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「信じることのすばらしさ」

「信じることのすばらしさ」
2011年4月17日
テキスト マタイによる福音書 第13章51-52節 
【イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。
「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」
このように、人々はイエスにつまずいた。
イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。】

今朝もまた、いつものようにマタイによる福音書の講解説教です。主イエスは今、伝道の旅路を中断なさるようにして、故郷に戻ってゆかれます。もしかすると、主イエスにとって、神の国の伝道の働きを始められて、初めての、いわば、地元入りになったのかもしれません。

私どもは、この第13章で天国のたとえを学び続けたわけですが、今、その直前の第12章の結びの部分でのひとつのエピソードを思い起こしてみたいと思います。こうあります。「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。」

 ここには、母マリアだけではなく、肉にある弟たちも、付き添ってきたのです。おそらく、主イエスにこの働きをやめてもらって、少なくとも、早く切り上げてもらって、一緒に故郷に、ナザレの村に、ベツレヘムという寒村に戻って欲しいと頼んだのでしょう。おそらく、あまりうれしくない何かの理由があってのことだと思います。

 ところが、主イエスは、伝道をおやめになられませんでした。おそらく、母マリアと弟たちは、うつむきながら、悲しく辛い思いを胸に抱きながら、自分たちだけでベツレヘムの家に帰って行ったのだと思います。

しかし、ついに弟子たちから、神の国の真理が「分かりました。」とそのような答えを得たとき、主イエスは、これまで胸の中にしまっておいた母マリアを案じるお心をもって、急ぎ家族のもとに戻られます。主イエスは、その課題を解決なさったのでしょう。そして、故郷においても、いつでもどこでもなさるように会堂に入られ神の国のたとえ、聖書のお話をなさるのです。

ところがしかし、ここでは、これまでの町々、村々での反響とは異なったものが起こりました。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」つまり、マタイによる福音書が言うとおり、故郷の人々は、イエスさまに躓くのです。

いへ、単に躓くという表現では足らないように思います。見下しているのです。主イエスをおそらく幼い時から見ていた人々は、「この人は大工の息子ではないか。」このように、言い放ったのです。「イエスは、あのヨセフの息子ではないか。彼は、確かにまじめで、信仰深い、強い男だった。しかし、だからと言って俺たちと同様普通の、ただの大工ではないか。マリアのことも、俺たちはよく知っている。確かに、主人を亡くして、女手一つで多くの子らを養い育ててきた立派な女性だ。しかし、我々と同じように、ひとりの村の女性でしかないではないか。兄弟たちのことも知っている。ヤコブもヨセフもシモンもユダも、まったく普通の男たちでしかない。姉妹たちだって同じだ。どこにでもいる平凡な家族ではないか。」

そこには、嫉妬の思いも混ざっていたかもしれません。「なぜ、突然、あの大工ヨセフのせがれのイエスは、律法学者の偉い先生に負けずに、あんなに堂々と聖書の真理を語ることができるのか。また、病気を癒したり、盲人の目を開いたり、死んだ少女を蘇生させたりもしたらしい・・・。」驚いているわけです。けれども、それで、主イエスを信じよう、主イエスをあがめて、従おうとはしないのです。「たとい他の村、他の町の人々がイエスを崇め祭っても、自分たちは彼のことは小さい頃からよく知っているのだから、彼を崇め奉るようなことはしない、できない。」そのように、かたくなに考えているのです。

おそらく、伝道している方なら、誰しもこのような質問、このような言葉を聞かされたことがあるのではないかと思います。「もし、自分が聖書の時代に生きていて、この目でイエスの奇跡を目撃し、その説教を直に聞くことができるなら、信じれるだろう。でも、・・・」しかし、その答えは聖書の中に明らかにされています。つまり、いわば地上を歩まれたあのイエスと身近に接した人々は、驚くべき奇跡を目撃し、それに自分じしあずかった多くの群衆は、主イエスを正しく理解することに失敗しました。正しい意味で信じることができませんでした。誤解したのです。さらに言えば、ここで、イエスのことをまさに子どもの頃からよく知っていた人々こそ、かえって、イエスに躓いたのです。

さて、なぜ、故郷の人々は、このようにイエスさまに躓き、不信仰にとどまるのでしょうか。それは、まさに人間的に知っているというところにとどまるからです。イエスさまの兄妹は誰か、誰が父親で、誰が母親なのか。その職業は何であったのか。そのような、人間的な知識だけ、情報だけで、イエスさまを知ることは、結局、イエスを知ることにならないのです。

