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「信じる-理解するために-」

「信じる-理解するために-」
2011年2月6日 第一主日
テキスト マタイによる福音書 第12章38-42節 
【「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。
イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。
また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」】
 
 
今朝も先週に引き続いて、主イエスとファリサイ派の人々との論争、議論の箇所を学んで、神に礼拝を捧げます。ここでの説教は、「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。」ことから始まります。それは、主イエスが28節で、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と仰った御言葉を受けてのことだと思います。

ここで「しるし」と言う言葉が出て参りました。とても重要なことばです。これは、単に、奇跡という言葉、その意味と同じではありません。しるしとは、ユダヤ教の言わば教理の言葉です。つまり、メシアである証拠と言う意味が込められているのです。

彼らは、単なる奇跡なら、それは悪魔でもやってのけると考えていました。これは、正しいことです。たとえばモーセの時代のことを思い起こすことができます。彼は、エジプトの王、ファラオに向かって杖を蛇にする奇跡を起こしました。もとより、神が起こされたのです。ところが、エジプトの魔術師たちも、魔術を行って杖を蛇にしたのです。

我々の時代でも、さまざまな宗教やスピリチャルという怪しげな団体や人物が、不思議なことを言ったり、行って見せることが少なくありません。その意味で、ファリサイ派の人々が、目の前で主イエスが行われた奇跡を見て、ただちに神の御業、聖霊のみ業だと信じなかったのは、あえて申しますと、彼らなりのちゃんとした理由があったわけであります。

 当時、ユダヤはローマ帝国の属国として組み込まれ、人々は経済的に苦しんでいました。社会には、言わば空気のように、メシアへの期待、待望が満ち溢れていました。それが、この「しるし」という言葉に示されています。そして実は、自称メシアたちもたくさん登場しました。

メシアはヘブライ語で、そのギリシャ語読みがキリストです。メシアとは、もともと油を注がれた者という意味です。ユダヤの王に就任する際に、オリーブ油を注ぎます。そこから、神に任職された力ある指導者、政治的解放者という意味が生じました。このユダヤ社会は、宗教によって統一されることを目指す言わば宗教社会ですから、宗教的な意味の解放者、つまり救世主という意味も込められるようになります。

人々は、力強い解放者、神の権威と力に溢れた指導者を求めていたのです。反対に言えば、おかしなメシア、偽預言者が民衆を扇動してしまえば、たちまちローマの軍隊に取り押さえられ、今ある平和、安定もなくなります。そうなれば、ユダヤの指導者たちにすれば、偽のメシアがおかしなことをしでかす前に取り押さえたり、その運動を潰そうと考えるのも、当たり前の事と思います。 

したがって今、ファリサイ派、律法学者たちは、彼らの職責上、責任上からも「先生、しるしを見せて下さい」と尋ねたのです。しかし、主イエスは、彼らに対して極めて厳しく叱責なさいました。「イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」彼らをよこしまな時代、神に背く世代であると叱責なさいます。
 
 𠮟責なさる主イエスのお姿、説教については、すでに第11章で集中的に学びました。今朝は、丁寧におさらいする暇はありません。どうぞ、後で確認してください。洗礼者ヨハネは、獄中から弟子たちを派遣して、「あなたはメシアその人ですか」とイエスさまに尋ねさせます。主イエスは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」つまり、第12章28節で語られた、主イエスが神の霊で悪霊を追い出していることを知らせないと仰いました。最後に、「わたしにつまずかない人は幸いである。」と結ばれました。 

20節では、奇跡を目撃しながら、悔い改めなかった町全体を厳しく叱責なさいました。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。」 

今朝の御言葉は、まさにその説教に続くものです。ここに預言者ヨナが登場します。マタイによる福音書を理解するためには、いえ、新約聖書を理解するためには、必ず、旧約聖書を開かなければなりません。その意味で、ここでやはり、ざっとでもヨナのお話しをしなければならないと思います。

ヨナは、神の言葉を語る預言者でした。神は、彼に、ニネベという12万人以上の異邦人が暮らす町に行って、神の言葉を語り、彼らを真の神の御前に悔い改めさせ、信じさせるようにという特別の使命を与えられました。ところが、なんと、このヨナは、この神のご命令、自分の使命から逃げ出してしまったのです。船に乗って逃げている途中、大嵐にあいます。彼は、自分のせいでこんな苦しみを受けているのだから、手足を縛って海にほうりこみなさいと乗船者に言いました。彼らはその通りにします。すると、おお凪になりました。放りだされたヨナはなんと三日三晩、クジラに飲み込まれるのです。そして、三日後にクジラは、ヨナを陸地に吐き出したというのです。ユダヤ人であれば、知らない人はいない大変有名な、そして不思議な物語です。

