過去の投稿2011年5月4日

「神の御顔の前で -勇気を出す秘訣-」

テキスト マタイによる福音書 第14章1-12節 
【そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。
ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。】

今朝からマタイによる福音書第14章に入ります。著者である使徒マタイは、イエスとはどのようなお方であるのか、どのような教えを語られたのか、どのような奇跡をなされたのか、丁寧に記してまいりました。まさにイエスとは、主イエス・キリストなのだということが、第13章までで、はっきりと示して来ることができたのだと思います。
そして、第14章からは、いよいよ、この主イエス・キリストが受難のご生涯、十字架へと向かう歩みをなさるために、この地上に来られたということを、丁寧に記して行きます。今朝の個所は、それを暗示させる、予告するような出来事から始まるのは、そのためです。

領主ヘロデは、主イエスのお働きぶりを聞き及びました。そして、心底、恐れています。何故、恐れる必要があったのか、それは、彼が殺したはずのあの洗礼者ヨハネが生き返ったという思いを抱いたからです。
その事件について、マタイによる福音書は、ここに書き記すわけです。

本日の主人公ともいうべきヘロデ、彼はヘロデ大王の子どもで、正式の名はヘロデ・アンティパスと言います。彼は、イスラエルの地の四分の一を治める支配者です。しかも、彼が治めたのは、主都エルサレムのある町ではなく、辺境の村、ガリラヤの周辺にすぎません。その意味では、絶対的な権力を持つ人ということではありません。

このヘロデは、先に、イスラエルの人々に神に悔い改めを呼び掛けていたヨハネ、洗礼者ヨハネを逮捕していました。何故、洗礼者ヨハネを逮捕したのかと言いますと、「ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったから」でした。旧約聖書のレビ記第18章16節によれば、兄弟の妻との結婚は、近親相姦として禁じられていました。ただし、例外はあります。それは、その兄弟が死亡しているならば、許されるのです。そこに、何があったのでしょうか。くわしくは、申しません。その背後に、不実があったことは、「ユダヤ人古代史」という歴史書が明らかに報告しています。

ヨハネの死は、決して、崇高な死なのではなく、実に、ひとりの政治家、権力者の戯れによって、正式な裁判にかけられることもなく、あっさりと殺される。あまりにも、理不尽な死なのです。マタイによる福音書は、ここで、イエスさまの先駆者、最後の預言者であったヨハネの殺害と、主イエスの殺害とを重ねてようとしているのだと思います。

さて、事件はこのように起こりました。時は、自分の誕生パーティーのことです。ヘロデ・アンティパスは、盛大な宴会を催したのでしょう。そして、部下や下級役人たち、そればかりか、もしかすると兄弟でもある同じ領主たちをも呼び集めたかもしれません。ローマ帝国の上役たちもそこにいたのかもしれません。

盛大な宴席において、なんと王妃ヘロディアの娘、つまり王女サロメが踊りを踊ります。そのようなことは、高貴な立場であれば、しないはずです。それをしたことによって、宴席は大変な盛り上がりとなったのかもしれません。ヘロデ自身も、大変喜び、すっかりハイテンションになったのだと思います。
それが大きな原因だったのかもしれません。彼は、王女にこう豪語します。
「願うものは何でもやろう」
まるでローマ帝国の高級官僚か、ほかでもない皇帝であるかのような発言です。彼自身は、そのような権力者ではありません。ガリラヤという田舎の村の一領主に過ぎないのです。「何を偉そうに」、ということになるはずです。自分の権力に酔ってしまったのでしょう。

妻、ヘロディアは、きっと、このことをいつも考えていたのでしょう、ここぞとばかり、チャンスとばかり、娘を呼び寄せ、まさに冷酷非道に命じます。「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」まことに恐ろしいほどの女性です。とても悲しいことですが、人間の中には、確かにこのような人もいるわけです。これが、我々の厳しい現実なのだと思います。

ただし今朝は、この現実、王妃の心においてあらわとなる現実を掘り下げる暇は、ありません。なぜなら聖書は、実に厳しことですが、しかし、とても冷静に、たんたんと報告しているだけだからです。

ただし一方で、この物語は、実は、世間では大変、有名です。福音書には記されていないこの王女の名前を、おそらく、多くの方々は知っているのです。それは、19世紀の作家、オスカーワイルドの「サロメ」という戯曲によって、描き出されたからです。サロメとは、ヘブライ語でシャローム、平和という言葉からとられた、もともと美しい名前です。

