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「主イエスを宿して生きる人」

「主イエスを宿して生きる人」
2011年2月13日
テキスト マタイによる福音書 第12章43-45節 
【「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、   見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」】
 

 今朝も先週に引き続いて、主イエスとファリサイ派の人々との論争、議論の箇所を学んで、神に礼拝を捧げます。この説教は、先週の箇所とひとくくりにして語ることもできる、そのような個所です。特に、12章22節のベルゼブル論争がなおここまで続いていると読むことができます。むしろ、その結論部分に他ならないのです。先週の説教でも主イエスは、「よこしまで神に背いた時代のものたち」と語られました。この結論部分でもまた、「この悪い時代の者たち」と仰います。実に、厳しい叱責が続いているわけです。

主イエスは、ここでとても不思議なお話しを始められました。たとえ話と言っても良いかと思います。
主イエスは今、ユダヤの町々を巡り歩きながら、神の国が到来していること、神の国が始まっていることを見せて下さっています。28節で、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と仰ったとおりです。つまり、汚れた霊、悪霊どもは、主イエスが地上で活動を始めたときから、人々からどんどん、追い出されて行きました。主イエスの圧倒的な力で、悪霊どもはただちに追放されるのです。彼らが勝てた試しはありません。悪霊が主イエスに立ち向かえたこと、伍して戦ったことなど、新約聖書のどこをみてもでてまいりません。言わば、格が違いすぎるのです。確かに弟子たちは、悪霊を追い出せないことがありました。第17章を扱うときに学ぶはずです。そこで弟子たちは、主イエスにこう尋ねています。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」それに対して主イエスはこうお答えになられました。「信仰が薄いからだ。」弟子たちは、悪魔、悪霊と必死になって戦った様子が分かります。しかし、主イエス御自身がいらっしゃるところ、悪霊の出番、活躍する余地はまったくありません。
 

 とてもおもしろい表現ですが、主イエスは、人から出て行った悪霊は、砂漠をうろつくと仰います。砂漠と言えば、いよいよ主イエスが伝道を始めるとき、悪魔の誘惑を受け、戦いを挑まれた戦場でした。おそらく砂漠こそ、彼らが戦いを優位に展開できる場所だということなのでしょう。何故砂漠なのでしょうか。砂漠には、水がありません。生存の困難な場所、人間の居場所ではありません。砂漠は、人間の力の限界を知らされる場所だからなのかもしれません。

 悪霊は、砂漠に追いやられます。ところが、休む場所を探しても見つからないと言うのです。これもとてもおもしろい表現です。砂漠とは言わば、彼らの本拠地、居場所のハズなのに、休み場所にはならないというのです。彼らは、何かをしたいのです。休みたくないのです。働くことを求めているのです。その相手は、人間に他なりません。彼らのどうしても住みつきたがっている場所は、我々人間だというのです。

悪霊ということでは、私どもは既に第8章28節以下で、悪霊に取りつかれたガダラの人を癒した物語を学びました。ガダラと言うガリラヤの町の対岸にある異邦人の町に、二人の男性が墓場を住みかにしていました。聖書は、彼らは悪霊に取りつかれていたからだと告げます。そして凶暴なふるまいをして、そこを通りかかる人々に危害をくわえていたのでした。主イエスは、実に、この二人のために、わざわざ弟子たちを伴って、しかも嵐の海を越えて、彼らのところに来たのです。

すると、彼らはこう叫び始めました。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか

さて、ここでもしかすると蛇足かもしれませんが、私どもが決して誤解してはならないことがあります。確かにこの発言は、二人の言葉に間違いありません。しかし、間違っていならないのはこれは決して、彼らの本心ではありません。本音ではありません。この声こそは、まさに悪魔の声なのです。おそらく、彼らは、自分が悪魔に取りつかれているのだとは考えていません。したがって、その声が自分の本心だと思っています。しかし決して騙されてはならないのです。

皆さまの中で先週、伝道する機会が与えられた方なら、もしかするとこのような言葉を聞かされたかもしれません。「ああ、キリスト教ですか、まあ、悪くはないかもしれませんね。しかし、今は、わたしにかまわないでください。その内に、お世話になるかもしれません。あまり、しつこく、誘わないでくださいね。」

私どももまた、かつてそのように誰かに言ったことがあるかもしれません。確かにそれは、そのときの素直な思いであったかもしれません。しかし今、それがどんなに愚かなことであったかと自らを恥じる以外にないでしょう。もし、神さまがそれを、私ども自身の最後の言葉、取り返しのきかない言葉、ファイナルアンサーとして受け止められたなら、私どもは救われることはできなかったはずです。