さて、主イエスは、この有名な物語を、御自分に当てはめてここで語られます。これは、実に驚くべきことなのです。ヨナがクジラの腹のなかにいたように、人の子、つまり主イエス御自身のことですが、イエスさまも三日三晩、大地の中にいるというのです。大地の中にいる、これは何を意味するのでしょうか。明らかなことです。ユダヤも、また世界の多数は、人は死んだら、土葬します。日本もそうでした。つまり、墓の中に葬られるということです。つまり、メシアは、殺されるということです。そんなことを聞いたら、彼らはただちに、「そんなしるしなどあるものか」と反発するはずです。いへ、当時のユダヤ人なら誰一人の例外もなく、主イエスの弟子たちですら、まったく思いもよらない不思議な「しるし」の主張です。人々が考えている、確信しているメシア、解放者のイメージとは、正反対のものだからです。それもそのはずでしょう。「この人なら、やってくれる。ローマの圧倒的な支配から、解放してくれる。神の力と神の栄光みなぎったまさに輝かしい人こそ、メシアになるべき人だからです。ローマの軍隊に簡単に返り討ちにあって殺され、葬られるような人なら、ただの民兵でしかありません。いや、民兵どころか、まったくの一般人ではないかということです。

ところが、主イエスは、ここで、「メシアとは死ななければならない、殺されるのだ」と予告なさったのです。ただしさらに、こう丁寧に言わなければならないでしょう。ヨナはクジラに飲み込まれましたが、吐き出されました。食べられなかったのです。つまり、主イエスもまた一度殺されますが、しかし、大地の中から、墓の中からその力を自ら打ち破って、あるいは神によって打ち破って頂いて、復活するということを宣言なさったと読みとることができますし、読みとるべきです。つまり、主イエスは、「メシアのしるしとはただ一つ、十字架に死んで、その三日後に復活する」そのようなメッセージをここで遂に明白になさったわけです。あのヨナの物語は、イエスさまの十字架と復活の予告であった、これは、ユダヤ教の人々が考えも及ばなかった聖書の解釈でした。

そしてここでの説教の結論は、これです。「ここに、ヨナにまさるものがある。」主イエスは、あの預言者ヨナにまさる。それは、しかし、単純にヨナだけのことを示しているわけではありません。ヨナは、ここでは、預言者の代表なのです。つまり、その真意は、これまで旧約聖書に登場した神のすばらしい預言者たちに圧倒的にまさった存在、それが他ならない主イエスでいらっしゃるということなのです。そのような預言者の中の預言者でいらっしゃるイエスさまが、目の前にいて、神の言葉を告げておられるのです。

それゆえ主イエスは、ファリサイ派の人々にこう警告なさいます。「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである」つまり、主イエスはここで、まさに目の色を変えて訴えられたのは、こういうことです。「今こそ、わたしの言葉を聴いて、悔い改めなさい。悔い改めなければ、異邦の町ニネベに対して用意された裁きとは比較にならないほどの裁きを受けることになるのだ。」 

次に、南の国の女王が登場します。これは、シェバの女王の物語です。列王記上第10章、歴代誌下第9章に記されています。ソロモン王の知性、その栄華を聞き及んだ女王が、わざわざそれを確かめにやって来たのです。シェバとは今のエチオピアあるいはイエメンという説があるようですが、大変な距離をはるかにやって来たのです。当時の世界からすれば、まさにそれは、「地の果て」と表現しても、決して大袈裟ではなかったはずです。それほどのソロモンの知恵と繁栄ぶり、名声は世界にとどろいたのです。イスラエルの歴史にとってまさに頂点の歴史です。

 さてしかし、主イエスは、なんと、ご自身のことを「ここのソロモンにまさるものがある。」と自己紹介なさいました。ソロモンとは、歴代の王の代表であるということでしょう。主イエスは、諸王の中の王、王の中の王、比べることのできない王なのだと主張なさるのです。主イエスこそは、知恵に満ちた誠の王なのです。神の知恵そのものだからです。少し難しい表現ですが、ヨハネによる福音書の冒頭で、この真理が明らかにされています。初めにことばがあった。ことばは神であった。つまり、神の知恵、神の言葉御自身がイエスさまとしてこの地上に人間の体を取られた、受肉されたのです。

 主イエスはここでこう叫んでおられるのです。「ソロモンに会おう、彼の主なる神からくる知恵を見て見たいと、そのためなら、はるか地の果てのエチオピアからでも労苦と犠牲をものともしなかった女王がいたのです。それを思えば、今、ソロモンにはるかにまさるお方が、目の前にいらっしゃる、むしろ御自身の方から近づいて来られた。だったら、あの女王がソロモンに捧げた金銀財宝などくらべられないほどの宝をもって、どんな犠牲や困難をも乗り越えて、このわたしを礼拝すべきであろう。」これが、主のメッセージです。

