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「救いようのない人とは・・・」

「救いようのない人とは・・・」
2011年1月23日
テキスト マタイによる福音書 第12章22-32節 
【そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。
「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」】

今朝の説教の題を「救いようのない人とは」と致しました。実は、看板に掲載されたのを見たとき、もとよりよく考えた上でのことでしたが、やはり、ためらいを覚えました。一般的に、「あいつは、救いようのないやつだ。」等と、使われます。人を見下し、批判する、最悪に近い人間評価です。そんなことを言う人も、言われる人も悲しいこと、悲しい人だと思います。

このような説教題を選んだのは、今朝のテキストの説教準備のために最初に読んだ時、特に、わたしの耳に大きく鳴り響く御言葉がこれであったからです。「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」主イエスは、ここではっきりと「赦されない罪がある。聖霊を冒涜し、言い逆らう罪だけは、絶対に赦されない。」と宣言されました。私は、実に、恐るべき御言葉であると思いました。

さて、今朝の物語は、安息日における主イエスのみ業をめぐる一連の物語の続きです。主イエスは、安息日に会堂の中で、ファリサイ派の人々の面前で片手の萎えた人を癒されました。ファリサイ派の人々は、ついに、ここでイエス殺害の相談を始めることとなりました。もはや決して後戻りできない、決定的な事件となりました。主イエスは、これらを見て、会堂の外に出て行かれます。大勢の群衆もついて来ます。

そのときまた、今度は、目が見えず口の利けない人がイエスさまのところに連れられてきます。それが、今朝与えられた物語の序章です。手の萎えた人の癒しも癒しの奇跡そのものですが、しかし、盲目で口がきけない人、おそらくは、しゃべるためには、聴くことが不可欠ですから耳も聴こえなかった人、言わば、三重苦の障碍を負って生きていた人だろうと思います。主イエスの力を目撃した人々が、「そうだあの人を連れてこよう」と思い立って、遠く連れて来られたのかもしれません。主イエスは、安息日、決して仕事をしてはならない日に、この人をも癒されたのです。 

これを目撃した群衆は、「皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。」のです。当然の反応であったと思います。ダビデの子とは、つまり、救い主のこと、神がやがて遣わしてくださるユダヤ人のメシア、キリストのことです。主イエスに対して、最大級のよい反応を示したわけです。

ところが、ファリサイ派の人々は、それに対して、まさにここでも否、ノウを宣告します。この男がこんなこと
をやってのけているのは、間違ってはならない、悪霊の頭、首領、ベルゼブルの力を借りて、行っているだけだととんでもない的外れの批判を致します。

少し横道にそれますが、「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」という表現が出てまいります。2000年前の当時、人々は、病や不幸をもたらすのは、原因が分からないこと、不幸なこと、これらをすべて悪魔のせいにして、受け止めていたのです。その意味で、マタイによる福音書も、その人々の考え方をもとにこの記事を記しています。当時の人々の考えをそのまま受け止めながら、当時の人々に分かるように、理解できるように語っているわけです。もとより、今日の時代では、そのように考えないのが常識です。万が一にも盲人の方や聾唖者の方に、悪霊によってそうなっているなどと、言うことはもとより、考えることも許されないことだと思います。

ただし、聖書の中で、しばしば悪霊や悪魔が登場します。つまり、私どもは、聖書によって確かに、悪魔であるサタン、サタンの霊である悪霊の存在を認めなければならないのです。人間の社会には、まさに悪魔、悪霊が実際に攻撃を加え続けている、これこそ聖書が私どもに告げる、世界の真相なのです。万一、それも、昔の人の考え方だと言って取り下げてしまったら、それこそは、悪魔の思うつぼでしょう。

さて、主イエスは、ここでファリサイ派の人々から、「彼は、サタンの霊によって、奇跡を行っているに過ぎない」と批判されます。主イエスは、これを断じて無視されません。この批判に、真正面から応答なさるのです。
そうして主イエスが語られたのが今朝の御言葉です。ひと言でいえば、悪霊の頭ベルゼブルだったら、この人を癒すのではなく、さらに悪くするだけではないか。悪霊が悪霊を追い出すことはあり得ない。もしそうだった場合は、さらに悪くなるだけ。そのような内輪もめは、悪魔どうしであってもするはずはない。というものです。
もし、イエスさまがベルゼブルの力で悪霊を追い出すなら、ファリサイ派に人びとは何の力で、自分たちの仲間の力で追い出せるのか。こうして、ファリサイ派の人々こそ、悪霊の力に取りつかれているという決定的な批判を展開なさっておられるわけです。これは、ものすごい批判だと言わなければなりません。そもそもファリサイ派とは、分離者という意味です。彼らは、一般大衆とは分離した、自分たちこそ神の霊に満たされ、神の側に立って、神の正義の審判を、地上で執行する者、神の代理人のように自任し、実践していました。主イエスは、実に、その彼らに対して、「あなたがたこそ、真実の意味で、悪霊の力に導かれているのではないか」と、そう批判なさるのです。