そして、実は、事はイエスさまにだけ当てはまる問題では、まったくありません。キリスト者どうしもまったく同じなのです。人間どうじもまったく同じなのです。

私どもは今年、家族伝道に集中する一年と目標を掲げて、教会生活に励んでおります。2月に愛するご家族を天に送られた仲間がいらっしゃいます。最後に、いわば、滑り込みセーフという仕方で、主イエスを信じて、天国へと凱旋して行かれました。しかしそこでも、肉親への伝道が容易なことではないことを、あらためて思わされました。家族同士、親子でも夫婦でもそこには、ついつい自分の素が出るからでしょう。家族以外でなら、もっと慎重に、もっと丁寧に、もっと注意深く接することができるはずなのに、それができないわけです。だからこそ、家族は素晴らしいわけでもあります。しかし、伝道ということになりますと、それが大きな障害になることは、わざわざ説明する必要ははいはずです。だからこそ、牧師や他の会員の出番があるわけです。

さて、使徒パウロは、Ⅱコリントの信徒への手紙第5章16節以下にこう記しました。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

実は、このように記すパウロじしんが、あるキリスト者たちからは、激しく攻撃されていました。その理由は、彼がもとは教会への迫害者であったからです。しかし、それにもまして厳しい批判と攻撃を受けた理由は、彼が、12使徒ではないからです。使徒とは、本来、主イエス・キリストが直接選ばれた12人の弟子を指す言葉です。ところが、パウロは、この使徒ということを、自分自身も復活のイエスさまによって、使徒として任命されたのだと主張します。

復活されたイエスさまと出会った、そして異邦人のための使徒とされたと彼は、証するのです。パウロ本人以外に証明しようがない、事実です。

ところがある指導者たちは、それを認めようとしませんでした。古いパウロしか認めないのです。知ろうとしなかったのです。したがって、彼らはそのようなパウロの伝道を認めず、足を引っ張り続けました。そのような背景のなかから、「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。」という言葉が生まれるわけです。使徒パウロだからこそ、キリスト者どうしにおいても、その人を本当に評価するポイントは、どこなのか、何をもってその人の本質を判断するのかを譲ろうとしません「わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。」つまりは、人間的な言わば肩書や、社会的立場や業績などに惑わされないようにということでしょう。
そして、それは、何よりもキリスト・イエスにおいてこそ、当てはまる、あてはめるべきことなのです。「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」

「自分は、生前のイエスさまを直に知っているのだ」とそれを誇りにして、パウロを認めようとしない指導者たちに痛烈な批判をここで展開します。パウロは、「そんなことは、もはやどうでもよい、枝葉のことなのだ」と言うわけです。

これは、決して他人事ではありません。私どもじしんの教会の中でも、起こりうることなのです。
私どもは、肉に従って、地上的な知識、事柄で、霊的な真理を知ること、理解することはできないということを肝に銘じるべきであります。神さまのこと、イエスさまのこと、教会のこと、すべて霊的な真理は、聖霊によって、聖霊にしたがって、聖霊に導かれて知ることができるのです。分かるのです。聖霊によらないで、天国のこと、イエスさまを分かること、信じることはできないのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ第12章3節にこうあります。「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」

私どもが信仰者、キリスト者、洗礼を受けて教会員とさせていただけたのは、ただこの恵みを受けたからです。聖霊に導かれ、聖霊にしたがって、聖霊のおかげでイエスさまは主、主イエスと告白することができたのです。
今朝、礼拝式が終わって、洗礼入会試問会を行います。一人の兄弟が、志願され、私どもはずっと祈り続け、また兄弟も仕事の合間を縫って平日に、マンツーマンの学びを重ねました。ここにも聖霊のお働きの確かなしるしをみることができます。

しかし考えてみますと、この兄弟もまた、つい1年前にはここにはいらっしゃいませんでした。おそらく、ごじしんでも不思議な思いを抱いておられるのではないかと拝察いたします。最初から信仰深く、聖書に関心をもって、どんどん吸収して、分かったということではなかったはずです。いへ、それは、何もひとりこの兄弟だけのことではまったくありません。私ども全員のことだろうと思います。「いったいなぜ、こんな自分がイエスさまを信じることができるようになったのだろうか」この驚き、この不思議を思わないではいられないはずです。

