「まことの信仰、いつわりの信心」
2011年5月15日
テキスト マタイによる福音書 第15章1-20節
【そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。
「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。
イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」】
さて、今朝から第15章に入ります。第14章は、三回の説教で取り扱い、学びました。これまでのペースと比較しますと、かなり、早いペースになりました。しかし、今朝は、さらに長い個所を、一気に一回で学び、神を礼拝します。また今朝の個所は、極めて厳しい論争の物語です。先週や、先々週のように、主イエスの恵み深いみわざが記されているわけではありません。むしろ、極めて厳しい叱責の言葉が記されています。その意味では、キリスト者でない方にとっては、余り興味のない個所として読み飛ばされるかもしれません。しかし、もしも、キリスト教信仰とはいかなるものなのかということを、知ろう、知りたいと願う方には、まさにふさわしいテキストであるのです。一字一句を丁寧に読む、時間は限られています。しかしここから、主イエスが何を告げようとしておられるのか、その真理をざっくりと学んでまいりたいと願います。
さて、出来事は、ファリサイ派の人々、律法学者たちが、はるばるエルサレムからイエスさまのもとにやってくるというところから始まります。このとき主イエスが、神の国の到来を伝えておられたのは、ガリラヤ湖周辺の村々でした。そして今は、ゲネサレトというまさに片田舎にいらっしゃいます。そこに、エルサレムから宗教指導者たちが駆けつけてきたわけです。エルサレムとは、イスラエルの首都です。神殿がある場所であって、ユダヤ教の本部、本山、つまり、宗教的権威の座なのです。言わば、政治と宗教の中心地、宗教的権威からの激しい批判、クレームが主イエスに突き付けられているわけです。
彼らは、もはやこれ以上、イエスが活動を広げて行くとのを断じて、黙認できない、容認できない、もはや、何としてもこれをやめさせなければならない、そのような強い意志があります。だからこそ、エルサレムから直線距離でも100キロも離れているイエスさまを探し出して、厳しい批判、叱責を浴びせるのです。
彼らは、こう批判します。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」「食事の前に手を洗いなさい」もしかすると、この命令は、まるで、幼児や小学生の子どもをしかる親のような言い方のようにも受け止められるかもしれません。しかし、彼らにしてみれば、事は、重大でありました。彼らは、こう批判したのです。「イエスの弟子たちが、食事の前に手を洗わないことは、ユダヤ人として、ありえないことではないか。外で活動している君たちなら、そこでうっかり異邦人と接触してしまっているかもしれないではないか。だったら、汚れてしまっているではないか。汚れを清めようともしないままで、食事をすることは、神への不信仰、不熱心、いや冒涜に当たるではないか。」
もしかすると、我々には、それでも、なんだかピンとこないように思えるかもしれません。彼らは、神を重んじることを、異邦人とは付き合わないことを結び合わせて考えたのです。異邦人と付き合わない行為、遠ざける行為が、神を大切にすることになっていたわけです。
さて、いったい何故、ユダヤ人はこのような掟をどんどん、作り出して行ったのでしょうか。そのことを、私どもは「律法主義」と表現します。律法主義とは、十戒に代表される神の掟を、自分たちが守ることによって、自分たちが、神の前に正しい人間、優れた人間、評価される人間であるとするのです。
ユダヤ人は、神を信じる民です。神を信じないユダヤ人など、言葉の上で成り立ちません。それに比べて、現代の日本人、日本の社会は、そうではありません。ただしかつては、天皇を神としていた時代があります。それを思い起こせる方は、おそらく、ここでのお話は、なお分かりやすくなるかと思います。
あの当時、権力者、政府は、天皇を絶対的な存在にまつり上げました。天皇じしんもそれを積極的に進めました。そして、政府は、言わば、よい国民であることを、どんどん、競わせるように仕向けました。反対に、よい国民でないものは、非国民と言うレッテルを張ることによって、天皇を中心とする国家、政府の意のままに、従う国民を作ったのです。非国民のレッテルをはられたら生活する上で大変なことになってしまいます。まことに巧妙なことですが、人々は、いよいよ、自分たちがよい「臣民」国民ではなく、天皇の民となるように競争が始まって行くわけです。恐ろしい「からくり」と言わざるをえません。
少し、おさらいをします。すでに、第6章また第12章でも学びました。ユダヤ人たちは、旧約聖書に記されてもいない掟を、「これが神の掟である、神の律法である」として、自分たちでどんどん新しい規則をつくりました。その最たるものが、「安息日規定」でした。十戒の第4戒に、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」とあります。
