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「修行によらない人間形成」

「修行によらない人間形成」
2011年1月30日 定期会員総会
テキスト マタイによる福音書 第12章22-32節 
【「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、
自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
 

ただ今、聴きました聖書の箇所、説教のテキストは、先週に引き続いて、主イエスが律法学者、ファリサイ派の人々と論争なさっている個所です。

主イエスは、目が見えず、口の利けない人をも癒されました。つまり、神の国が主イエス・キリストによってもたらされ、今、ここで現実化している、ここに始まっていることが、明らかにされたわけです。ところが、これに対して、ファリサイ派の人々は、なんと、悪霊の頭ベルゼブルの力によって奇跡を行っているのだと批判しました。徹底的に、神とその御心に反抗し、自分の罪と過ちを認めず、悔い改めようとしないわけです。そこで主イエスは、ファリサイ派の人々の本質、その姿をあぶり出されます。それは、他でもありません、彼らをそこから救いだそう、悔い改めさせようとして、語られたのです。

冒頭で、「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。」と語られます。この御言葉はすでに、マタイによる福音書第7章において出て参りました。山の上における主イエスの説教の結びの部分です。「偽預言者を警戒しなさい。~あなたがたはその実で彼らを見分ける。」つまり、教会は偽りの説教者、指導者に騙されてはならない、見破らなければならないと言うわけです。そして今まさに、その人々こそ、ファリサイ派の人々、律法学者に他ならないことが分かるのです。
今朝与えられた主の御言葉、「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。」実はこれは、第7章とは逆の表現になっています。第7章では、「実によって、木の良し悪しを判定するのだ」とおっしゃいました。わたしは、これは、とても不思議な、おかしな言い方だと思います。常識的に考えれば、木の良し悪しというのは、木を見るだけでは良く分からず、むしろ、第7章で語られた通り、まさに結ぶ実で分かるものだと思うからです。

今年、教会の庭に植えられたレモンは、ついに実りました。何年かかったことでしょう。豊作と言っても良いのではないかと思います。僅かばかりでしたが、皆さまにお分けすることができました。まさに、レモンの木は、よい木であったわけです。また、日当たりや水や栄養なども良かったのでしょう。
 それに対して、すでに一昨年になりますが、一生懸命育てたぶどうは、ほとんど実を結ぶことなく、完全に枯れ果ててしまいました。素人判断ですが、土壌の問題が大きいかもしれません。しかし、やはり、木そのものが、よくなかったのかもしれません。

 いずれにしろ、木の良し悪しが、その結ぶ実で分かるということは、まったくその通りだと思います。そのためには、時間がかかるわけだと思います。ところが、主イエスは、ここで、木がよければ、その実も善いと考えなさいと仰います。つきつめて言えば、こう言う事です。実りを結ぶ前に、もう、良い木なのだと認めてしまいなさいということです。いったい、その意味は何でしょうか。

 主イエスは、ここで、木とその実との関係を、人間の内心、心の思い、考えをなす部分が木であり、それが外に現れることつまり言葉と行いとを実りになぞらえられていらっしゃるのです。良い実、悪い実というのも結局は、その木そのものの実りであって、時が来れば、はっきりするわけです。主イエスは、その判定のために時間が必要ではあるけれども、大切なことは木そのものであるという、言わば、ごく当たり前のことを指摘なさったのだと思います。

 さて、問題はしかしまさにそこから始まります。34節で、主は、こう呼びかけられます。「蝮の子らよ。」これは、本当に主イエスがおっしゃったのであろうかと一瞬、耳を疑うほどのことばです。主イエスが、悪い言葉は、悪い木から実るということですから、そうご指摘なさる主イエスご本人もまた、蝮の子だなどと、人格を否定するかのような言葉は、慎まれた方がよいのではないか、一瞬、思うわけです。しかし、もとより、主イエスがこのような表現をなさったのは、それなりの理由、正当性があるはずです。

そもそもこの表現を最初に用いたのは、誰であったのでしょうか。忘れることはできません。それは、洗礼者ヨハネでした。少し長くなりますが、お読みします。第3章7節以下です。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。」

洗礼者ヨハネは、彼らに、「自分たちのことを、神に選ばれた者、神に最も近いもの、アブラハムの生粋の子孫であるなどと認識するな」と、警告しました。つまり、ヨハネは、彼らが洗礼を受けにやって来たことを手放しで喜び、評価しなかったのです。むしろ、そのことによってますます、自分たちが神に近づき、いよいよ自分たちの正義、自分たちの清さ、自分たちの宗教的誇り、人間的優越を誇ろうとするその魂胆を見抜いていたのです。ヨハネは、彼らのこと蝮、猛毒をもった蛇の子と、呼びました。羊の皮をかぶった狼とも言いました。

