過去の投稿2011年4月21日

 「心においしい水」


CBCラジオキリストへの時間  「心においしい水」
賛美歌 24番「父の神よ」・244番「行けどもゆけども」
聖 書 ヨハネ福音書第4章13‐15節   2011年4月10日(3/16?録音)
【イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ渇くことがないように~】
 

「あのときの水はおいしかったなぁ」と、思いだせる経験をお持ちでしょうか。夏の日照りの中を歩いた後とか、スポーツをして汗を流した後とか、そんなときには、ただの水道水ですら、おいしいと感じると思います。そもそも人間の体の60~70%は水分でできているそうですから、水分の補給は絶対にかかせません。

したがって、ここでイエスさまが、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。」とおっしゃったことは、当たり前すぎることかと思います。しかし、その次の言葉は、とても不思議です。
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」いったい、イエスさまが与えて下さる水とは、どのようなものなのでしょうか。

「不思議な水」と言うと、サンテグジュペリの「星の王子さま」という物語の中で、小さな王子がこのように語るシーンがあります。「水は心にだっておいしいんだ・・・」これもまた不思議な水です。いったい、心においしい水とはどのような水なのでしょうか。

この物語は、サハラ砂漠に墜落してしまった主人公である飛行士の回顧録として構成されています。飛行士は、サハラ砂漠の真ん中で、一週間分の水が入った水筒ひとつをたよりに、エンジンの修理にとりかかります。しかしついに、最後の一滴もなくなってしまいます。そのとき、王子さまは、砂漠の真ん中に井戸水を探しに出かけようと提案します。そこで彼は、王子について行くと、そこで、井戸水を発見します。

死ぬほど喉が渇いていたはずの飛行士は先ず、この王子のために水をくみ上げ、口元に運んで飲ませました。だからこそ王子には、「この水」が心においしかったのです。水には飛行士の心、真心がこもっていたからでしょう。また、この飛行士じしんも、こう語ります。「嬉しそうに飲んでいる王子さまを見て嬉しさがこみ上げてきた」と。実は、彼もまた、人に飲ませてあげることによって心においしい水を飲んだわけです。二人の心は響きあい、もう、そこで死んでしまっても構わないというくらいに、喜びと平安に満たされてしまったのです。

さて、主イエスは、こう宣言されます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」つまり、主イエスこそ、わたしたちの心においしい水そのものなのです。人間にとって、必要不可欠な「いのちの水」「永遠の命に至る水」なのです。

天の父なる神さまは、私どもの罪を、身代わりにして償わせるために、独り子なるイエスさまを十字架に送られました。天のお父さまは、このイエスさまにおいて、ご自身の愛のすべてを込め、ご自身の真心を込めて、私たちに与え、注いで下さったのです。主イエスこそ、神さまからのこの上ないプレゼントなのです。イエスさまこそ、わたしたちが生きて行くために絶対に必要な水、心の水、なくてはならないいのちの水、魂の水なのです。

ですから、私どもはもはや、この水を、どこかの砂漠の中へと探しに行く必要はありません。主イエスは、今ここに、私どもと共におられるからです。このいのちの水、心においしい水を、求める者に豊かに飲ませて下さるからです。どうしたら、この水を飲めるのでしょうか。とても簡単、単純なことです。イエスさまを信じることです。どうぞ今、私とごいっしょに、この水を飲み、うるおして頂きましょう。

最後に、既に、主イエスを信じ、いのちの水を飲んでいるキリスト者の方に申しあげます。いよいよ、私どもの心の泉、井戸を掘って頂きましょう。湧き上がるまで、掘りましょう。どうやって掘り進めることができるのでしょうか。それは、いのちの水を誰かと分かち合うことです。そのとき、永遠のいのちの水は、こんこんと湧き上がります。その喜びを味わうために、私どもは今日も礼拝し、そして伝道するのです。