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「主イエスの家族としての教会」

「主イエスの家族としての教会」
2011年2月20日
テキスト マタイによる福音書 第12章46-50節 
【 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」】
 

 今から14年前か15年前、正確な年を思いだせないのですが、まだ、私どもの教会が、子どもの教会のキャンプを始める前のことです。夏のある日、何台かのレンタカーと会員の自動車を出して、信州の施設で一泊の集会を致しました。きちんとした学びの計画もない、言わば、交わりを主体にしたキャンプです。20代半ばの青年が中心のその集会は、とても楽しいものでした。しかし、まだキリスト者となったばかり、あるいは未信者も少なくないその集会で、わたしは今後のこと、教会の土台をどのように堅固に据えるべきか、そのことを巡っていよいよ考えさせられました。

夜の集会で、ひとりの兄弟が、その方も洗礼を受けてなお日の浅い方でしたが、「家族のような教会になりたい」と発言され、こう続けられました。「だから、もっと親しくなるために、このようなキャンプは大切。堅い事ばかりではなく、もっと楽しいことをしましょう。」若い方が中心の出席者の中では、年齢の高い方でした。その発言を伺いながら、わたしは、ただちに「それは違う、危ないな」と思いました。「ああ、教会の土台を据えることができるのは、まだまだこれからなのだ。」と思ったのです。ところがそのとき、一人の洗礼を受けたばかりの姉妹がこのような主旨の発言をされました。「そうではない。教会こそが家族なのだ。教会は神の家族で、私たちの肉の家族は、教会の家族に学ぶ必要があるのだ。」

洗礼を受けたばかりのその姉妹は、おそらく私とのマンツーマンの学び会の中で、わたしの言葉、わたしの教会理解を先入観を捨てて、自分の思いにこだわらず、きちんと把握されたのだと思います。これは、極めて重要なことです。

彼女は、わたしの思いをまさに、受け止めて、わたしに代わって「ここは」というところで、発言されたのだと思いました。開拓伝道で、いへ、開拓の時期に限定できません、教会の交わりにおいて、これは聖書の信仰、教理にもとる発言だ、間違いだというとき、会員じしんがそれを訂正する意見を出すことができれば、その教会はまことに強い教会となります。少なくとも教会役員とは、まさにその務めを担っている人たちです。そのような建徳的な発言する信仰の理解と信仰の実践が求められます。

そもそも、「家族的な教会」とはいかなる教会なのだろうかと問いを立てなければならないはずです。ときどき、自分の所属する教会の紹介として、「わたしたちの教会は、とても家族的な教会です」という言葉を聞くことがあります。言いたいことはよく分かります。「少人数ながらしかしお互いのことをよく理解し合っている、暖かくて、よい教会」という意味だと思います。確かに、礼拝出席者が100人を越えるようになれば、教会員全員の名前を覚えたり、その家族構成まで知るということは、大変難しくなるかと思います。

逆に、大人の礼拝出席者が40名に至らない教会でありながら、お互いの名前を覚えたり、その家族構成を知らない場合は、その人の教会生活そのものが問われてしまうのだろうと思います。教会としては致命的なことだと考えます。教会員のために、執り成し祈っていないということを意味すると思うからです。

さて、何よりも、聖書は何と言っているのでしょうか。新約聖書の中には、教会を描き出す御言葉はたくさんあります。その一つに、「神の家族」があります。エフェソの信徒への手紙第2章19節以下をお読みします。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」 

ここでのあなたがたとは、ユダヤ人ではなく、異邦人です。エフェソの教会員です。この異邦人キリスト者もまた、聖なる民つまりイスラエルに属する者、つまり神のイスラエル神の民すなわち「神の家族」そのものとされているというのです。教会こそが、「聖なる民に属する者、神の家族」なのです。真実の意味で家族、家族の交わりなのだということです。この真理をまさに、直接明らかにする御言葉が、同じエフェソの信徒への手紙第3章15節にあります。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」つまり新約聖書に基づけば、「家族のような教会」というのは、実は、順序が間違っているわけです。キリストにある家族がもとにあるのです。神によって血縁を越えた家族が造られたというわけです。血のつながりや戸籍にもとづく家族は、この神の家族から、家族とは何かを学び、この家族を目指すことによって祝福されるという構図、順序、秩序が示されているわけです。順番として、教会という神の家族が最初に来るのです。彼らがいわゆる人間的な家族のモデルとなるのです。
 
