★ 先週の礼拝式後、皆さまとお祈りした○○姉のお父さま、○○○○氏を家内と共に月曜日に、お訪ね致しました。ご両親さまは、お二人ともキリスト者ではありません。○○姉は、ついに病床で、お祈りすることもできなかった、と仰ったほど、キリスト教とは距離がおありでした。訪問も、わたしに失礼があると困るという、「奥ゆかしいご配慮」・・・で、なかなか申し出られませんでした。そのような背景の中で、特に朝の祈祷会では、お祈りが重ねられてまいりました。そして、先週の礼拝式後、皆さんで、執り成し祈ったわけです。
☆ 牧師としては、このような訪問は、まさに緊張を強いられます。何度経験しても、慣れることはありません。不信仰ですが、ご一緒に、お祈りすることすらできないで帰って来ることも、予想しました。(それだけに、その不信仰を皆さんの祈りと共に破って頂く必要もあったのです。)
玄関先で、○○姉から、わたしが牧師であるという事を伏せ、キリスト教主義大学の先生と、ご紹介しておられると、伺いました。(「非常勤」ですから、まったくの偽りではないでしょうが・・・)つまり、訪問を受け入れて下さることすら案じられたわけです。しかし、今回も驚くべき御業を拝しました。
短いひととき、世間話で終わることなどできません。すぐに、自分が牧師であって、まことの神さまのことをお伝えしたいのでお訪ねしましたと・・・。その後のことは、はっきりとは覚えていません。「わたしは天台宗であって、それは止められない・・・」と、声を振り絞られました。
わたしは、おそらくこのように申しあげたのだと思います。
「すこしも構いません。仏教でもイスラム教でも、(帰属する)宗教は関係ありません。○○○○さんは、天地をおつくりになられたまことの神さまに愛されています。神さまに愛されて、いのちが与えられ、今日まで守られてきました。そのいのちは今、終わろうとしています。でも、この聖書のまことの神さまは○○○○さんの天のお父さまです。天国へと導こうと願っていらっしゃいます。そして、そのためにイエス・キリストというお方を与えて下さいました。主イエス・キリストは今、わたしがお父さんの手をにぎりしめているように、ずっと握りしめていて下さいました。わたしは、牧師です。わたしが手をこのように握っているということは、イエス・キリストが握っているということなのです。どうぞ、 お祈りさせて下さい。」
すると、頷いて下さったのです。わたしは、もはやそれ以上、お話しをしなくともよい、と思い、ただちに、祈りました。どのような祈りを捧げたのかも、よく覚えていません。「天国に入れて下さい。」というものだったかと思います。祈り終えたとき、なんと、
「主イエス・キリスト アーメン!主イエス・キリスト アーメン!」と噛みしめるように仰ったのです。まさに、聖霊が注がれたのです。短いけれども、最高の信仰告白、「主イエス・キリスト アーメン」この救いのことば、信仰の言葉を、「告白して下さい!」とお願いしてもいないのに、教えてもいないのに、唱えられたのです。つまり、神の子とされ、キリスト者とされたのです。
姉妹から、後で頂いたメールに、「良い父親でなくてすまなかった。今までよくやってくれてありがとう、と言われ二人で泣きました。~」と。主イエス・キリストの聖なる御名を讃美し、聖霊のお働きに感謝致します。
その後、お母さまともしばし交わりの時を与えられました。そして、そこでも最後にお祈り致しました。しかも、「アーメン」と唱和して下さったのです。さらに別れ際、「今度は教会で・・・」と!。Soli Deo Gloria!です。
☆ 先週の通信に、「家族伝道~お互いに祈り、そして、互いに知恵を出し合い、協力を求めましょう。何よりも、わたしをどう『利用』してくださるか・・・です。牧師はそのためにも、存在しているのですから。」と記しました。○○姉もまた、牧師に遠慮をなさっていらっしゃいました。(忙しいから・・・と)私どもの教会は、奥ゆかしい会員が多いという祝福を受けています。これは、すばらしいことです。教会生活は人格の交わりによって成り立ちます。聖書も又「品位」を重んじているのは周知のことです。しかし、牧師をその職務として利用してくださる、用いて下さることは、わたし自身のこの上ない喜びそのものであり、何よりも職務なのです。今年は、「家族伝道に集中する」と目標を掲げた私どもです。その意味でも、主の摂理を厳かに思う者です。
★ 昨年の個人伝道の学び会にて、「福音は、一分で語れる・・・。」と申しました。人生の究極の時、教理を筋道たてて説くいとまはありません。私どもの教会は、教理教育を教会形成の生命線として堅持する教会です。しかし、主イエス・キリストは聖霊によって私どもに宿っておられます。私どもは、誰でもキリストの弟子、キリストを宿すキリスト者です。この使命をわきまえ、神に「利用」(用いて)して頂きましょう。
☆ 数年前、神学校時代の後輩から末期の方の病床を訪ねて欲しいと依頼を受け・・・。若いご婦人は、全身を耳にして説教を聴いて下さいました・・・。最後に告白の祈り・・。今日の説教、私どもこそ全身を耳にして・・!