十戒は、10の愛の言葉が記されていますが、前半の1~4の掟は、神と人間との関係を規定しています。後半の第5~第10までは、人と人との関係を規定しています。そもそも、神と人間との間の戒めは、見えない神さまとの関係を定めるものですから、目に見えてこない部分、つまり心の部分、内面を規定するものと言えると思います。しかし、第四の掟だけは違います。ここだけは、しっかりと見えてくるのです。なぜなら、まことの信仰は行いを伴うものだからです。そもそも、人間とは、単に心の中、頭の中だけで、生きているわけではありません。心と体の全体で生きています。信じることもまたまったく同じです。つまり、真の神を信じるとき、それは、当然のことながら、その人の生活のすべてに反映されてゆくことになります。
したがって、ここでこそ第四戒の存在、重みが、際立つことになるわけです。旧約の時代、安息日は土曜日です。土曜日という時間の中で、その人がどこにいて、何をしているのか、それは、どうしても見えてきます。心と思いとが、どこにあるのか、それは、見えません。しかし、安息日を守っているかいないかは、見えてくるわけです。やはり、真実に神を神としているのであれば、その人は、安息日を神さまのために捧げる。神さまのために用いようとする、礼拝に集中し、御言葉を学ぶことに集中しようとするのは、当然になるわけです。
ユダヤの律法学者たちは、安息日の規定に、仕事をしてはならない、そのとき、どのようなことまでが仕事になって、ならないものとは何か・・・。何メートルまで移動するのは、安息日に許されるのか。火を起こすことは仕事になるのか、ならないのか、そのようなことを議論し、新しい掟として、これを言い伝えて来たわけです。神の掟の上に、自分たちの言い伝えを加えて行こうとした理由は、まさにそこにあります。つまり、ここでこそ、信仰に差をつけられるからです。評価の基準、評価のポイントをたくさん、作って行けば、それだけ分かりやすくなるからです。ここに先ほどの「カラクリ」が生じやすくなるのです。
その人が、その掟を守っているかどうか、心の中は、分からないのですが、行いの部分、行為の部分、目に見えて表れてくるその部分の掟を、たくさんつくれば、それだけ、守れる人にとっては、より高い自己評価を下せることになるというわけです。つまり、力のある人、強い人は、ますます、弱い人を見下す、その口実をつくれることになってしまうのです。その意味で、人間がくわえて行った掟は、事細かなものになればなるほど、強い人をより強くし、弱い人々から際立たせ、祭り上げる効果があるのです。
さて、私どもの主イエスは、彼らにどのように対応なさったのでしょうか。主イエスは、容赦なく、徹底的に、まさに言葉の正しい意味で、いのちをかけて、彼らを批判し、対決なさるのであります。それを、一言で表現しているのはおそらく「偽善者たちよ」です。きわめて厳しい言葉です。「偽り者!」この偽善者という言葉は、すでに、先ほど申しました第6章、また第12章でも出てまいります。第6章では、人々の見ている前で、わざわざ自分がお祈りしているのを見せびらかそうとする人々に対してでした。第12章では、安息日に弟子たちが麦の穂を摘んでいることをとらえて、厳しく攻撃をした律法学者たちに対してでした。ここでも、同じです。
ここでの主イエスの批判とは、このようなものです。人と人との関係を定める戒めの中の第一は、第5戒です。「父と母をうやまへ」さらに、レビ記第20章9節には、こうあります。「自分の父母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。父母を呪うことは死罪に当たる。」つまり、父母を敬うことがどれほど大切で、根本的なことであるのかを神が明らかになさったのです。
これは、神の掟です。神が制定なさいました。ところが、主イエスは、彼らがしていることは、この神の掟を、公然と破っていると批判されたのです。神の掟を破っても、言い逃れる道、その抜け道を作っているのだと厳しく指摘されます。「こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」
つまり、たとえば、こういうことです。母の日に、お母さんにプレゼントをする場面を想像してみてください。息子や娘が、「お母さん、お母さんにプレゼントするためにセーターを買いました。けれども、申し訳ありませんが、神さまへの捧げ物にさせていただきました。すみませんがご了解ください。」もし、神さまに捧げるという理由があれば、親不行は、認められるというわけです。神さまを理由にして、親の世話をしない、親の面倒をみない、とにかく、親不孝は帳消しにされるというわけです。彼らが考えだした掟には、そのようなものがあるらしいのです。しかし、主イエスは、このような振る舞いに対して、まったく妥協なさいません。厳しく対決なさいます。お許しにならないのです。