さて、長い前置きになりました。このような私どもに与えられている問題意識の中で、今朝の御言葉を味わいたいと思います。

 主イエスは今、ベルゼブル論争を終えてなお、説教を続けられていました。そこには、大勢の群衆がいたようです。ちょうどそのとき、主イエスの母マリアと兄弟たちが来ました。不思議なことですが、父ヨセフは登場していません。古来、ヨセフはすでに亡くなっていたであろうと言われています。おそらく主イエスは、長男として母を支え、弟や妹たちをも父親代わりに支えていたのではないかと想像されます。

 今、その主イエスのご家族が、そろって主イエスのもとに来ています。主イエスの説教を聴きに来たのではありません。「話したいことがあって」とあります。緊急の相談ごとかもしれません。おそらくは、楽しく、嬉しい相談ではないと思います。

 主のご家族は、声を掛けたくても群衆に遮られてしまっているようです。けれど、想像ですが、故郷ナザレからやって来た人々が、「あれ、マリアさんとお子さんたちではないですか」と気づいたかもしれません。そして、状況を察してくれたのかもしれません。こうして、「ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。」のでした。

 私どもは、主イエスだったらどのように応答なさるのか、ただちに想像できると思います。神のみ言葉に心から喜んでお従いになられるのが主イエスです。十戒の第五戒には、「あなたの父と母を敬え」とあります。主イエスがご両親をどれほど敬っていたことか、疑う余地はありません。

ヨハネによる福音書第19章にこうあります。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」主イエスが、このとき、どれほど母を愛し、思いやっていらっしゃった事か、苦しく、痛いほど分かるはずです。

だからこそ、ここでわたしどもは心底驚かざるをえません。何故なら、主イエスは、うっかりすると、親不孝の極みのような発言と聞きとられる言葉を語られたからです。「しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」まさにうっかりすると、「彼らは、わたしの母でも兄弟でもないのだ、あの人たちとは無関係、知らない」というふうに、理解されてしまいかねません。もとより、今申しましたように、そのような解釈は成り立たないはずです。

それなら、一体何故、ここで人間として最低、最悪の言葉を語られたと、誤解を与えかねないような衝撃的なことを仰ったのでしょうか。敢えてそう仰るには、極めて大きな理由があるはずです。そしてまさに、巨大な理由があるのです。それは、そもそも主イエスが何のためにこの地上に来られ、何のために、公の生涯を始められたのか、何のために十字架に赴かれるのか、その究極の目標が、ここにあるからです。

主イエスは、ここで敢えて、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」と問い直されたのです。確かに仏教の世界、修行の世界では、父母を捨て、兄弟を捨て、家族を捨て仏門に入るということが行われます。仏教の開祖、釈迦、釈尊もまた、妻や子どもたちを捨てて、修行の旅に出かけて行きました。古来、宗教の道を極めよう、仏門を極めようと志した人々の多くは、家族の関係をも絶ち切って行きました。それなら、主イエスもまた、そのような宗教の道、神の道にひたすら進み行かれるために、家族を捨てて、出家なさったのでしょうか。くり返しますが、違います。十字架の下の母マリアへの言葉をもう読みませんが、そのように理解することは不可能です。それなら、何故、あえて「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」と問い直されるのでしょうか。

主イエスは、その理由、その目的を明らかにするために、こう語られます。「そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

ひと言で申しますと、教会の形成です。人類の新しい共同体の建設です。キリスト・イエスにおいてつくられる人間どうしの真実の絆によって結ばれる共同体の建築です。
 
主イエスの周りには常に12人の弟子たちがいます。しかし、主イエスの周りには彼らだけがいたのではありません。今まさに、群衆に囲まれています。主イエスはそこで、神の国の説教をなさっています。神の国とはどのような国であり、誰が入れるのかということを説教なさったはずです。そしてまさに、この一つの事件、エピソードにおいてこそ、神の国とはどのような国であり、誰が入れるのかを見事に明らかにすることができるのです。

つまりこうです。主イエスの説教を聴いている人々、そこに主イエスの母たちがいるのです。兄弟たちもいるのです。つまり、私どもの教会の礼拝の光景とそっくりと重なります。つまり、主イエスがここで語られた現実は、やがて十字架と復活の後に実現する教会の姿に他なりません。

ただし丁寧に、厳密に申し上げなければなりません。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」つまり、ここではっきりと、神の家族とは、主イエスの家族とは弟、妹、母、父とはただ単に、主イエスのまわりにいて、聞くだけの人ではないのです。「天の父の御心を行う人」なのです。その人々こそは、実に、教会の姿に他なりません。