多くの芸術家、画家たちが、この物語を題材にしています。それに比べて、かえって聖書の方は、むしろ実に淡々と描きだしているという印象が際立ちます。
繰り返しますが、私どもが今朝むしろ集中したいこと、すべきことは、マタイによる福音書にしたがって、洗礼者ヨハネを殺すことを決断し、命じたこの王の問題についてです。彼は、王妃にそそのかされて王女が、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言」うのを聞いたとき、「心を痛め」ました。それは、嘘偽らざることなのだと思います。

この点で、実は、マルコによる福音書では、さらにこう記しています。「王は【非常に】心を痛めた」。マルコは、「非常に」と書きました。少しばかり心痛めたというのではありません。おそらく、ヘロデ・アンティパスは、「うわぁ、何ということを求めるのか、そんなことは想像もできなかった。余りにもひどい要求だ。余りにも許されない願い求めだ。あんなに正しく、聖なる人を殺すなんて、考えられないことだ。」このように真剣に苦しんだのだと思います。

マルコによる福音書には、こうも記されています。ヘロデは、洗礼者ヨハネのことを「正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」というのです。彼は、自分で逮捕しておきながら、決して、危害を加えなかったのです。おそらくは、ときどき、牢屋から連れてきて、聖書の信仰、神の掟を聞いていたのです。自分の不正、自分自身の罪をも糾弾する言葉には、まさに当惑、たじろいだわけですが、それでも、彼の説教の全体を聞くことを嫌がっていなかったのです。むしろ、マルコははっきりと、「喜んで耳を傾けていた」と言いました。

それなら、いったい何故、ヘロデは、このようなあり得ない決断を下し、命令を発布し、神の言葉を語る預言者、悔い改めへと導く洗礼を授けていた正しく、聖なる人をあやめてしまったのでしょうか。マタイによる福音書は、こう告げております。9節、「たが、誓ったことではあるし」誓ったことではあるし。確かに、聖書には、何よりも主イエスご自身が、マタイによる福音書大5章の山上の説教において、こう語られました。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。」しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。」したがって、誓いが大切だということは、当然のことです。けれども、偽りの誓ではなくとも、ここで、領主ヘロデが誓ったことは、まさに愚かな誓いです。高慢にもほどが過ぎるような誓いです。高ぶりです。

 けれども、ヘロデは、自分が権力者として誓った、そのことの筋を通そうと考えました。このような誓いそのものが愚かであり、無効であるはずです。しかし、大変な論理の飛躍のはずですが、かっこうはつくわけでしょう。誓いは守らなければならない。それが真実、誠実というものだ。自分は、自分の誓いに誠実に従ったまでだ。こんな、おかしな論理は、まさに裸の王様のようです。しかし、彼は、自分で納得したのでしょう。

わたしはこう考えますが、このような決断の、その心の奥には、これは、自分自身の願いではない。これは、王女の願いなのだ、その背後にある王妃、自分の妻の考えなのだ、自分はただ王の立場上、刑を執行する側であって、ここは、粛々と誓いに従って、洗礼者ヨハネの首をはねることが、筋を通すことなのだ。そのように、心に思ったのではないでしょうか。

何よりも、マタイはこのように指摘しています。「また客の手前」「客の手前」なのです。「いいかっこうし」という言葉があります。人に見られようとして、人の前で自分の行いを見せびらかそうとするのです。誰かによく見られたい、評価されたいということで、自分を飾るということなのでしょう。

自分のメンツや体面が気になるということだと思います。もとより、メンツや体面を気にしない人は、ほとんどいないと思います。自分の誇り、プライドというものを誰しも持っておりますし、それは、どこまでも尊重されなければなりません。

十戒の第9戒は、「偽証してはならない」です。これは、他人の人格、名誉を損なってはならないということが含まれています。ですから、私ども自身の誇り、プライド、神がそれをどれほど重んじておられるかということが分かります。ヘロデは、自分が誓った以上、それを引き下げることは、自分の権力に傷がつくとでも考えたのでしょう。自分の権力という誇り、プライドが許さなかったのでしょう。心に痛みを感じながらも、しかし、それよりも何よりも、結局は、「自分がかわいかった」ということだと思います。

