私どもに、求められているのは、そのことです。
何よりも、自分自身が問われます。親であれば、我が子に決定的に必要なことは、何であるか、親自身が狭き門である学校や塾、はては習い事・・・と考えているのであれば、子らが、信仰に導かれることはよほど困難となるのは、当然のことかと思います。そのように公言するキリスト者を知りません。しかし、そのようにしてしまっていること・・・、これは、私どもの戦いです。
☆ 今週も又、○○委員の放送を聴きます。「研究とわたし」という主題です。これも毎年の最大級の課題である、「祈祷会出席」と関わります。キリスト者の研究者、社会人として生きる上で、祈祷会や読書会がどれだけ大切であったかが証しされています。今、祈祷会では、「語られた礼拝説教」が改めて、語られます。
説教とは、その説教が聴かれるだけではなく、「行われたとき」に初めて説教行為が完結、もしくは結実するのです。そのために、ときに、ひとり一人と向き合って、「あなたはこの説教をどのように聴きとられましたか?あなたの生活の中で、どのように応答すべきですか?」とお尋ねすべきではないかとすら、思う場合もあります。現実には、ほとんど、できません。しかし、祈祷会では今、それに「近い」ことが行われています。
★ 先週も、「リジョイス」執筆に時間を多く振り分けました。(洗礼入会志願者に購読を勧めました。)使徒パウロは、主イエスに「救われ」、主イエスから「派遣」されます。この二つの動きは、キリスト者の動きそのものです。天国(礼拝・教会)へと救われ、天国に招待するためにこの世へと派遣されるのです。礼拝に出席するということは、単に、自分の救いを喜ぶだけではありません。私どもの隣人にその恵みをたずさへ、招待することです。どうぞ、招待できる人として成長させて頂きましょう。主の訓練を率先して受けましょう。
☆ 先週は、雪のため、途中で引き返された仲間がいらっしゃいました。ある教会は、出席者半減であったと・・・。送迎の奉仕について、皆さんで、祈り、考えなければと思います。
★ 次主日は、いよいよ、総会です。投票による委員選挙のために、祈りましょう。自分に与えられた賜物を見出し、捧げましょう。また、わたしと委員方の責任は、会員の賜物を見出し、奉仕を依頼することです。