生まれながらの信仰者という人は一人もいません。契約の子は、生まれながらのまさに選びの民、神の恵みの契約のもとにあることが明らかにされている子どもたち、人間です。しかし、だからと言って、もしも、毎週毎週、子どもの教会の礼拝式に通わせ、毎日毎日、祈りの空気の中で育てられるのでなければ、どうして、信仰者、信仰を告白することができるでしょうか。それはできません。親がキリスト者、だから同時に、つまり肉的な関係の中で、信仰が継承されることは、あり得ないことです。聖書を読めば、信仰の教育をわが子に施さないことなど、神の民にはあり得ないことがわかるはずです。

信仰は、まさに聖霊の賜物です。したがって、わが子だからこそ、信仰の教育に励まなければならないのです。自分たちの教会生活だけではなく、中部中会や大会のさまざまなキャンプにお金を持たせて送り出すこと、これがどれほど、大切であるかと思います。教会員どうしの、小さな頃から知っている仲間たちだけの出会いではなく、まさにそれは、肉にしたがって教会員を見ているところから、聖霊によって教会員や同じ年代の友達を信仰の友、信仰の仲間として出会うチャンスとなるからです。

主イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と仰いました。そして、マタイによる福音書は、はっきりと、こう告げるのです。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」実に、重い言葉です。そして、実に厳しい教会への警告であります。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」ここでははっきりと、主イエスの力あるみ業が、私どもの間でなされるためには、私どもの信仰が求められているということです。

当たり前と言えば当たり前の真理です。しかし、大変、厳しい思いを抱かざるをえません。先日、中部中会の定期会で敬愛する金起泰先生が、中部中会に教師として加入し、その誓約式をわたしが挙行させていただきました。そして、犬山教会の牧師招聘が可決されました。先生は、議場でのご挨拶の中で、このようなことを語られました。「犬山教会は、礼拝出席者70名というビジョンを掲げ、わたしに期待される。しかし、韓国教会では、それをビジョンとは言わない。700名、7000名と言うなら教会のビジョンとなる。」

素朴に申し上げて、日本でなぜ伝道が進展せず、教会が正しく、力強く形成されて行かないのか、そこに日本人の不信仰の問題が根本的にあることは、誰も否定できない事実であるのではないでしょか。

今、わたくしは、「日本人の不信仰」と申しました。丁寧に申しあげるべきです。不信仰ということを直接、キリスト教信仰とはかかわりのない人々に当てはめることは、マタイによる福音書の文脈から言えば、いささか無理があるはずです。ユダヤ人は皆、もともと、聖書の民、神を知り、信じるべき存在です。彼らは、信仰の民であることが、当然のことながら、神に求められ、義務付けられているのです。私ども異邦人とは根本的に異なります。
その意味で、「不信仰」という言葉が当てはまるのは、一応、信仰者である人々のことだと思われます。つまり、ここで誰よりも問われるべきは、今日の聖書の民、キリストの教会のこととなるはずです。キリスト者こそ問われているのです。私どもが不信仰であるゆえに、神の御業を仰ぎ見ることが困難になるわけです。

ただしここでもなお掘り下げて考えましょう。神の奇跡がそこで確かに起こっているのに、それを認めないということが起こりえるということであります。神のお働き、それは基本的にはいつでも私どもにとっては、奇跡に他なりません。その奇跡が、鮮やかになされているのにもかかわらず、私どもの不信仰でそれに感謝しないということが起こるのです。それに驚かないということが起こるのです。私どもはもしかすると、当たり前のように、主の日の礼拝式を捧げているかもしれません。しかし、そもそも、このような罪人たちの礼拝を受け入れ、礼拝を許してくださる神、ここにご臨在したもう全能の、三位一体の神がおられることが奇跡であります。

そうすると、不信仰だから奇跡が起こらないということも一方で言いえるわけですが、むしろ、奇跡が起こっていながら、不信仰によって見過ごしてしまうということもしばしば起こっているのではないでしょうか。

そのことをおそれます。聖書を読み、何よりも信仰の生涯を何年か、あるいは何十年か重ねてまいりますと、本当に思わされることがあります。それは、信仰に立つことができたときの喜びです。そして、信仰に立って生きるとき、生活へと踏み出す時、そこでは、いつも奇跡が起こるということを知るからです。

第14章に入ると、有名な主イエスが湖の上を歩く奇跡を学びます。そこで丁寧に学ぶ前に、少し触れてみます。あのとき、実は、イエスさまだけではなく、ペトロもまた、湖の上を歩くのです。まさに、驚くべき奇跡を弟子たちじしんが経験します。ところが、そのペトロが強い風を見て、恐ろしくなてしまって、沈みかけるのです。信仰者が地上を旅するとは、わたしは、湖の上を歩くようなものだと考えています。信仰によって生きるということは、まさに、信じることが問われます。そして、主イエスをまっすぐに見つめているときには、実に、私どもも水の上を歩くような驚くべき神の上からの力、上から引き上げる力に絶えず守られていることを実感するのです。神が生きておられるという素朴な事実に対する信頼です。