今もなお、キリスト教についての無知や誤解がはびこっています。今も、私どもの教会のことを「怪しいのでは」などという先入観で考えている方々も少なくないと思います。しかし、私どもは、それを彼らの本心、本音ではないことを見抜いてあげなければならないはずです。万一にも私どもが、「そんなことを言うのだったら、伝道してあげないよ」「そんなことを言われるくらいなら、伝道しない」そのような思いを持つのであれば、それは、先週の御言葉に出てきたヨナと同じです。主イエスの使命から逃げているのです。
 
さて、悪魔は、彼らを墓場に住まわせました。これは、とても象徴的なことです。墓場とは、死の世界です。しかし、これも誤解されやすいし、先入観を持たれやすいのですが、何も、墓場は悪い場所、汚れた場所ではありません。ヨーロッパの教会には、敷地にお墓があります。大礼拝堂の中には、貴族や王たちの墓がいくつも安置されています。しかし、ここでは、墓とは、人間の死を暗示します。その人がその人本来の生き方から切り離されているということの象徴です。ですから、現代に置き換えれば、そこは、ビルの林立するオフィス街なのかもしれません。東京兜町とか霞が関、永田町なのかもしれません。悪魔の企てとは、その人を本来のその人として生きなくさせる、人間の本来の姿を壊すということです。

あのとき、悪魔は、主イエス・キリストに懇願しました。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ。」悪魔は、主イエスに寸分でも優ること、勝つことが出来ない存在であることがここではっきりと示されます。地上のいかなる権力も、キリストの主権の下に置かれていることがここでも示されています。

異邦人は豚を食し、飼育していました。悪魔は、その豚に入った後、その豚の群をガリラヤ湖の崖を降らせ、水死させてしまいます。つまり、悪魔の企ては、いのちの反対、光の反対、殺すことなのです。彼らの安息とは、彼らの働き場所とは、人間を苦しめ、競わせ、戦わせ、相互に殺させてしまうことなのです。それは、単に肉体を殺すことに限定することはできません。何よりも、人間の心を、その精神を不健康にするのです。何よりもそこで彼らの究極の狙いはただ一つのことです。人間を神さまとの交わりから絶たせてしまう、断絶させる、つまり、霊的な死、霊的に殺すことに他ならないのであります。

 したがって、もとに戻りますが、悪魔は、砂漠をうろつき、休み場所を探しますが、そこでは満足しません。悪魔はこう言います。「出てきた我が家に戻ろう」とあります。これまた、とても興味深い表現です。何故、悪魔は「出てきた」などと言うのでしょう。まさに、悪魔の本性丸出しです。悪魔の悪魔たるゆえんは、うそをつくこと、偽ることです。

もとより、ここでの悪魔の発言は、すべて主イエスの描き出される悪魔像に他なりません。しかし、主イエスだからこそ、悪魔の全貌、悪魔の本性を見抜くことがお出来になるのです。悪魔は、「出てきた」などと自惚れた偽りを吐きます。しかし、本当は、追い出されたのです。主イエスによって、神の霊によって、聖い神の霊によって追放されたのです。

 しかも嘘もたいがいにしなさいと言わなければなりませんが、「我が家」などと言ってのけます。我々人間は、悪魔の家などでは断じてありません。決して、騙されてはなりません。人間とは、神の形に似せて創造された神々しい存在なのです。すばらしい存在、神の傑作なのです。もともと、まことの人間を見ていれば、そこに神さまが分かってくるほどのまさに神的な存在なのです。人間は、神のいのちの息を吹き入れられた存在なのです。騙されてはなりません。神御自身こそ、人間をわが家としてくださる、これこそ、聖書の主張、メッセージなのです。
 
 さて、ここからが本論です。「戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。」我が家は空き家になっていた。悪魔は、びっくりしたのではないでしょうか。わが家だなどと、自惚れた偽りを言いますが、実際のところは、戻ってくるまで分からなかったわけです。悪魔は、追い出された家が、今やなんと空き家になっているのを知って驚きます。しかも、そこは、これまでより、もっと住みやすい、いつきやすい場所になっているのです。

 そもそも、主イエスは、何のために悪魔を追い出してくださったのでしょうか。明らか過ぎることです。イエスさまがキリストとしてしかも主となって宿られるためであります。ところが、今、空き家になっている。つまり、主イエスがいらっしゃらないと言うことです。言い換えれば、聖霊なる神が、その家にいないということです。

 その空き家は、なんと「掃除をして、整えられていた。」とあります。これはなかなか解釈の困難な個所ではないでしょうか。追い出される前の方が、居心地が悪く、狭かったのですが、整理整頓されると、自分よりもっと悪い他の七つの霊をつれて入り込んで住みつける。そのような広い場所、支配しやすい状態になっているのです。いったいどうしてなのでしょうか。これは、1週間、考え続けましたが、わたしは良く分かりません。