さらに、主イエスは、それは、ただご自身が語られることではなく、すでに大昔から、預言者によって、つまりイザヤ書に警告されていることなのだと、神の御心を明かされるのです。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』」
イザヤは、口先だけの信仰と心の底からの信仰とを分けています。そして、口先だけの信仰は、人間の戒めを尊重することだけだと指摘します。そして、それに反比例するかのように、人間の戒めを重んじるとき、神の戒めはいよいよ軽んじられて行くと指摘します。
確かに彼らも、神の御名を唱えるわけです。しかし、神の言葉を預かるイザヤは、それを、主の御名をみだりに唱えることにほかならないと断罪するのです。人間の戒めを重んじることで、「神さま、神さま」と唱えているだけだからです。それは、空しいものなのです。そこには、まことの信仰の実態がないからです。心が共なっていないからです。同時に、まことの行いも共なっていません。だから、まさに、空虚、むなしいのです。預言者イザヤは、「むなしくわたしを崇めている」と神の怒りを語って告げます。実にそれこそ、十戒違反なのです。第三戒、「主の名をみだりに唱えてはならない」に違反しているのです。確かに、この当時のユダヤ人も、またおそらく多くの現代のユダヤ人の方々も、主なる神を礼拝します。神礼拝こそいちばん大切とおっしゃるはずです。しかし、実際は、どうなのかとの問いがここで主イエスによって建てられているわけです。主イエスは、神ではなく、人間、自分たちの教えを大切にしているだけで、神を軽んじている、主の御名をみだりに唱えているだけなのだと問われるのです。これは、極めて深刻です。預言者イザヤの言葉に重みがあるのは、当然でありますが、ここでは、礼拝されるべきご本人、イエスさまがこう断罪なさっているのです。もう、いかなる言い逃れもできません。
さて主イエスは、群衆に、この真理をきちんとわからせるためになさった心からの譬えが記されています。わたしの個人的な思いかもしれませんが、ここで、主がなさった説教は、いささか礼拝の中での言葉にはふさわしくないような表現と思ってしまいます。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
さらに、弟子たちがなおきちんと悟っていないことを案じられたイエスさまは、こう語りなおされました。「口から入るもの、つまり食べ物は、汚くない。皆さんは、お腹から出る排泄物を汚い、不潔と言うかもしれません。しかし、人間の口から出てくるもの、つまり、心から湧き上がることば、それこそが、汚いものなのです。不潔なものとなるのです。」
主イエスは、ここで、十戒を数えあげられます。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口など」これらは、すべて人間の心の中にある思いです。心の動きです。それらを数えられます。これは、結局、十戒の中の掟です。最初に第6戒が挙げられました。「あなたは殺してはならない。」つまり悪意であり殺意のことです。次に、第7戒です。「あなたは姦淫してはならない。」つまり、姦淫、みだらな行いです。次に、第8戒です。「あなたは盗んではならない。」最後に、第9戒です。「あなたは隣人について偽証してはならない。」嘘や悪口、陰口のことです。
このような行為は、心の中からわき起こってまいります。本当の汚れ、汚さとは、人間の外にあるものではなく、人間の心の中にあるものだということです。宗教の定められた儀式を規定された通り行うかどうか、これまでの言い伝えにおいて加えられてきた掟において、その人の信仰を評価することは、基本的には、人間にはできないということでしょう。
主イエスは、こう仰るのです。「父なる神が見つめておられることは、手を洗うかどうかというではない。神が手を洗うことを神の民に義務つけられたのは、神の民の自由、幸福、健康のためなのです。そのことによって、人間が、人として汚れてしまうわけではないのです。掟を守るとは、神に対する真実、神に向かう誠実、その目に見えない部分にこそ真実があり、それを求めるためのものなのです。何よりも、大切なことは、汚れているか、どうかを判定なさるのは、律法学者でも人間でもなく、ただ神のみです。」
最後に、もう一度、問いましょう。律法学者、ファリサイ派の人々は、何故、神の掟に、人間の掟を付け加え、聖書に記されたつまり文書化された律法ではなく、言い伝えを重んじたのでしょうか。それは、生ける神を、人間の頭の中に閉じ込める行為なのです。あるいは、人間をはるかに超越する生ける、創造者なる神を手のひらに握りしめる行為です。それは、生ける神より解釈する自分の方をより高くするためなのです。それを、故意に、積極的に、自覚的にしたのかどうか、それは、今朝は問いません。しかし、している現実は、まさにそのようなことになっているのです。
