過去の投稿2011年5月22日

「ボランティアか、ディアコニアか」

★     「ボランティアか、ディアコニア(ディアコノス=奉仕者)か。」  

明朝、中部中会第一回定期会決議に基づき、宮城県にある東北中会諸教会に、問安のため出発致します。その際に、万一に備え、「ボランティア保険」に加入することを同道の教師方にお願い致しました。今、被災地へボランティアに行く方々には、必須、常識的なことのようです。

   私どもは、「ディアコニアに生きる教会」を目指して歩み始めて第6年目を迎えました。東京告白教会の長老をお招きして、教会全体研修会を開催しました。その後、読書会において、ほぼ一年かけて「ディアコニア・その思想と実践」という書物を学びました。その中から、「ハート・ステーション 親と子のための電話相談」や、ひとりの委員のホームレスの方への給食、また、地域の子らへ夜の見回りというディアコニアの実践がなされてまいりました。昨年は、教会周辺の清掃がなされました。しかし、率直に申しますと、私どもの教会のディアコニアの実践は、なお模索状態にあったことは明らかです。

  しかし、そのような未熟な教会であってもなお、今回の大震災へのディアコニアは、ディアコニア支援室を中心に、皆さんの奉仕が集められ、献金もまた多く集められました。そして、それは何よりも常に、「教会の」ディアコニアとして位置付けられました。

  さて今、大会でもボランティア募集、登録がなされています。わたしは、このボランティアという表記に、強い違和感を覚えます。たとえば救援物資を集め、送るという「執事的奉仕」を、ボランティアと呼ぶのでしょうか。呼ぶべきでしょうか。これは、「教会の務め=職務」としての奉仕ではないでしょうか。

 既に、「ボランティア」は、日本語になり(定着し)ました。自発的に行う奉仕活動をボランティアと呼ぶのだと思います。この「自発性」は、実は、聖書の中に出て参ります。Ⅱコリントの信徒への手紙第9章7節にこうあります。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」献金についての勧めの箇所です。Ⅰペトロの手紙第5章2節にも、あります。「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。」これは、牧師への奨励です。

確かに、教会の奉仕は、まさに、自ら決めるべきことなのです。自発性が重んじられます。 ただしそれは、「無責任」とは無縁です。わたしどもは、神の民、キリスト者、教会の一員として、その報告責任を、神に持ちます。人生は、神の決算、審判のもとにあります。神から与えられた賜物をどのように管理し、行使したのか、一人の例外もなく、神が問うてくださいます。そして、それは、終わりの時だけではなく、地上にあっては、教会の前でも、報告責任があります。

入会志願者との学び会で、このように確認致します。先週に引き続いて、学びのプリントから引用します。

「奉仕は、自発的に見出し、宣教教師の了解のもとに主に捧げるものです。あなたは、この務めにあずかることを喜びをもって志すのですか。」

ここでも、「自発」性が語られています。しかし、同時に、「宣教教師の了解のもと」ともあります。これは、奉仕の目標が、ただ神の栄光のため、教会を建て上げるためだからです。教会を建て上げるという全体の働きの中で、組み合わされながら、会員ひとりひとりの奉仕は、豊かな、正しい実りを結ばせられて行くわけです。その意味では、教会の奉仕は、「自分勝手な」奉仕ではあり得ません。

   遠回りをしました。ボランティアは、自発的になすわけで、基本的には、責任がありません。(もとより、保険に入るのが常識ですから、自己責任が問われます。多くの場合は、組織の中で動くわけですから、組織の規制の中で、協調性をもってなさなければなりません。しかし、くり返しますがあくまでも、やめたくなれば、やめても誰にもとがめられません。

しかし、ディアコニアは、違います。それは、神の召しなのです。神に責任を負うのです。したがって、祈ることからしか始まりません。祈りの中で、御言葉を受け(御心を知り)、応答するものなのです。したがってまたそれは、キリスト者個人のものではなく、彼が属する教会に責任を負います。 ディアコニアとは、教会の働きなのです。たとい個人が担う場合も、教会員として働くのです。私どもは、今後なお、少しでも、隣人となるスキルを磨くこと、強さをも持つこと、何よりも「憐れみのこころ」に満たされることをこそ、祈り求めます。強さを求めつつもしかし、弱さのあるままで、その弱さを通して隣人との絆が結ばれて行くはずです・・・。<