 負け惜しみではないと考えていますが、わたしは、もしも、それをちゃんと説明できる人がいれば、むしろ危険だなという思いを抱きます。もしかすると、説明できる人は、そのことを、経験された人になってしまうのではないかと考えたからです。これ以上、深入り、詮索しない方がよいでしょう。

 私どもは、主のメッセージは、悪魔を追放して頂きながら、しかし、肝心要の主イエスもまた、こんどは自分で締め出してしまうなら、それは、イエスさまを知る前より、はるかに恐ろしいことになるということを、知って、震え慄くことが大切なのだと思います。

 さて、本論の中の本論です。この物語、説教が語られた直接の相手は、もとよりファリサイ派の人々、律法学者たちです。彼らは、主イエスをこの後、ユダヤ社会から追放するために強力に動き出します。社会ばかりか、地上から追放する、殺すために動き始めるのです。そして、私どもは知っています。彼らの企ては、表面的にはまさに、成功したことをです。そうやって、彼らは、主イエスが「悔い改めなさい、しるしではなく、信仰によってわたしをキリストとして受け入れなさい」と招かれたのにもかかわらず、それを拒否してしまったのです。

 それなら彼らはその後、どうなったのでしょうか。主イエスはこのように警告し、預言されました。「その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」歴史は、こう告げます。このおそらく40年ほど後、ユダヤ社会、ユダヤの国家はまるごと滅ぼされてしまいます。消滅します。メシアを十字架につけてしまった彼らは、自らがメシアとなって、いへ、なったかのようにふるまってと言った方が正確でしょう。ローマ帝国に対して独立戦争を行いました。ユダヤ戦争です。そして、壊滅的に敗北します。国家再建どころか、国を失って流浪するのです。どんなにひどいことになってしまったのか。

主イエスを追い出した民は、「自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。」七つの悪霊とは、これも例えであり、象徴なのでしょう。七は、完全数ですから、悪霊に満たされてしまうということなのかと思います。それを、ユダヤ社会に当てはめるとき、わたしには、ローマ帝国に完全に支配されたことと重なって見えてくるのです。

さて、ここからこそ、まさに本論の中の本論となると思います。つまり、私どもへの直接のメッセージを聴きとりたいのです。このファリサイ派への警告の鋭さ、厳しさは、そのまま、キリスト者である私どもにも向かって来ます。本当に、震える思いで、私どもはこの御言葉を聴かなければならないはずです。

 私どもは先週、信じることが決定的に大切だ、信仰がなければ、神を、主イエスを知ることができないと学びました。今朝はその続きです。つまり、その信仰も悔い改めも、確かに時間で言えば、「点」のようなものだと思います。誰でも、主イエスを信じる瞬間、悔い改めたその時があったはずです。時間の中での点です。しかし、万が一にもそれがただの点で終わってしまえば、いかがでしょうか。あのときは、信じたけれども、あのときは確かに悔い改めた気持ちだったのだけれど、今は、信じてない。今は、教会生活をしていない。残念ながら、厳しい思いをいつも禁じ得ませんが、現実には、そのような方は決して例外ではありません。

 いったい、主イエスを信じるとは、いかなることでしょうか。それは、信じ続けることに他なりません。自分という家の真ん中に、その心のまん真ん中に、キリストをお迎えし、宿し、ずっと住んで頂くことに他なりません。信仰とは、単なる感情や感激で終わらせるのものではありません。主イエスへの愛と感謝とを志に換えることです。もし、それが定まらなければ、どうなるでしょうか。私どもは、主イエスを宿してはいるものの、主御自身を居心地の悪い場所へと押しやってしまうのです。片隅に追いやってしまうのです。私どもの信仰は、フワフワしたもの、しぼんだりふくらんだりする風船のようなものではありません。もしフワフワするのであれば、それは、いつまでもイエスさまを単に口先で主と口では告白しているだけでしょう。つまり、意志に換えていないからです。主に従う志に生きる、これこそが、キリスト者の本来の姿なのです。それが、キリストを主と宿された者の本来の家の姿なのです。志に換えることです。状況が整わない、環境が整わない、だから、教会人として深く献身できない、奉仕に踏み出せないと言うわけではないのです。状況も環境も、信仰によって変えることができる。これが、キリスト教信仰、いへ、イエスを主とする信仰の基本中の基本です。

先週の朝の祈祷会で、一人の方がこのような質問をされました。「悪魔は、いまも我々にかかわっているか。」キリスト者と悪魔とはまったく関わりがありません。主イエス・キリストは、私どもから悪魔を完全に追い出して下さいました。これは、明らかなことです。くり返しますが、悪魔、七つの悪霊がよってたかって総攻撃をしようと、主イエスに触れることはまったくできません。