 もとより誤解してはなりません。これは、彼らの人格や存在を否定する言葉と目的ではまったくありません。ファリサイ派の人々がイエスさまを殺害するような意味で、つまり、愛のないことばを語られたのでは、決してありません。むしろ、主イエスは、彼らのために、究極の罪、赦されない罪を犯させないためのまさに立ち向かい、説得なさるのです。つまり、「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」その聖霊に対する罪を犯させないように試みておられるのです。

さて、説教において、罪について語るとき、キリスト者であれば問題はありませんが、初めて教会に来られ、聖書を読まれた方のためには丁寧な説明が必要となります。日本人に聖書が説かれるとき、ごくごく基本的なことを最初に確認する必要があると思います。つまり、主イエスがここで明らかにし、聖書が一貫して語っている罪とは、我々が犯罪行為と考えるそれではないということです。つまり、人間集団、人間関係、人間相互の間における倫理、道徳、何よりの法律を犯すところの犯罪を意味していはいないということです。罪とは、神との関わり、神との関係についての違反のことです。神とその御言葉に背くことです。神との正しいかかわりがない状態のことです。

もとより、罪を神との関わりに限定するだけではありません。ここでも主イエスは、犯罪を含んで語っていらっしゃると思います。「人が犯す罪や冒涜」と語られています。人が犯す罪、これは、犯罪をも含んでいる表現です。冒涜とは、神に関わることです。まさに、聖書の罪に焦点が当てられています。

今、皆さまと、このようなことを考えて見たいと思います。いったい、この世の中で、もっとも大きな罪を犯した人とは誰でしょうか。先ず、最初にいわゆる一般庶民が日常の生活の中で犯す小さな悪、軽犯罪があるだろうと思います。一方、巨悪という言葉があります。これは、権力者たちが権力を笠に来て、隠れて大きな犯罪をなして、利益をあげるということでしょう。

したがって大きな罪ということを考えると、やはり歴史上の人物が挙げられることになるのかもしれません。そして、それは、1世紀より2世紀、2世紀よりは3世紀と、人類の文明の発展とともに武器の製造とともに、あるいは経済の成長と共に犯す罪の総量と言いましょうか、大きさもまた大きくなって行くのだろうと思います。そうなりますと、やはり、20世紀のあの世界戦争に行きつくかもしれません。

しかし、最後の最後に行き着くのは、このこと以外には考えられないと思います。すなわち、十字架です。人となりたもうた神を殺す事。神の愛そのもの、神の憐れみそのもの、神の御好意そのものを、まさに恩を究極の仇で返すこと、他のいかなる犯罪とも罪とも比較にならないほどまさに、言葉の正しい意味で究極の神冒涜です。しかし、主イエスは、人の子、キリストであられるイエスさまに言い逆らう者であっても、いへ、言い逆らうだけではなく実際に殺してしまった人たちの罪すら赦されると仰せになられるのです。
 
さて、それなら、聖霊に言い逆らう罪とは何でしょうか。「この世でも後の世でも赦されることがない。」究極の最悪の罪とは何なのでしょうか。

その前に、聖書が証する神、私どもの信じる唯一の神とは、どのような神でいらっしゃるのかを確認致しましょう。聖書が明らかにする神とは、父と子と聖霊において一つの交わりを持たれる神、三一の神、三位一体の神です。父なる神も御子なる神も聖霊なる神も、神御自身でいらっしゃいます。つまり、その御性質において、まったく一つであって、その栄光もまた等しいのです。父なる神の方が、御子より優れ、聖霊なる神より御子の方が優れているということもありません。それなら、何故、主イエスは、私に言い逆らうことは赦されても、聖霊に言い逆らう者は、取り返しがつかず、永遠に赦されないと断言なさるのでしょうか。

そもそも、聖霊なる神のお働きとはいかなるものでしょうか。聖霊とは、今ここで私どもに働く神です。御父も御子も今、天にいらっしゃいます。私どもは、直接ここでお会いすることはできません。その意味では、まさに距離があります。断絶があります。ところが、聖霊なる神は、天にいますだけではなく、父なる神が御子を通して、私どもに注がれる神の霊でいらっしゃいます。つまり、聖霊は、まさに私どものこの場所におられます。私どもと生活を共にしていてくださいます。私どもの傍らにいてくださり、一瞬一瞬、共に歩んで下さいます。しかも、わたしの傍らにいて下さるばかりか、私どもの存在のもっとも深いところに、私どもの魂に宿って下さいます。まさに、完璧なまでに私どもと共に生きて下さる神でいらっしゃいます。

