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「諦めないで生きる-拡大する神の国を見つめて-」

「諦めないで生きる-拡大する神の国を見つめて-」
2011年3月20日
テキスト マタイによる福音書 第13章31-35節 
【 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」】
(→詩編第78編2節 
「わたしは口を開いて箴言を いにしえからの言い伝えを告げよう」より)

先週、ひとりの兄弟と共に祈りました。その日は、終日、被災者を支援するための方策を考え、情報を集め、働きを具体化しようとしておりました。しかし、なかなか、願うように、思うようにならず、とても重い気持ちに沈んでいたのです。そのときの祈りの中で、このような意味の祈りが捧げられました。「神さまの御心を知って、従う者とならせてください。」キリスト者であれば、言わば、まったく当たり前の祈りです。日々の祈りです。何もことさら皆様にご紹介する必要などないはずです。しかし、わたしは、そこで、信仰とは本当に単純な、そして素朴なことだと改めて思わされました。「神さまの御心を知って、従う者とならせてください。」

私どもは、今朝もここで聖書の朗読を聴き、説教を聴いて、神に礼拝を捧げております。これは、何のためであるかと申しますと、御心を知るためです。そして、聖書は、はっきりと神の御心を示しております。現代人は、誰でも母国語で聖書を読めます。何種類もの翻訳の聖書があります。読もうと思えば、ただちに最低でも5種類ほどの翻訳聖書が読めるでしょう。外国語を読むことが出来る人は、さらに、増えます。つまり、誰にでも読める書物であるということでは、他の書物となんら変わりがありません。

さて、主イエスは、ここでもご自身が何故、たとえを用いて語られたのかという、大切な真理をはっきりと語られました。

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

預言者を通して言われたこととは、実は、詩編のことです。詩編もまた、大きな枠の中で、詩人を預言者、神の言葉を語る人と主イエスが考えておられるわけです。詩編の第78編2節にはこうあります。「わたしは口を開いて箴言を いにしえからの言い伝えを告げよう」箴言とは、神の知恵を明らかにする、言わば格言に近いものです。東洋の医療には、「針きゅう」があります。ツボという言葉があります。そのツボに、その一点に針をさすと、体全体に影響を及ぼすそのような肉体の部分のことだろうと思います。箴言の箴とは、そのツボを意味する言葉です。主イエスは、たとえを用いる、それは、その真理を語ることによって、真理全体を明らかにしよう、神の国、天国の真理、福音の真理の全貌を見せて下さる、そのために語られたということだと思います。

しかし、一方で、すでに私どもは先々週も、たとえというギリシャ語には、謎という意味があること。秘密という意味が込められていると学びました。主イエスは、群衆には「天の国の秘密を悟ることが許されていないから」たとえを語られると仰いました。「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」また、「持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」つまり、信仰の耳、信仰の眼、信仰の心とわたしは申しましたが、この信仰の心は、神の御言葉によって豊かに耕され、いよいよ土壌が改良されて行き、豊かな実りを結ぶことを学んだのです。 

いずれにしろ、主イエスの「たとえ」とは、一般の喩とは、意味が違うということは、誰にも明らかだと思います。信仰の耳、信仰の眼が開かれていれば、信仰の心があれば、このたとえの真理はいよいよ、その人を力づけ、その人を変えて行くのです。成長させて行くのです。

さて、御心を知るとは、どのようなことなのでしょうか。ここで、主イエスは、譬の意味を、きちんと、誰にも明白に、誤解の余地のないように示されました。先週の毒麦のたとえでは、一字一句と申しましょうか、「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら」このように、一つ一つの言葉を定義づけられたのです。もはや、誤解しようもないほど明瞭なはずであると思います。

つまり、神の御心をはっきりと示されているのです。聖書には、示されているのです。しかし、それを理解できない。悟らないのです。それは、具体的には、単純なことです。聞いても受け入れないということです。理解はできる。解釈はできる。しかし、結局、神の御言葉に従わないということです。ひとりの兄弟が、「神さまの御心を知って、従う者とならせてください。」と祈ったまったくその素朴な祈りは、実は、決定的な祈りなのです。