ただし、私どもキリスト者については丁寧に申し上げなければなりません。よくお聴きください。残念ながら、悪霊は、私どもがキリスト者だからと言って、もうこれっきり、かかわりはないと言って、そのまま素直に別れてくれる、出て行ってまったく無関係になってくれるわけではありません。悪霊は、すぐに戻ろうと考えます。それは、彼が自分の居場所を、活躍場所を、働き場所を求めているからです。

くり返しますが、悪魔が主イエスを私どもの家から追い出すことは決してできません。主イエスを追い出すのは、私どもじしんです。すると、悪魔は喜んでやってくるのです。これは、とても不思議なこと、まさに神秘ですが、私どもの家は、つまり、私ども自身は、ここで明らかにされますが、実は、自分が自分の主人になれない「構造」を持っているのです。それが人間の基本構造です。つまり、私どもの家はもともと、イエスさまがお住まい下さるようにと神によって整えられているからです。神御自身の身が、私どもをまさにわが家にしてくださるのです。この辺りのことは、祈祷会でなお、きちんと掘り下げたいと思います。人生の先輩、教師、学者が、しばしば、このように仰ることがあります。「自分を自分じしんでコントロールしなさい。人生の決定権を自分が握りなさい。自分を信じて、やって下さい。」何だか、恰好の善い言い方です。真実に近い気もするのです。しかし、それは真実、真理の上辺にすぎません。騙されてはならないのです。
 
 洗礼を受けた私どもは、少なくともここで洗礼を受けた方たちは、悔い改めて、信じて洗礼を受けたはずです。そして、その悔い改めも信仰も、決して単なる歴史の中の点、時間のなかの一瞬のできごとではないのです。線となって行くのです。つまり、歴史を形成して行くのです。10年、20年で終わってしまう、卒業することなどありえません。死に至るまで、天国に入るまで信じ続ける、これが信仰なのです。点にしてはならないのです。

洗礼を受けるということは、まさに始まりを意味します。決してそこが最終目標なのではありません。出発点です。単なる出発点ではなく、永遠の出発点、決定的な出発点です。ですから、洗礼を受けなければ始まらないのです。

 そして、それは、人間の単なる志、意志で全うできるのでは全くありません。ただ、聖霊の力のお陰です。始まりも真ん中も終わりもすべては、聖霊の主権的な恵みと働きにあずかるということです。そして、それこそが、本来の人間のあり方なのです。決して特別なことではありません。そもそも、私どもは神の霊を注がれて生きる者とされたはずです。神の霊の注ぎなしに、生きれないはずです。

 使徒パウロは、私どもを聖霊の宮、神の神殿と表現しました。私どもは、空き家ではありません。聖霊なる神に宿って頂いています。つまりそれは、主イエス・キリストが宿っておられるということです。悪霊を追い出して下さったお方が、私どもを住まいとしてくださるのです。宿ってくださるのです。それをキリスト者と言うのです。キリストが宿っておられないキリスト者。それは、ことばの矛盾そのものです。冷たい熱湯?そのようなものです。 

私どもは、今朝もまた主イエスのこの御言葉によって、私どもの家を整えるのです。新約聖書は、そのために、いくつもの手紙を通して、どのようにしたら私どもの家が聖霊に満たされ続けることができるのか、信仰を点に終わらせないで線とするか、その道を鮮やかに書き記しています。ですから、これまでのようにこれからも、熱心に、御言葉を読み続けることが必要です。教会生活に励む以外にありません。主の祈りの第六祈願を日々、祈る以外にありません。「我らを試みに遭わせず、悪よりすくいだしたまへ
 
 最後に、先週の祈祷会でも証をしましたし、今週の牧会通信にも少し記しました。先週、お祈りしていただいた○○姉のお父さまの病床をお訪ねしました。そのようなときいつでも、あらためて信じ、それゆえにお祈りすることがあります。それは、わたしがそこに行くということは、わたしの内に宿っておられるキリストが共に行かれるということです。主が私を通して働かれることを信じることです。わたしは洗礼を受け、キリストと結ばれているという信仰の基本の確認です。だから、お祈りする以外にありません。祈祷会で申しました。これは、何も牧師に限定してはならないのです。皆様もまた、主イエスを宿しておられます。聖なる人々です。そしてその幸いは、同時に使命です。主の祝福を持ち運ぶ器、主イエス御自身を宿す家として、今週も生きて参りましょう。

 祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもはかつて、悪魔に私どもの家を明け渡していました。しかし、時至り、あなたが信仰を与えて御子を宿し、聖霊の家として下さいました。どうぞ、この厳かな事実を心から信じさせて下さい。そして、主が宿って下さる故に、私どもをあなたの使命のために派遣してください。主の代理人、大使として、主イエスのお働きを担わせて下さい。そのために、私どもを今あらためて、あなたにお捧げ致します。アーメン。