ファリサイ派の人々は、久しぶりにこの言葉を聞いたと思います。「ああ、洗礼者ヨハネと同じだ」と思い起した人たちもいたはずです。そして、まさにそれが、主イエスの狙いに他なりません。

今、彼らにもっとも足らないこと、必要なことがあります。それは、「あなたたちは悪い人間である」という厳しい批判をそのまま受け入れることです。ところが彼らは、こう考えています。「悪い人間、それは誰のことか?我々は、ファリサイ派だ。一般のユダヤ人より、はるかに厳格に律法を守って生きている、その意味で、自分たちに良心の呵責などない。自分たちこそ、神の正義だ。」

彼らは、将に今ここでこそ、神に真実に悔い改めなければならないのです。生きる方向、考え方を180度転換しなければならないのです。そうしないと、本当のことが、真実が、真理が、一番大切なことが目に見えないままになるからです。分からないまま終わってしまうからです。

さて、聖書の中で、人間の語る言葉にもっとも集中したのは、ヤコブ書です。第1章26節にこうあります。「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。」さらに、第3章6節以下にこう続きます。「舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。あらゆる種類の獣や鳥、また這うものや海の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」 

舌を制御できる人になる、それは、おそらく人格が完成される暁の姿、人格の理想、その究極の姿なのかもしれません。したがって、おそらく賢い人は、いわゆる、おしゃべりには、ならなくなるでしょう。つまり、慎重に考えて発言する、そのようなわきまえを持つようになるし、努めるでしょう。それは、単に、自分を守ろうとするからではないはずです。そうではなく、隣人を傷つけたくないからです。隣人に死をもたらしたくないからです。

 さてそこでこそ、いよいよ、最も大切なこと、本論に入らなければなりません。主イエスは、ここで、断定しています。ファリサイ派の人々は、悪い人間、悪い木なのだと断定なさるのです。そして、そこにこそ、最も大切なメッセージが込められているのです。人間は、必ず、心の底にあるものが外に現れざるを得ません。したがって、心の底に思い、頭で考えていることは、口をあけて何事かを語り始めるとき、どうしても、悪い言葉が出てしまうからです。それは、心がけや修養努力どころではとてもではありませんが、間に合わないのです。

私どもの周りには、確かに修養努力をもって、自分の品性、人格を陶冶し、磨こうと志していらっしゃる方がおられます。尊敬すべき方々です。あるいはまじめな宗教であれば、修行を大切にするでしょう。具体的に言葉遣いやものの考え方まで指導されるでしょう。あるいは、宗教ではなくとも、いわゆるスピリチャルとか精神世界について関心のある方は、人間としてよりよい生き方を目指すことでしょう。哲学もまた、本来、良く生きるということがその目標のはずです。

 ここに登場するファリサイ派の人々とは、まさにそのような精神生活を誰よりも大切にしている人々に他なりません。しかもそれは、単にわけのわからない精神生活、スピリチャルとか哲学でもなく、神の言葉、律法に基づいているのです。したがって彼らは、まさに、自分たちこそ、悪い人間の正反対、対極にいると考えているのです。自分たちこそは、良い人間として、良く生きているとうぬぼれているのです。
 
しかし主イエスは、まさにそこにメスを入れます。「そうではない、あなたがたは、あの洗礼者ヨハネが指摘した通り、蝮の子、悪い人間なのだ」と。「あのとき、あなたがたは、神に悔い改めるべきだったのだ。しかし、ヨハネの洗礼を受けながら、結局、真実に悔い改めていない。そこに、あなたがたの根本問題があるのだ」ということです。

それをひと言でいえば、どういうことでしょうか。主イエスは、修養努力、修行によって高めて行くあり方を破壊なさるのです。彼らは、律法を一つひとつ守り、実践しながら、どうなっていたのでしょうか。結局、いよいよ高慢になって行ったのです。もとより、賢い人は、その高慢さを隠そうとするでしょう。しかし、彼らは自分を誇りとすることによって、むしろ、真実に神と近づくのではなく、離れて行ったのです。

彼らは、主イエスに何かを語れば語るほど、神の裁きを受けることになります。彼らの宗教指導が熱心になればなるほど、悲しい事ですが、神のみ心からいよいよ離れて行きます。その典型的な実例が、サウロです。後の使徒パウロです。彼が、律法に忠実になればなるほど、彼は、キリスト者を迫害しました。まさに、キリスト者をキリストの弟子と見て、悪霊に取りつかれた者たちと判定したのです。その時、彼は、自分がしていることこそ、神の正義そのものだと確信していたのです。