さて、このヘロデの心の動き、その思い、わたしは、決して他人事とは思えません。いへ、まさにそれこそが、わたしの問題なのだと思わざるをえません。

もとより、このヘロデに、良心がないというわけでは決してありません。マルコが言うように、「その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」のです。まったくの悪人とかであるはずがありません。-そもそも、本来、そのような行動に出る人の背景を調べたら、ほとんどの場合、情状酌量の余地があるものだと、わたしは考えています。-
彼の良心は、痛んだのです。それは、事実なのです。けれども、問題は、それで終わりません。いかに良心が痛んでも、彼は、してはならないことをしたのです。死刑囚でもないヨハネ、むしろ犯罪者ではまったくないこの神の器、神の人を殺してしまったのです。

繰り返しますが、もし、ここに登場する人々を、自分とはまったくかけ離れた人たちだと、考えるなら、この聖書のテキスト、説教はまったく空しいでしょう。
ここには、主イエスごじしんが登場しませんし、福音的真理、メッセージが前面に出ているわけでもありません。しかし、この物語から、私どもは、まさに、人間とは何か、その罪深さを知らされる思いが致します。

以前にも、皆さまにご紹介したことがあるかと思います。私どもの教会にもお越し下さり、言わば決定的な影響を与えて下さった尊敬する渡辺信夫牧師のことが2010年1月の朝日新聞のインタビューのコーナーに掲載されていました。渡辺牧師は、私どもの教会の存在、その根源となった16世紀、教会の改革者、カルバンが著された、「キリスト教綱要」の翻訳者として有名です。しかし、渡辺牧師は、この教会の古典中の古典、宗教改革者たちの文書の中で、傑作中の傑作を、なんと、改めて翻訳しなおされたのです。その偉業が認められてのことでした。

さて、そこで、先生が語られた一言を、わたしは、おそらくは終生忘れられないと思います。学者というのは、真理そのものを、いとも簡単に、インタビューでも明らかになさるのかと思わされました。先生は、ご存じのとおり、従軍経験がおありです。しかも一兵卒ではありませんでした。海軍の中で、いわば若きエリートのひとりだったのです。兵士たちに号令をかける立場でした。

戦後、まさに、戦争に協力した罪を、まさに今日の今日まで、真正面から追及し続けておられます。ご自分の罪に真正面から向き合った人間です。

戦後、ご自分は、号令をかける立場に立ってはならないという、あるブレーキをかけておられるとのことでした。
インタビュアーは尋ねます。

「そうした考えや行動もカルバンと関係があるのですか。」「ええ。一番学んだのは、良心の問題です。一般にいう良心とは、世間並のレベルで自分を見つめるような意味合いかと思います。でも、カルバンの場合は、【神からさずかった自分じしんを見つめる目】とでも言うべき考えです。良心が対話できる相手は神しかいない。 彼は直接そう書いているわけではありません。けれども翻訳をしながら、わたしはしみじみ、そのように感じました。戦争体験と重ね、心にグサッと刺さることもありました。」

ヘロデ・アンティパスも、まさに世間並みのレベルで自分を見つめたのだと思います。痛んだのは事実です。けれども、問題は、それを深めようとはしなかったことです。王妃も王女も、その意味では、良い対話の相手になれるはずがありません。それなら、最後に、誰が残るのか、世間並のレベルでいえば、一般的にいえば、自分の心に問うということでありましょう。自分自身に問うのです。学校の先生方が、そのように教えて下さいます。わたしは、それをとてもすばらしいことだと思います。けれども、大変、申し訳ないのですが、それでは、限界があるはずです。その証拠の一つが、この物語です。

自分とだけ対話していれば、結局は、最後は、自分がかわいい、自分の考えが優先するのです。自分がこう考えているから、それがよいのだ。自分のなかで、いろいろと理屈をつけられるのではないでしょうか。
あのサマリア人のたとえのなかで、律法学者は、自分を正当化しようとして、「それなら、隣人とは誰ですか」と主イエスに質問したことを思い出します。自分と対話するところでとどまれば、自己正当化を乗り越えることができるでしょうか。自己中心、自己絶対化の壁を破壊して、突き進むことはできるでしょうか。