主イエスの説教も、主イエスの奇跡の行為も、ただ一つのことを目指しているとは、これまで何度も学んで参りました。主イエスが告げられた福音とは、これでした。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」天国は近づいている。今まさに、ここに近づいた。だから悔い改めて、ここに入りなさいということです。そして、そのために、奇跡を起こして下さいました。それは、ご自身が神の御子、キリストであり、そのお方が目の前に臨在している、存在していること、つまり、天の国が今、目の前にあるということ、イエスさまにおいて始まったことを高らかに宣言するためでした。

それが今、あらためて主イエス御自身の口からはっきりと語られたのです。その意味では、決定的に重要な御言葉です。お読みします。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」つまり、主イエスが神の霊、聖霊の力によって悪霊を追い出す奇跡を行われるのは、それによって、神の国がここに来ていることが明らかにするためでした。癒しの目的は、単に肉体の問題の解決で終わるものではありません。

主イエスが癒された人々に悟ってもらいたいことはこのようなことです。「神の国はあなたのところに来ているよ。ほら、このわたしがあなたの目の前にいる。ほら、わたしが、あなたを癒した。これは、神の国、天国があなたに近づいた証拠なのだよ。だから、あなたは悔い改めなさい。」

主イエスは、おそらくこの三重苦のなかで生きてきた彼にこう伝えたのではないか、伝えたかったのではないかと思うのです。「あなたはこれまで、目が見えない、口が聴けないことで、神などいない、神は愛の存在などではない。自分は神に愛されていない。そんなふうに思ったり、口に出したことがあるかもしれない。でも、違ったね。あなたは、悪霊に側にいたのではない。あなたは、神の側にいるのだ。」

私どもは先週もあの片手の萎えた人を癒された主イエスのお心を見ました。「あなたはこれまで自分を傷ついた葦と思っていたかもしれない。くすぶる灯心だと考えていたかもしれない。しかし、神は、あなたを折らない、消し去らせない。癒して立ちあがらせる、神へとまっすぐに向き直れる、赤々と暖かく燃え上がることができる。ほら、その証拠に、あなたは癒される。わたしが言う通り、手を伸ばしなさい。」これが主イエスのお心です。主イエスがいのちをかけて、証明なさったことなのです。これが父なる神のお心なのです。親心なのです。

「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」天国がこの地上に来ている。それは、聖霊がここに来ておられるということなのです。あらためて聖霊とはいかなる神でいらっしゃって、どのようなお働きをなさるのかを確認しましょう。聖霊は、天におられるだけではなく、同時に、今ここにもおられます。それが、聖霊の特質なのです。つまり、今、聖霊がここにご臨在して下さっているということは、ここは既に、確実に、天国の門、天国の現れであるということです。

そして、この聖霊のお働きは、常に、私どもを主イエスに導くことです。主イエスに近づける神です。天国へと誘う神です。神を信じさせるお方です。神のお心を示し、信仰を与えて下さるお方です。

いささか乱暴で、誤解を与えかねない表現になりますが、聖霊のお働きとは、今朝与えられておりますこの物語、このテキストの悪霊、サタンの正反対の働きをなさるということです。つまり、サタンが企てることは、ただ一つです。病気や災害、不幸や悲しみを与えることだけがサタンの仕業ではありません。つまり、サタンが家庭の安定や仕事の安定を導いているということもあるのです。驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんが、そうなのです。何故なら、もし、仕事が順調に行くことによって、教会生活がおろそかになるのであれば、そこにまさにサタンの企てを見ることができるはずです。家庭が円満である、だから教会生活に熱心にならなくてもよいし、むしろ反対に、教会によって家庭の平和が壊れるくらいなら、教会なんて意味も価値もないと考えて、教会から去るのであれば、それもまさにサタンの誘惑です。つまり、サタンの狙いとはただ一つです。私どもを主イエス・キリストから、父なる神から、信仰から引き離そうとすることです。

それに対して、聖霊なる御神は、私どもを主イエスへと導かれます。信仰へと、天国へと憧れさせ、誘って下さいます。信じないことではなく、信じること、憎むことではなく、愛することへと励まし、押し出して下さいます。これが聖霊のお働きなのです。私どもキリスト者が主イエスをキリストと理解し、信じることができ、告白することができたのは、ただ一つの理由です。それは、聖霊が私どもに直接に働きかけて下さったからです。
こうして、聖霊は、私どもを天国へと誘われるのです。したがって、この聖霊を拒む、言い逆らうとはどのようなことかと申しますと、自分は救われなくても良い、自分は天国など入りたくもないし、神などまったく必要がないと、救いを拒絶することに他なりません。罪を犯した自分を悲しまず、その罪のまま、人生を終わって何の悔いもない。赦される必要もなければ、赦してもらいたいとも思わない。そのような人であり、罪のことです。
ある人は、それを絶望と呼びました。「こんなわたしはもう、赦されない」と、自分の救いに絶望することです。そもそも、赦しも何もないと、赦されることを諦める。それが、赦されざる罪、救いようのない人とは、ただその人だけです。どれほど、人々から軽んじられ、自分でもそうされて当然だと思うようなでたらめな生き方をしていても、もしも、死の床の、いまわの際で、こんなわたしも天国の行きたいですと、行かせて下さいと希望するなら、救われるということです。そうなれば、わたしが最初に思った、この御言葉の恐ろしさは修正されるべきです。むしろ、神の赦しの圧倒的な力、偉大さ、巨大さ、深さ、広さ、高さにこそ、恐れおののかなければならないと思います。