 先週、集金に来られた新聞屋さんが、おそらく営業も半分あるのだろうと思いますが、こう仰いました。「昔、教会に行ったことがあります。他のおかしな宗教とは違って、キリスト教は良い教えですよね。」他の宗教とは、具体的に言うと、創価学会のことでした。わたしは、「そうですか。もしそうお考えなら、教会は、いつでも開いていますし、日曜日は礼拝がありますからね」とお誘いしました。おかしいというのは、人間性についてのことかと思います。

 キリスト教は、いささか乱暴な言い方ですが、確かに人格の完成を目指します。改悪された教育基本法でさへ、教育の目標を「人格の完成」とうたいます。しかし、キリスト教は、人格の完成を、これまた乱暴な言い方ですが、教育によって実現しようとするのではありません。実現できると、考えていません。

 わたしもキリスト教主義学校にしばらく前まで、関わりました。キリスト教主義学校の多くは、人格の完成を目指します。しかし、言うまでもなく、キリスト教主義学校と教会とは違います。教会は、その人間性の回復を、主イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされる救いによるものとして、理解しているからです。
つまり、人は教育によってではなく、修行でも努力によってでもなく、主イエスによって救われることによって、悪い木から良い木へと変換される。変容されるからです。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第11章において、異邦人の救いをイスラエルというにオリーブの木に接ぎ木されることによってもたらされたのだと表現しました。野生のオリーブが神のオリーブに接ぎ木されるのです。

 悪い木は、良い木に接ぎ木されるとき、良い木になるわけです。こうして、異邦人もまた良い木になるわけです。そして、その良い木とは、単に、イスラエルという存在そのものではなく、むしろ、イスラエルを選び取られた神御自身のことを意味していると理解すべきです。もっとはっきりと発音すべきでしょう。イエスさまというお方ご自身こそ良い木なのです。この良い木に接ぎ木されるとき、悪い木が良い木に変えられるのです。そうでなければ、悪い木は、どこまでも悪い木のままです。しかし、神は、異邦人であってもファリサイ派であっても、いかなる悪い人間であったとしても、信仰によってご自身に結びつく者であれば、良い木へと変容させてくださるのです。

牧師を20年余り続けることが許され、つくづく思います。救いの恵みの力です。それは、人間を変えることができるのです。野生のオリーブという表現を用いるなら、キリスト者になる前、その言葉も行動も言わば野生ぶりを発揮しておられた方も、時間がかかるかもしれませんが、しかし、しっかりとキリストにつながっているなら、キリストにあるなら、キリストにおいて生きるなら、説教を聴いて、聖餐にあずかって、御言葉によって信仰を成長させられるなら、まさに品性や人格そのものが高められ、聖められるということです。私どもの教会もまた、そのような方の集いに他なりません。

 もとより、私どもはそのために、教会生活をしているわけではありません。ここは、キリスト教主義学校、大学でも大学院でもありません。しかし、信仰の実りがあるのです。

そして、同時に、この事を決して誤解してはなりません。きちんとわきまえていなければなりません。主イエスが求めておられる真実の人間、救われた健やかな人間、人格の成熟、完成とは、救われた者への御言葉の教育によって現実化されるという真理です。これが神の定めた手段なのです。したがって私どもは、決していわゆる派手なことはしません。ここには、弁舌巧みな説教者はいません。皆さんを感動させ、興奮させ、一気に引っ張るような説教がここでなされることは決してありません。むしろ、それを排除します。私どもは、ここで、コツコツと御言葉を学ぶのです。それによって、私どもは信仰を育てられるのです。

ただし、またこの事もしっかりとわきまえていなければなりません。くり返しますが、単なる学び、学びそのものがわたしどもを変容するわけでは決してないということです。私どもの心がけ、努力がけによって人間性が豊かになり、人格が完成されて行くのではないからです。私どもがなす学びとは、キリストに正しく、豊かにつながるための学びなのです。そしてそれは、当然、一過性のものであってはなりません。継続しなければなりません。だから、コツコツ励むのです。私どもの教会が、礼拝式は言うまでもありませんが、祈祷会や読書会を重んじているのはそのためです。かつて、読書会とか学び会は、堅い、難しい、もっと楽しくできないものか、何度もそう言われました。けれども、結局、学びを重ねる人と、しない人とでは、論より証拠だと思います。