つまり、人間にとって、真実の対話の相手は、神さまなのです。私ども人間は、神に似せて造られているからです。何よりも、私ども人間とは、神のいのちの息を鼻に吹きいれられた存在なのです。それは、鼻に息を吹きいれると創世記の著者は、はっきりと記しました。そこに込められているのは、神の御顔と、人間の顔とは、向かい合っている、向き合っているというイメージです。人間とは、神に背中を向けてはならないのです。なぜなら、神さまは、私どもに背中を向けてはおられないからです。つまり、神は、私どもを愛し、いつくしみ、その聖なる、やさしい、愛の御顔を私どもに向けておられるからです。

そして、人類最初の人アダムは、神さまの御顔から、御口から、「いのちの息」を、つまり、神ご自身の永遠のいのちを与えられたのです。それは、言葉を換えれば、神と交わる特権です。神が人間を話し相手としてくださったのです。そのようにして、私どもは生きることができるのです。つまり、人間にとって生きるとは、この神さまの御顔の前で生きる以外にないということです。神さまとの対話、会話、つまり、交わりなしに、人間は生きれないのです。

土のちりでつくられただけなら、他の動物と同じなのです。どれほど、知性があり、知能が発達していても、それだけでは、聖書は言います。人は、本来の人としては生きていないのです。

人は、神さまに愛されるとき、神さまの愛のまなざしの中で生きるとき、本当に生きれるのです。神は、そのようにして、今朝も、今この時も、世界中の人々に愛のまなざしをもって、対面しておられます。みつめておられます。

ところが、人類のなお多くが、とりわけ、この国に生きる人々は、この神の御顔の前に来ようしません。生きようとしません。
私ども教会、キリスト者が伝えないからかもしれません。その力が弱すぎるからなのかもしれません。

父なる神は、背中を向け続ける私どものために、独り子を遣わして下さいました。私どもの背中を、たたいてくださいました。振り返るようにと、この地上に来て下さいました。そのようにして、私どもの目の前に立って下さったのです。十字架についてくださったのも、お甦りになられたのも、すべては、私どもを、神のいのち、永遠のいのちの交わりへと取り戻して下さるためでした。

今朝、わたしどもはここで、父なる御神の御顔の前におります。共に、顔を挙げ、心を挙げて、天にいます父なる神を仰ぎ見ています。そこで、信仰の眼に映るのは、父なる神と天に戻っておられる御子イエス・キリストが、ご自身の霊にほかならない聖霊を、私どもに注いでおられる事実であります。私どもは、ここで、このように父と子と聖霊の神のいのちのもてなしを受けて、生かされているのです。神の愛の顧みの中に、置かれているのです。父と子と聖霊の交わりの中に招き入れられ、包み込まれているのです。母親が乳飲み子をやさしく、しかししっかりと抱いて、乳を飲ませている、ようなそのイメージすらわたしは抱きます。このようにして、声を掛けられています。その声は、神のいのちの言葉です。その声に耳を傾けることが、礼拝式です。そして、祈りに他なりません。つまり、神を礼拝することこそ、私どもがそこで良心を磨き、人間として新しくされる道、人間として復活する道であり唯一の方法なのです。

そして、いうまでもなく、それは、日曜日、主日礼拝式だけのことではありません。毎日、神に顔を挙げる。つまり、聖書を開き、読んで、お祈りをするのです。それが、人間なのです。それが、生きることなのです。そのとき、私どもは、Coram Deo!神の御顔の前に、健やかに、しかも勇気を出して生きることができるのです。もはや、人の顔色をうかがいながら、自分のメンツにこだわらなくてよくなるのです。そのような生き方、あり方から解き放たれるのです。主を仰ぎ見て、真実に生きる力、しっかりと勇気を受けましょう。

祈祷
私どもに愛のまなざしを注いでおられる主イエス・キリストの父なる御神、今、私どもはあなたの御前におります。あなたの愛といのちを、あなたの口から注がれています。いのちのパンを今朝も頂いています。どうぞ、あなたとの対話の中で、私どもの良心を磨き、鍛え、勇気をもっていついかなるときも、あなたを選び、あなたのみ心を選んで、歩めるように導き続けて下さい。あなたから目をそらし、祈りを怠るそのとき、わたしどもは疲れ、みじめになりますから、力強い御手をもって、とらえ続けて下さい。教会を、私どもひとりひとりに、やさしく、力強く、語りかけ続け、私どもはしっかりと聴き続け、従う者とならせて下さい。アーメン。