その意味で、あらためて説教で、説教者がこれまで何回もおそらくは何十回も説教の中で語っているであろう事柄、聖書を読む、説教を聴くということは、聴いて従うという信仰の志なしには、何の実も結ばなくなりのです。わたしは、「信仰の態度決定」という言葉を用いることがありました。

しもべは聴きます。主よ、お語り下さい。」これは、幼いサムエルに祭司エリが教えた祈りの言葉です。主が語られたら、聴き従う、この態度決定なしには、聖書はわからないのです。それが譬の意味、これに尽きるのです。

さて、それでは、今朝、私どもが聴くことがゆるされている譬は、二つ、この二つをいよいよ聴きましょう。からし種とパン種の譬です。しかし、後で分かっていただければと思いますが、結局、これは、一つの譬であると言ってもよいと思います。福音の真理、天国の真理を明らかにする譬であります。

主イエスは譬において、まさに具体的な事柄、目の前にあるモノをお用いになられます。そうなりますと、その真理とは、目に見えてくるそのような感じが致します。つまり、映像が浮かぶのです。イメージが湧くのです。
からし種から大きな木に成長する。小麦に酵母、パン種を入れると、大きく膨らむ。ここに至ると、何か、よい香りすら漂って参ります。

神の御言葉の真理が分かるというのは、そのようにしっかりとイメージできる真理にまでなるということでしょう。分かりやすく言えば、「自分のものになる」という感じです。福音の真理、神の真理が自分の深いところに落ちて、もう、自分自身そのものとなってしまう感じです。

主イエスは、ここで大きな木のイメージを私どもの心のキャンバスに描いて下さいました。これは、信仰のない方でもはっきりとしたイメージを持てるはずかと思います。

昔、神学生の時、イスラエル旅行をした先生が、これがからし種ですと、見せて頂いたことがあります。手の平に置くと、真っ黒で、本当に小さなものでした。一ミリくらいであったでしょうか。まさに、鼻息だけでも吹き飛ばされてしまうほどの小粒の種でした。

わたしは、その種を手に取りながら、その種が、大きな木になるのだと心で描いてみました。残念ながら、からし種の木そのものを見たことがありませんが、しかし、そのとき、わたしは、この種が、大きな木になる姿を想像してみました。枝をつけ、葉を茂らせているのです。そして、そこに鳥が来て、枝に巣をつくるのです。そのような光景を、描き出すことがおそらく誰にでもできるのではないかと思います。

また、パンのこともそうです。これは、日本人だと少し難しいかもしれません。しかし、今や、自分の家でパンを作る機械、オーブンをお持ちの家庭も少なくありません。小麦粉はもとより、最近のヒット商品では、ご飯、お米からパンをつくる機械があるそうです。主イエスの生きた時代と社会では、パンが主食だったのですから、この譬は、まさに身近、毎日の生活の営みを取り上げられたのです。小麦粉に、酵母菌をいれると、パンが膨らみます。小麦粉が膨らんで行くわけです。ご婦人たちには、まさにリアリティがあったと思います。

ここで語られていることは、きわめて単純です。からし種が大きな木に育つということは、それは、主イエスが、良い地に落ちた種は、100倍の実を結ぶと、そこでも神の言葉の威力、生命力、成長力を私どもの心のキャンバスに、私どもの眼にしっかりと描き出して下さったように、いへ、それよりもさらに大きな倍率と言ってよいはずです。1ミリが100倍の100ミリ、つまり10センチになるどころではありません。1メートル以上になるのです。1000倍よりはるかに成長するわけです。10,000倍と言っても言い過ぎではありません。それほどの、巨大な実りです。