つまり、主イエスはここで、ここにいる私ども一人ひとりを「あなたはわたしの弟だ」とお呼びくださるのです。「あなたはわたしの妹だ」とお呼び下さるのです。イエスさまはこのとき、おそらくは30歳程でしたでしょうから、既にイエスさまの母親の年齢の方々は、実に、イエスさまから「あなたはわたしのお母さんです」とすら呼んでいてだけるのです。あるいは「お父さん」とも呼んでいただくのです。

実に、教会の形成、教会の建設とは、言葉を変えれば、主イエスさまが、ご自分の家庭、家族を地上に造り上げる、広げて行く働きに他なりません。マタイによる福音書第16章18節「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言された意味は、主イエスご自身が、ご自身の家族、家庭をここに、この岩の上に建てて下さるということに他ならないのです。

 主イエスのお心、その願いとは、あるいは主イエスの夢と呼ばせて頂くことも許されるでしょう。主イエスの偉大な夢、ビジョンは、人間をみんなご自身の家族にしてしまうということです。民族を越え、国境を越え、宗教を越え、男女を越え、ありとあらゆる差別を越えて、すべての人々を神の国の住民とし、神の家族、神の民になさることなのです。ユダヤ人に限定されません。天の父の御心を行う人であれば、誰でも、どの国に、どの時代に生きる人々も、例外なしに神の家族、主イエスの家族になっていると宣言なさったのです。

 しかしそれは、主イエスであっても、ただ口だけでは、言葉だけでは、成り立せられないことです。恐るべき犠牲が備えられなければならないのです。主イエスはそのためにこそ、十字架へと赴かれたのです。私どもひとり一人を、神の前に立ちうる聖なる人間、聖なる人にするために、私どもの罪を贖って下さったのです。私どもの罪の支払うべき報酬、罪の刑罰としての神の怒り、神の裁きを、主イエスは十字架につかれることによって私どもの身代わりに死んで下さったのです。

したがって、神の家族になるためには必ず「天の父の御心を行う人」でなければなりません。それなら、天の父の御心を行うとは、どのようなことでしょうか。

第一に、何よりも決定的に大切なことは、これです。神の御子なるイエスさまを主、キリストとして信じることです。「主イエス・キリスト。アーメン。」と信じ、告白することです。天のお父さまの御心とは、この愛する独り子を私どもの救いのために、神の家族とするために、犠牲としてお与え下さることでした。神の子羊として、犠牲の子羊として十字架に差し出されることでした。ですから、このイエスさまを軽んじること、否定すること、それは、天の父の御心を損なうことなのです。反対に、イエスさまを信じ、崇めること、愛し、感謝することこそ、天の父の御心を行う人です。

私どもは今、主イエス・キリストを信じて、イエスさまの家族とされました。それは、まさに父なる神を、わたしどものお父さまとお呼びできるということです。私どもは今や、主イエスの十字架と復活のおかげで、イエスさまの兄妹とされ、神の子とされているのです。こうして、私どもお互いは既に、キリストにある兄弟姉妹とされているのです。これが、私どもの現実なのです。

第二に、「天の父の御心を行う人」とは、どのような人のことでしょうか。それは、まさに、このイエスさまの願い、夢に協力する人であります。神の家族としての教会員、現住陪餐会員とされた私どもには、ひとり一人使命があります。それは、まさに教会の形成です。建設です。主イエスが与えて下さったこの交わり、教会は、私どもが何もしないで、ただ口先で、お互いを兄弟姉妹と呼びかわしていれば、それで、自動的に神の家族としての恵みの事実が具現化されません。真剣な課題として、家族としての実質を獲得する努力が必要なのです。冒頭に申しあげたように、そのために、レクレーションは必須でしょうか。優先すべきでしょうか。申すまでもないと思います。

先ず、信仰とその知識とを一致させることです。第二に、共に集まって礼拝することです。諸集会に積極的に出席することです。祈祷会では何よりも、会員同士のために祈る時を必ず設けています。そして、これらの集会の根本にあるのは、常に聖書です。神の御言葉の真理を体得すること、教理の体得を目指しているのです。

私どもは、天の父の御心を喜んで行いたいと思います。また、行わなければなりません。ここに神の教会を建てる、言い換えれば、神の家族の交わり、慰めの共同体を形成することに集中すること、専心すること、励むことです。

しかも、自分の兄弟は、自分で選べません。神が送って下さるお互いを受け入れることです。すでに家族とされている者たちこそ、新しい家族を心を込めて愛することが求められています。
 