 さて、ファリサイ派の人々のことが登場するとき、彼らを決して、他人事として聞いてはなりません。昔話では決してありません。今日のファリサイ派とは、イエスさまを信じている私どもに通じているからです。むしろ、私どもへの批判、警告として聴きとられるべき御言葉なのです。つまり、確かに、形式上は信じている、キリスト者ではある、しかし、常に、自分のこだわり、自分の確信、自分の信仰理解にこだわる人こそ、結局、ここで批判されたファリサイ派の人々の姿と二重写しになるのです。つまり、私ども自身こそ、ここでの主イエスの批判に対して、恐れなければならないのです。

私どもは問われています。主キリストに正しく繋がっているかどうかということです。悔い改めているかどうかです。悔い改めるということは、ここでの流れの中で、申しますと、自分で自分のことを正しい者と決して認めないということです。自分を正しいと認めて下さるのは、神のみだからです。

そして、神は、私どもを主イエス・キリストの故に、主イエスを信じ、主イエスと一つに結びあわされた故に、正しいと、ここで言えば、絶対的に、あなたは良い木なのだと、神が評価して下さったのです。私どもは、この神の絶対評価の前に、安心して良いのです。安心すべきなのです。

しかし今、「ああ、自分は何度、口で失敗したことか、何回、言葉と行いにおいて人を傷つけてしまったことか」と、がっかりしてしまうキリスト者、良心が疼いてしまうキリスト者がいるはずです。おかしな言い方かもしれませんが、当然のことです。そのような疼き、呵責をまったく知らないキリスト者は、いないはずです。私どもの口からひがみ、そねみ、悪口、批判、うそが外にでてしまっているからです。それを隠し、偽ることはできません。

それは、私どもがまだ、人間として完成されていないからです。途上を歩んでいるからです。私どもは、過程を歩んでいるのです。成長のプロセスの中にあるのです。しかし、へこたれません。私どもには揺るがない希望が与えられているからです。主イエス・キリストにつながっているなら、たとい私どもがどんなに悪い木であっても、私どもはすでに良い木になっていると、主イエスの宣言と救いの約束を信じているからです。私どもは良い木でいらっしゃる主イエスに接ぎ木されているからです。

木が良ければその実も良い」なんという有難い言葉でしょうか。私どもは、ここで、主イエスが一方的に宣言なさった恵みと赦しに溢れたこの御言葉に慰められて良いのです。慰められるべきです。私どもには、決定的な事実があるからです。私どもは、主イエスの救いを受けているのです。私どもは信仰によってすべての罪を赦されたのです。主イエスと一つに結びあわされているのです。洗礼を受けた者たちなのです。

しかし、同時に私どもは、この完全なる赦し、救いの喜び、神の御前に良心の平安を味わうその中で、主イエスがこの説教の結論で警告された御言葉に震えおののきつつ、悔い改めを重ねるべきであります。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」私どもは決してルーズになってはなりません。赦されたからこそ、自分の言葉に責任を持ち、真実に誠実に歩むものとされて行くのです。

 先週の説教を改めて思い起こします。もしも救われた、洗礼を受けたのだから、もう、自分の言葉や行いがどうであっても、大丈夫なのだと、良い木と認められるのだと、おかしな理屈、へ理屈をのべるなら、それこそが聖霊に言い逆らうことになります。

私どもは主イエスの御言葉を悟らせて下さる聖霊に慰められつつ、明るく平安の内に、希望をもって、この生身の罪深い、弱い、悪い木が、主イエスのおかげで良い木とされたこの事実を徹底的に信じ、感謝致しましょう。そのとき、私どもはいよいよ、よい言葉を溢れるように語り、キリストを賛美し、人々を救い出し、励ますことに熱心な良い木として、人間形成、人格形成を求めて前進できるのです。
 
祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもは生まれながらの悪い木です。時が来れば、悪い実を結んでしまうほかなかった者です。しかし、あなたは、イエスさまへの信仰、洗礼によって私どもを主イエス・キリストと一つに結び合わせ、そのようにして私どもの存在を良い木として変容してくださいました。心から感謝致します。今、その恵みを信じ、感謝する故に、ファリサイ派の罪を犯すことからお守り下さい。むしろ、キリスト者としての奉仕の生活によって、言葉と行いによってあなたの福音を飾り、証することが出来ますように。聖霊を豊かに注ぎ、私どもを育てて下さい。名古屋岩の上教会を、いよいよ良い木として、いよいよ良い実を豊かに結ばせて下さい。アーメン。