 皆さまのなかで、覚えていらっしゃるかたもおられると思います。第12章6節で、主イエスのこの自己紹介です。「言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。」神殿とは祭司の働き場所ですから、今ここで、主イエスは、預言者の中の預言者、王の中の王、祭司の中の祭司、つまり、ユダヤにおいて、神に油注がれた者、メシアの職務として考えられていた三つの職務のすべてが出て参りました。つまり、目の前にいらっしゃるイエスさまこそ、「預言者、祭司、王」の三職をすべて兼ね備え、これまでの人々を圧倒的に凌駕する存在であると、マタイによる福音書は紹介しているわけです。

 
 私どもキリスト者は、このマタイによる福音書を読んで、いよいよ、まことにイエスさまは、メシア、キリストでいらっしゃるのだと心から理解できると思います。ところが、当時のファリサイ派の人々は、反対に、いよいよ理解できなくなってまいります。いよいよ心が頑なになって行くのです。どうしてでしょうか。彼らのメシア理解、救い主イメージが、イエスさまの説明とかけ離れているからです。

 いったい何故、彼らには、目の前にいらっしゃる主イエスが、これほどまでに力ある御業をなされたお方を、メシアとして正しく理解できなかったのでしょうか。それは、彼らが先入観に凝り固まっていたからです。自分のイメージの枠の中で、メシアを考えていたからです。

さてしかし、それは、実は、彼らだけの問題、大失敗では決してありません。キリスト教の神学の歴史の中で、11世紀にアンセルムスという神学者が活躍しました。これは、現代の私ども福音主義教会の神学者にも計り知れない影響を与えた神学者の一人です。彼の遺した、大変有名なテーゼがあります。どこかでお聞きになられた方もいらっしゃるかもしれません。「知らんがために信じる。」「知るために信じる」この神学者によって、まさに、神学と言う営みが学問へといよいよ高められて行ったのです。

 このテーゼ、格言は、まさに今朝のテキストに当てはめることができると思うのです。一つには、私どもが神さまを、主イエスを正しく知ろうとするなら、先ず、正しく心を開き、正確に聴くことが不可欠だということです。私どもはいつでも、この説教においても、おそらくは皆さまひとり一人自分に引き寄せて聴こうとしているのではないでしょうか。昔、わたしが神学とか教理とか少しでもそのような言葉を語ると、もう、ダメ、アウトとなる方々がいらっしゃいました。

確かに我々は、話されている内容が、自分の日常生活のことと、自分の関心、興味、かかわりがないことだと判断すると、すぐに、耳は働いていても心は動かない、頭も動かない、こういうことはしばしばあると思います。学生たちが教室で、しょっちゅう繰り広げている光景だと思います。「ここは、テストに出るよ」こう言うと、ただちにスイッチが入るのです。けれども、興味もないお話しで、試験に関係なかったりすれば、興味のない授業は、上の空になるわけです。誰しも、覚えがあるのではないでしょうか。

 これはキリスト教、聖書だけの教えではないと思います。もし、誰かが、先ず、その人を知ろうとするなら、虚心坦懐、先入観をもたないで、その人の声に耳を傾けることが大切だと言われます。ただし、残念ながら先入観を持たない人はいないのです。まったくの初心者か小学1年生のときくらいではないかと思います。実は、知れば知るほど、先入観が構築されます。固まって行くのです。これが、我々の性、弱みです。

 さて、そのとき、普遍的な真理として明らかになることがあるだろうと思います。相手を知る、物事を知るとき、そのときに絶対に必要なことがありのです。それなしに、知るということ、認識するということが成り立たないわけです。それが信仰に他なりません。ただ人間や物事に当てはめるなら、信仰とは呼びませんから、信頼と言った方が良いかもしれません。単純に言えば、信じるということです。

 人は、友だちの言葉を信じることなしに、友だちになれません。相手を理解できません。もしも、あなたが言うことは本当かどうか分からないので、しるしを見せてください。目に見える証拠をだして下さいと言うなら、人間関係は成り立ちません。夫婦はもとより、親子でもそうでしょう。誰とも心を通い合わせることはできません。富士山を見たことのない子どもに、「富士山は日本一高い山です」と先生が教えます。もし、子どたちが、「そんなの信じない。先生の言うことは証拠がない。教科書は嘘を書いているのかもしれない。自分で確かめる。」こう言うのなら、きっとその子は、成長できないでしょう。本当には、賢くなれないのではないでしょうか。我々人間の世俗の営み、地上の営みにおいても、何よりも先ず、信じるところからしか始まらないのです。始められないのです。信じることなしに、私どもは世界を知る事、認識することはできないのです。何よりも人と人との関係においてこそ、もはや決定的に重要なのです。