私どもは、先の総会におきまして、今年の課題として、家族伝道に取り組むことを、互いに確認し合いました。家族の救いがどれほど、大切なことであるのか、それは、今朝の主イエスの御言葉にも、既に、決定的に明らかにされました。主イエスこそが、私どものみならず、すべての民を、ご自身の家族にすることを目指しておられるからです。

ただそこで蛇足かもしれません、家族の救いが大切であるということは、自分の家族がなにより大切だということではないということをわきまえなければなりません。むしろ、危険です。マタイによる福音書第19章29節で丁寧に学びますが、主イエスはこうおっしゃいました。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」家族の幸いのために教会があるわけではありません。さらに言えば、教会とは、私ども一人ひとりの地上の生活をリッチにして、幸せにする道具でもありません。

つまり、本当に家庭を大切にするなら、家族のひとり一人が救われることを心の底から祈り願っているなら、先ず、何よりも天の父を、主キリストを、信仰を第一にすることです。もしも、家族に遠慮して、教会を二の次にしてしまうなら、実は、そのとき、私どもの家族伝道はどんどん遠回りになり、後回しにすることになります。

最後に、ここにはすでにご夫婦でキリスト者の方々もおられます。まさに特別の祝福を受けている方々と言わなければなりません。しかしそれは同時に、より大きな使命と責任とを与えられていることを忘れてはなりません。自分たちが先ず、神の家族、主イエスの家庭としての教会の交わりの核、軸となることです。家族をあげて、教会に奉仕することです。時に、家庭を解放することです。キリスト者や求道者を招き入れることです。キリスト者の男女が結婚すれば、自動的にクリスチャンホームが実現するのかということを考えます。それは先ほど、教会員として口だけでお互いを兄弟姉妹と呼べば、神の家族の交わりが深められることにはならないと申しました事と同じです。自分たちの役割、使命を自覚して生きることです。天の父の御心をまっすぐに受け止め、それに生きることです。

家族伝道の目標、究極の目標とは、ただ単にお互いの家庭が、キリスト者の家庭、クリスチャンホームになることではありません。順序があります。教会を神の家族としていよいよ整えることこそが目標なのです。この目標のために、皆さまの家族伝道が祝福されることを祈り願うのです。そしてそのような教会に連なることによって、いよいよ、皆さまのご家庭に神の恵みは満ちて行くのです。

先日、NHKのテレビ番組で、一つの教会の取り組みが大々的に紹介されていました。その教会は、自殺の名所で有名な場所にあります。自殺の志願者、実行しても死にきれなかった方々を受け入れて、教会で共同生活をされているのです。牧師家族も教会堂に併設されている牧師館に住んで、その方々も、礼拝堂で寝起きしているのです。このようにして、教会の交わりの中に彼らをしっかりと受け止めているのです。地方の教会のディアコニア、奉仕の実践の一つの実例です。今、日本の教会にできること、しなければならないことはたくさんあります。我々の社会は、自殺者が年間三万人を越え続ける異常な社会となっています。「孤族」とか、「無縁社会」という言葉が根付いてしまっています。その教会は、そのディアコニアの働きをNPO化していました。牧師がその責任者にもなっておられましたから、私どもの教会では、そのまま真似をすることはできないでしょう。しかし、現代日本の中で、教会のディアコニアの一つのしかし典型的な奉仕の姿であると教えられ、大変、励まされました。

主イエスは今、ここにわたしの兄妹、母がいると、宣言して下さいます。何と光栄、何と幸いなことでしょうか。主イエスご自身が、この家族の絆そのものとなっていて下さるのです。このお方が、教会の交わりの中心に居て下されば、主として、頭として臨在して下されば、私ども名古屋岩の上教会は、いよいよ、神の家族、慰めの共同体としての実質を深めて参ります。キリストだけを主とする教会の形成のために、私どもは、ここに導かれているのです。

祈祷
私どもを主イエス・キリストにおいて、あなたを父と呼ぶことのできるあなたの子としてくださいました天の父なる御神、御名をあがめます。今、私どもはこの教会において、神の家族を与えられ、いよいよ主イエスの家庭としての教会形成、交わりの建設へと呼びだされています。どうぞ、ひとり一人が、この交わりを豊かに建て上げる奉仕者として用いて下さい。そして、それがどうぞ、この日本の社会へと拡大しますように。多くの家族が、愛を失い、絆を失っています。あなたの御心を、あなたの教会を通して実現させて下さい。どうぞ、私どもを用い、遣わして下さい。私ども自身の家族の救いのために、日々、祈り、信仰によって導くことができるようにしてください。アーメン。