わたしは牧師としてこれまで、何度か、とても真面目な方から、こう批判されたことがあります。「キリスト教は好い加減だ。どんな罪でも赦されるなんて、不真面目ではないか。あんな犯罪者、こんな犯罪者であっても、イエスを信じたら罪が赦されるだなんて、そんなことでは、正義もなにもあったものではない。だから、キリスト教が嫌いだ。」その方がキリスト教にそのようなイメージを持ってしまったこと、持たされたのであれば、本当に、申し訳ないと思いますし、謝罪しなければなりません。しかし、だからと言って、ご自分の罪の赦しの必要性を認めないこととは話が違います。

聖書の言う罪とは、犯罪のことではありません。罪とは、神との正しい関係にない状態のことです。神にそむくこと。御言葉に逆らうことです。極悪と言われる犯罪者も、たとい死刑囚であってもなお獄中で主イエスを信じるなら、ただそれだけで、永遠の命へと導かれます。

わたしは、この説教の準備の最初に、赦されない罪について関心を集中させてしまいました。もとより、そのことは極めて大切です。しかしむしろ、もっとも驚くべきこと、そして感謝すべきことは、罪の赦しの徹底性にあるのです。実に、イエスさまに言い逆らい、イエスさまを殺す罪ですら赦されるのです。イエスさまを殺したのは、2000年前の人たちだけではありません。今も、多くの人々は、私どもの隣人は、イエスさまを無視することによって、黙殺しているのです。しかし、彼らにも徹底的な赦しが備えられているのです。

今朝のテキストを読みながら、人間にとってまさに何がなくても、これだけあればよい、逆に、これがなければ、すべては空しい、空しいどころか恐るべきことになるという、もっとも基本的な真理を再確認させられました。

私どもは、今朝も礼拝式で、主の祈りを祈りました。この祈りは、私どもにこう祈りなさいと命令と共にプレゼントされた祈りの贈り物、宝物です。私どもは毎日、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまへ」と祈ります。何故なら、主イエスが、この祈りを通して、私どもに、「罪の赦しこそ究極の幸いなのだ。あなたの罪が赦されているそのことにまさる祝福は、地上にないのだよ。あなたはなんと幸いな人であるのか」と、告げて下さるからです。心から主に感謝したいし、すべきです。

私どもの周りには、自分のいい加減さに絶望して、もう、だめだと救いを諦め、神に絶望する人、つまり、「救いようのない人」になっている人が大勢います。しかし、「ダメと言ってはダメです」と告げたいのです。どんな人、どんなことをしてきたとしても、主イエスは救いの御手を差し出しておられます。聖霊は、その御手を示してくださいますと告げたいのです。

いへ、「救いようのない人」とは、ファリサイ派に対してこその悔い改めへの呼びかけでした。つまりそれは、今日のキリスト者への呼びかけとしてこそ、理解すべきメッセージであります。聖霊に言い逆らうとは、キリストに従うべきことをはっきりと示されていながら、それを拒否することです。そのような罪を犯す可能性があるのは、むしろ、キリスト者だけではないでしょうか。

私どもは、イエスさまに何度も言い逆らったし、今も言い逆らうまことに愚かで、頑なな者です。まさに罪人の頭です。しかし、そのような罪の中の罪さへ赦された罪人である私どもだからこそ、罪人の頭だからこそ、もうここに、神の国が到来している事実を告げたいと思います。それ以外に、罪の赦しの福音、神の国の福音にあずかった人間の生き方はないはずです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神よ、私どもの罪をお赦し下さい。常に、赦しを求めさせて下さい。そして、赦された確信と喜びをもって、聖霊に従う信仰を富ましめてください。そして、罪の赦しがすでに準備されていること、神の国がここに来ていること。主イエスが、信じないものではなく、信じるものになりなさいと御手を伸ばしておられることを、私どもが手を伸ばし、福音を宣べ伝えることによって、今ここで、主のお心が前進するために、神の国の拡大のために、私どもを用いて下さい。アーメン。