もう一つのパンだねも同じです。3サトンとは、ざっくり言えば、40リットルとなるのでしょうか。ここでは、家庭の台所でパンを焼いているということではなく、大宴会でしょう。この40リットルにどれほどのパンだねを入れるのか、わたしには良く分かりません。しかし、わずかなのだと思います。そして、わずかであっても、40リットル分の粉に混ぜ合わせられ、練り込まれて行くと、それを膨らませて行くわけです。

神の御言葉が語られ、蒔かれて、それを心で聴いて、信じて、従うなら、それは、やがて巨大なパンへと成長する。食べ物となる。おいしいパンとなるわけです。

このような神の御言葉に対する信頼を、誰よりも主イエス・キリストご自身がもっておられるのです。そして、主イエスは、この信仰、この信頼を私どもにも与えて下さいます。同じように持つようにと招いておられます。
しかし現実の教会には、さまざまな弱さ、欠け、欠点があります。しかし、主イエスは、ご自身の御血をもって贖われた神の教会、ご自身の教会を信じておられます。

世の荒波にのみ込まれず、破壊されない堅固な教会。破壊されないどころか、時が来ればどんどんと成長して行くからしだねとその木です。その木の枝には鳥が巣をつくることもできます。

宿り木です。これは、精神的な拠り所というイメージを私どもに呼び起こすのではないでしょうか。この世界に向かって、この世の人々に向かって、主イエスは、そのようなイメージを主イエスが描いて下さいます。「わたしの教会があるから安心できるでしょう。わたしの体なる教会がそこに存在するから、あなたは生きていけるでしょう。へこたれないで生きることができるでしょう。あなたは、決して諦めないで、安心して生きて行けるでしょう。明るく、希望を失わないで生きて行けるでしょう。」

そして、私どもはイエスさまと一緒になってこのイメージを見るのです。「そうだ、地上に、主イエス・キリストが御自身の御血を流して、贖い取って下さった神の教会がある。主イエスが蒔いて下さった種、いのちの種、神のみ言葉という種が植え付けられている。父なる神が聖霊によって、この種を、慈しみ、大切にし、育て続けて下さる。そして、種の実りは教会であり、私どもひとりひとりのキリスト者である。」こう信じるのです。このように、信じ、それ故に従うとき、からし種はいよいよ実って行くのです。やどり木となるのです。この世に安らぎを与え、あきらめない力、希望の根拠となりうるのです。

私どもの存在によって、空の鳥を呼び寄せられるようになりたい。これが、私どもの教会の心からの祈りです。私どもの教会が、空の鳥を受け入れることができるようになる、そのような奉仕に生きる教会になる、それを心から祈り願います。

パンだねのイメージ、今日のお昼はうどんでしょうか。このイメージは、頭や心にだけではなく、御腹にまで響きます。本当に、飢えているとき、一切れのパン、しかも焼き立てのパンがどれほどありがたいことでしょうか。被災者の方々に、いっぱいのうどんがどれほど、沁みることでしょうか。

主イエスは、イスラエルの地に生きる人々に、酵母菌とそれによって膨らみ焼き上がった、パンをもって神の国、天国、教会をたとえておられます。おいしいパン。焼き立てのパン。飢えた人々を癒すことすらできるパンです。このパンのイメージは、それをこねてつくり、焼いてくれた人の気持ち、パンを届けてくれた人の真心まで届けられるものではないでしょうか。まさに、主イエスがヨハネによる福音書で宣言された自己紹介を思い起こします。「わたしはいのちのパンである」あの自己紹介に通じます。この膨らむパンとは、人間のいのちのパンに他ならないイエスさまを、神の御言葉を指し示します。そのパンを私どもは今ここでこのように、豊かにふるまわれています。

いへ、それだけではありません。その主イエスご自身が語られた御言葉を食べる私ども自身もまた、いのちのパンになって行くのです。このいのちパンは、私どもが食べて、それで終わってしまうものではありません。私ども自身もいのちのパンを分け与える者となるのです。教会とは、人々にいのちのパンを配給することのできる唯一の場所なのです。