信じること、とりわけ神を信じるということがどんなにすばらしいことか、確かなことか、力強く、安心で、慰め深く、楽しいことであるか、喜びの泉となることを知るのです。まさに、信じることの素晴らしさを、キリスト者は味わい続け、深め続けてゆくことができます。

今朝の物語は、直接的には明るい話題が何一つ記されていません。けれども、深く聞きとれば、違うと思います。

主イエスは、この不信仰の故郷に、いわば、負けられませんでした。それは、明らかな歴史的事実です。なぜそう言えるのでしょうか。母マリアは、やがて最初の教会の中でも、際立った信仰者となって行ったからです。イエスのことを、ただの自分の息子、肉体的、人間的な息子だと知ったのではなく、救い主、神の御子として信じ、従ったはずです。

あるいは、イエスさまの兄妹たち、ここでは、少なくとも6人が数えられていますが、彼らもまた、そうなっただろうと想像できます。ガラテヤの信徒への手紙第1章18節以下でパウロはこう証しています。「それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。」ここに弟のヤコブが登場します。彼はエルサレム教会の中で、12使徒に匹敵するほどの指導的な立場にいたのだろうと思います。さらにコリントの信徒への手紙Ⅰ9章5節にこうあります。「他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」ここでは、ヤコブだけではなく、「兄弟たち」と複数になっています。ヤコブだけではなく、兄弟たちが教会の中心的な奉仕者となっています。つまり、今朝の物語の時点では、彼らもまた、故郷の人々と五十歩百歩のところがあったのです。しかし、十字架と復活の後、聖霊を注がれた後、もはや兄イエスさまを、単なる肉親、兄としてみたのではありません。彼らは、自分の兄を、救い主、神の御子として見るように、信仰に立ちあがったのです。

主イエスは、不信仰者を信仰者に変えてくださるお方です。私どもの中には、これから洗礼を受ける方も、すでに何年か前に洗礼を受けた方、もう、何十年も前に洗礼を受けた方もいらっしゃいます。信仰に燃えている方もいらっしゃれば、もしかしたら、やっとの思いで、というような状況の中に、いらっしゃる方もおられるかもしれません。

けれども、誰でも、教会生活を忠実に行えば、つまりは、「恵みの手段」である「御言葉、礼典、お祈り」を大切にし、主の日を守り、諸集会を守っていさへすれば、大丈夫です。心配ありません。必ず、信じることのすばらしさ、つまり、キリストの力、その慰めと喜び、神の力、人を生き返らせる奇跡の力をいよいよ経験して行くことができます。もし、これまでそのような経験に乏しいと、悩んでいらっしゃる方がいれば、それは、今までの考え方を少し変えてみる必要があるのではないでしょうか。もし、信じる素晴らしさ、主イエスの素晴らしさをもっと知りたいと願っているのであれば、これまでのあり方を少し変えてみる必要があるのではないでしょうか。

教会へのかかわり方、集会出席への強い願いをもって、これまでと少し変えてみることです。
十字架のイエス・キリストを仰ぎ見ること、見つめること、黙想することです。キリストが死なれたのは、私どもが古い人間において死ぬため、そして新しくキリストのために生きるためです。そのことが分かってくれば、いよいよ、救いの喜びはあふれてまいります。

そのとき、神は、神の御言葉の真実さを、自分の実生活のただ中で確かめることができるように、導いてくださいます。それは、人間的、肉的な仕方とは異なる何かであることは、今朝、はっきり示されました。霊的な、聖霊のお働きを求める仕方の、変化であります。

驚くほど御言葉には力があり、神の約束は貫かれるのです。奇跡は起こります。いへ、今ここでこそ起こっています。アーメン。そのことを、私どもはもっともっと、地上で知って行きたいのです。信じることの素晴らしさを知りたいのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、信仰を与えてください。あなたを信じる喜び、生きてゆく力を豊かに注いでください。私どもは、不信仰の罪を打ち捨ててゆきたいのです。あなたが奇跡のように常に私どもと共にいてくださることを、もっと気付きたいのです。私どもを今朝、もう一度、新しくしてください。真実に悔い改め、古き人に死んで、新しい人へと復活させてください。受難週の歩みの中で、来る復活祭に、喜びの叫びを挙げて、礼拝をささげに来ることができるようにしてください。アーメン。