そして、まさに、人格の中の人格、存在の中の存在、すべての実在、確かさにはるかにまさって実在していらっしゃる神については、信じることなしに、知ることはできないのです。信じることなしに、知ることのできる神は、死んだ神です。ちっぽけな神です。人間がつくりだし、考えだした偶像でしかありません。
 
 私どもキリスト教の側から申しますと、聖書の神、真の神は、教理を筋道たてて学べば誰でも理解できます、などとは決して言えません。そのような偶像ではないからです。牧師が上手に、例えを用いて説明して行けば、分かる、そんなことはあり得ないのです。わたしの手のひらの中に握りしめられるようなカミではありません。聖霊なる神御自身、神御自身が私どもの心を開いて下さることなしに、分かりません。逆に申しますと、だからこそまことの生ける神が、どのような目に見える存在よりも確かに分かる、信じられるのです。

 そのためにはどうすればよいのでしょうか。答えはごく簡単、単純です。神の御言葉を聴くことです。まさに先入観を持たずに、聴くことです。確かに、皆さまもまた、ここに自分の問題、自分の生活、人生の課題をかかえておこしになっていらっしゃいます。しかし、それを脇に置くことが秘訣です。なぜなら、そこにこだわったままであれば、神の生ける声、神の生ける御言葉を聴きそこなうからです。

時々、「こんな時には、この御言葉を読みましょう」などというリストが掲げられる書籍を見ることがあります。確かに、まったく聖書を開いたことのない方のためには、そのようなお勧めも有効です。しかし、注意すべきです。たとえば、エホバの証人の方がお持ちの聖書には、そのように人に語り、開くべきリストが記されていると言われます。論争用、伝道用のリストなのでしょう。

そのようなことを掘り下げて考えるとき、私どもの教会がどうして、講解説教を重んじているのか、答えは明らかになるでしょう。確かに、皆さまの中で、今の自分自身に、今日の聖書個所、説教は、どう関係があるのだろうか、今の私どもの教会にどう関係あるのだろうかと、ピンとこないときもあるかもしれません。しかし、主が語られることばを聴くことによって、実は、今この時の課題が、解決、克服へと導かれて行くのです。何よりも教会がそこに建て上げられて行くわけです。つまり、説教とは、個人的、個人主義的にここでなされているわけではないのです。したがって、説教を聴く皆さまもまた、そうでなければ、そこで、すれ違いが起こってしまいます。主イエスとの出会いが起こらない危険性が生じるのです。

 信仰がなければ神を、主イエスを知ることができません。私どもは、主イエスを信じる信仰を、まさに、神から与えて頂きました。信仰は与えられるものだからです。そして、その目的は、いよいよ主を知るためです。そうであれば、信仰者としていただいたキリスト者たちは、いよいよ主を知る者となりましょう。主イエスがどのような思いを込めて、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」と仰せになられたのかをわきまえ知りましょう。「信仰がなければ、神に喜ばれない。」これは、ヘブライの信徒への手紙第11章で著者が、情熱を傾けて語り続ける言葉の中でも、急所となる御言葉です。主イエス御自身が、私どもを見つめて、信じる者になれと招いておられます。復活以外に目に見える証拠はないのです。

私どもはどうすれば良いのでしょうか。ただ、信仰が深まることを祈り求めることです。それは、神を知るためであり、ことばを変えれば、従うために他なりません。神に、従う熱意がないとき、私どもは神を知る熱意も冷めて行きます。教会生活は成り立ちません。そのために、御言葉を聴いて、祈り求めましょう。神を正しく知ることこそ、私ども人間の生きる最高の目的であり、喜びだからです。主イエスをキリストと知ること、それが私どもの救いだからです。ここで神を知るということは、神さまとの交わりをなすことです。生ける神さまとのいのちの交流、愛の関係、父と子としての絆のことです。この交わりへと、主イエス・キリストは私どもをお招きくださったのです。

この後ただちに聖餐を祝います。そのために、今、心の底から悔い改める必要があるのかないのか。一人一人が既に示されたはずです。主を正しく知ること、信仰の不足を、信仰が富ましめられることを祈り求めるその熱意の不足を悔い改めることです。今こそ、聖餐を祝い、この聖餐における主イエス・キリストとの交わりを、地上にあって最高に神を知る礼典に与りましょう。聖餐の礼典においてこそ、私どもは主イエス・キリストとの交わり、父なる神、聖霊なる神との交わりに与ります。神を深く知り、味わうこの聖餐の食卓にあずかりましょう。

祈祷
主イエスよ、地の果てからでも、あなたにお会いしようとする熱意がなければ、あなたに相応しくないはずです。あなたはソロモンにはるかにまさり、ヨナにはるかにまさるキリストでいらっしゃるからです。信仰を富ましめて下さい。あなたを知る喜びを深く味あわせて下さい。そして、信じない者ではなく、信じる者となり、主イエス・キリストを証し伝える者とならせて下さい。アーメン。