そして、何よりも今朝、私ども、キリストの教会こそ、この物語を読む意味はどこにあるのでしょうか。これは、決して、昔話では終わらないからであります。今もなお、「聖書、聖書」と力んで叫ぶキリスト教的宗教は盛んです。自分たちは、聖書を重んじている。聖書主義だなどいうことを力説するキリスト教は少なくありません。時に、私ども、日本キリスト改革派教会も、聖書を重んじる教会なのだと、力を込めて自己紹介するときがあります。せざるを得ないときがあります。
ただし、そのように聖書を大切にし、聖書に忠実であると主張しながら、多くの場合そこで何が行われているのでしょうか。それは、その聖書を解説してみせる指導者のまさに自分勝手な、ひとりよがりの解釈でしかない場合が多いのではないでしょうか。
教会の信仰告白、たとえば、ニカヤ信条から離れて、聖書を解説しようとすれば、それはただちにいわゆるキリスト教異端となります。彼らは、自分たちこそ聖書に忠実なまことの宗教であるとか、真実のキリスト教を標榜します。しかし結局は、それを起こした教会、宗教の指導者が考えだした神、死んだ神をむなしく崇めているだけです。わたしは、それらの宗教のすべてが、指導者たちが神になっているとは、申しません。確かに神を大切にする、重んじると言う純粋な気持ちがあるのだろうと思えることもあります。しかし、主イエスご本人は、おっしゃいます。結局、神を真実には重んじてはいないのです。
人間は、神を自分の手の平の中に収めたいという、まさに恐るべき偶像礼拝の罪の心があります。神を理解したいと願いがら結局、神のご意志を、人間がその指導者が決める。決めたいわけです。そこで、自分の立場、自分の今の都合が優先させたくなる誘惑があるのです。それこそが、実は、神を神としないことです。
ある大統領は、自分たちの戦争行為、戦闘行為を、神の正義、神の名のもとに正当化したことがあります。それもまた、人間の言い伝えを優先するといことに他なりません。こうして、歴史の中でどれほど、神を第一にする、神を重んじると言いながら、結局は、人間の言い伝え、人間の伝統、宗教指導者たちの、人間の自己正当化のための宗教です。その宗教とは、結局は、自分を他人より優れたもの、価値ある者、善き人間であることを、宗教の面で、精神生活の面で自己主張する道具になり下がります。経済的な裕福さ、社会的な立場を競うことを見下しながら、しかし、今度は、もっと巧妙な自分の正当性を担保し、神に認められていると自分自身がうぬぼれ、安心できる、機能にしてしまうのです。そこに、宗教の危険性があります。これは、決して、自分たちはキリスト教だ。ユダヤ教でもイスラームでもない、だから偶像礼拝のような罪や過ちを犯していない、とは、全くならないのです。キリスト者たちこそ、この物語を読んで肝に銘じなければなりません。
今朝の説教題に、信心という言葉を用いました。ここでの信心とは、まさに人間が人間のために作り出す宗教のことです。それは、たとい宗教を平和の道具、心の安定、すべてよい目的のために作り出そうとしても、そのような企てじたいまことの信仰とは無縁のものなのです。それなら信仰とは、何でしょうか。それは、生きておられる神が、お与え下さる道です。神がお与え下さる救いの道です。神が人間求める事です。神に喜ばれること、神のみ心を優先することです。私どもは誤解してはなりません。間違ってはなりません。神が、私どもに手を洗うことをお求めになられたみ心は、私どもが健康に、人間らしく、幸福に、自由に生きること、それのみです。掟を守ること、それは神を神とすること、神に従うことであって、それは、まさにただちに、人間の利益になるのです。神の掟は、決して、人間をランク付けしたり、優越感をくすぐらせたり劣等感を持たせたりするなど、まったく考えられていません。そのような人間の宗教、人間の信心に惑わされてはなりません。また自ら、そのような罪を犯してもなりません。
主なる神ご自身が、主イエス・キリストご自身が、そのために、いのちをかけて、人間の作り出した信心、宗教と戦って下さったのです。そして、真の信仰を取り戻して、私どもに与えて下さいました。私どもはそれを福音と呼びました。喜びと幸福の知らせです。罪人を、あるがままで受け入れ、罪を悔い改める者を憐れみ、一方的に赦される主イエス・キリストの十字架とご復活の恵みです。私どもは、ここに立っています。そうであれば、ただひたすら謙虚に、ただ神に感謝し、そして、志を新たにして神の与えて下さった十戒に生きようとするのみです。もとより、十戒を守るから、神に愛され、赦されるのではありません。愛され、赦されているから、何度失敗しても、立ちあがって神の掟の自由と幸いに生きるのです。
祈祷
あなたを信じる者だからこそ、陥りやすい罪、危険を思います。ただ恵みによって救われた私どもが、まるで、自分の力で救いを完成できるかのように思うとき、私どももまた、2000年前の律法学者、ファリサイ派と同じ罪を犯します。どうぞ、私どもが真実に罪人であることを、悟らせ、悔い改めさせて下さい。今あるのは、ただあなたの赦しに生かされ、守られていることを深く、悟らせ、感謝と喜びに生きる者とさせて下さい。常に、生けるあなたを畏れ敬い、生きた真の信仰へと進み行かせて下さい。あなたのみ心をわきまえ、あなに喜ばれること、あなたの栄光を求める道へと常に立ち返らせて下さい。アーメン。