今朝の説教後の賛美歌は、第412番です。まさに、今朝の選曲ではこれ以外にないかと思うほどです。
「昔主イエスの 蒔きたまいし、いとも小さき いのちの種、 芽生え育ちて 地の果てまで、 その枝を張る 樹とはなりぬ。」

2000年間、教会は歌い続けてきたと思います。もとより、412番は、新しい賛美歌です。由木康という賛美歌の歌詞をいくつもつくった牧師の作品です。しかし、ここに描かれたイメージは、世々の教会が、困難のたびに、逆境の中でこそ、歌い続けてきたのではないかと思います。

エルサレムから始まったキリストの教会。それは、今、この日本にも植えられました。私どももまた、先輩たちの祈りと奉仕の賜物として今ここに存在することが許されています。

それゆえに、私どもはこの時代に責任があります。私どもが正しくこれを継承し、豊かに展開する責務があります。

私どもは、人生でどれほど失敗を重ねて来たのかと思うのです。挫折を経験していない方々は、むしろ例外、ほとんどおられないはずです。けれども何故、わたしどもは今も希望を持って、諦めずに人生に立ち向かうことができるのでしょうか。それは、からし種とパンだねとを、主イエスに手づから蒔いて頂いたからです。今このように、主の日のたびに、このいのちをふるまわれているからです。だから、私どもの希望はしぼみません。パンクしません。

今、日本中が苦しみを味わっています。被災者の方々は言うまでもありません。その方々と比べることはまったくできません。しかし今、おそらくは多くの人々が、心を痛めているはずです。祈ることが出来ない人々は、「助けられるとよい、留まるとよい」と心に願っていると思います。そして、実際に、募金をし、物資を集めている方々も少なくありません。すばらしいことです。

私どもも今朝の礼拝式の献金のすべてを東日本大震災、東北関東大震災の被災者の方々に捧げます。午後は、有志の方と、持ち運んで下さった物資を仕分けし、また、献金を救援物資にただちに変えて、これを届けるために、梱包し、宇都宮教会にお送り致します。献金を捧げることは、当然、これからも致しましょう。しかし、今、お金を中部の地域でなら、救援物資に変えることは未だまだ容易ですから、現金に優先してお届けします。

その品物は、まさに、モノです。けれども、祈りと真心を込めて送り、主イエス・キリストが、神が共にいて下さいますと祈りを込めて送ります。そして、私どものいのちは、私どものために死んで下さった主イエス・キリスト。私どものためにお甦りになられた主イエス・キリストにこそあること、このいのちの種は、どんなに困難な地にあっても、この世の荒波、破壊された地にあっても、必ず、豊かに実って行くことを、お伝えしたいのです。

神の教会は、からし種のように小さくてもやがて成長致します。キリストの教会は、パン種のようにわずかであっても、小麦を膨らませます。この世界を神の救いへと導きます。私どもに与えられたこの豊かな神の言葉を、私どもに、私どもひとり一人に蒔かれたこのいのちの言葉を今日、聴きました。植え付けられました。それ故に、御言葉を行う、御心を行う者とされています。

小さな祈り、小さな献金、しかし愛と犠牲を払ってなすとき、神の御手の中で、1000倍にもなります。この世界にまことの救いを告げ、希望をふくらませる原動力になるのです。

祈祷
救い主イエス・キリストよ。父なる御神よ。この未曽有の大震災の中で、教会のディアコニアが問われています。急いでなしうる奉仕をなさしめて下さい。また、一時の感情で行うのではなく、教会のディアコニアとして、神よ、あなたのはらわたが痛んでおられるその愛に押し出されて、継続的に奉仕に生きることができますように。そして、まさに、私どもにこそできる奉仕、私どもでなければ決してできない奉仕、福音伝道とそれを証する存在、働きへと、私どもの教会を、日本中の神の教会を、整えて下さい。アーメン。